海の塩の匂いが、窓の隙間からふわりと車内に入り込んできた。
柔らかな潮風がカーテンのように揺れ、午後の陽を頬に落とす。
オーブの海沿いの道を、一台の車が静かに走っていた。
ハンドルを握るのはボク。隣にフレイ。
後部座席では、ハロアインがさっきまで跳ね回っていたが、今は大人しく膝の上で丸まっている。
穏やかで、静かな時間。
けれど、ふと、ひとつの疑問が頭をよぎった。
「……あ」
思わず漏れた声に、フレイが横目を向ける。
「なによ?」
「……なんでもない」
気配を振り払うように、前を向いたまま答えた。
だが、当然のように追及の声が返ってくる。
「なんでもなくないでしょ、それ。気になるじゃない」
「だから、本当に――」
言いかけて、言葉を呑んだ。
だけど、たぶん――逃げてはいけない気がした。
だから、ボクは静かに告げる。
「……多分、聞いちゃいけないことだと思う」
「なによそれ、ますます気になるんだけど!」
フレイがぐいっと身を乗り出す。
ハンドルに手を添えていたボクの腕を掴んで、引っ張ってきた。
「わっ、ちょ、危ないってば!」
「言ってよ、ねえ、言いなさいよ!」
「わかった! わかったから、放して!」
慌てて腕を振り払い、ハンドルを持ち直す。
少し走って、沈黙。
アクセルの音だけが、車内に響いていた。
やがて、ボクはぽつりと尋ねる。
「……その、キラとは……どうなったの?」
「キラ?」
フレイは一瞬、驚いたような顔をして、それからすぐに笑ってみせた。
「どうもなってないわよ。ただの友達よ」
「でも……なんか、特別っていうか」
そう言いかけたボクの声を遮るように、フレイが小さく笑みを深めた。
「いいの。彼には“居場所”があるんだから」
その言葉とともに、フレイは膝にハロアインを抱き上げる。
軽い機械の身体がくすぐったそうに揺れた。
「ヤ、ヤメロ! ツミブカキコドモ! アハハハ!」
「うるさいわね。あんたはおとなしくしてなさい」
叱りながらも、フレイの表情はどこか柔らかかった。
――ただ、その横顔の奥。目元に浮かんだかすかな陰りだけが、ボクの胸に引っかかった。
“居場所”、か。
口にしたその言葉が、やけに深く、ボクの胸に染みこんでくる。
ボクの居場所は――いったいどこにあるのだろう。
ナタルとバスク。そして、今、隣にいるフレイ。
そのどれもが、たしかに温かい。
けれど、そこに“自分がいていい”と、胸を張って言えるかは……まだ、わからない。
そっと視線を上げる。
窓の向こうには、きらめく海の光。
潮風に髪が揺れるのを感じながら、ボクはただ、その広がる青に目を向けていた。
オーブの街に着く。
海風が吹き抜ける石畳の通りを、車を降りたボクたちは歩き出した。
ボクとフレイ、そして後ろからぴょこぴょこと跳ねるハロアイン。
「そういえば、買い物って言ってたけど……何を買うの?」
何気なく問いかけると、フレイはちらりとボクの服に目を落とした。
袖なしのニットトップスに、赤いラインの入ったレギンス。
――いつも通りの格好だ。
「……予定変更よ」
「へ?」
言葉の意味を問う間もなく、フレイはすたすたと大きめのファッションショップに入っていく。
ボクは少し不安になりながらも、後を追った。
「服……? ボク、これ、いっぱい持ってるよ」
「同じのばっかりじゃない!」
フレイがぴしゃりと断言し、息をついた。
その口ぶりには呆れと、少しの諦めと――なぜか楽しさが混じっている。
やがて、棚からふわりとした、見慣れないタイプのワンピースを手に取ると、ボクに差し出してきた。
「これ、着てみなさい」
「え、なんで?」
「いいから!」
押しつけられた布を見つめながら首をかしげる。
着てみるのはいいけど、別に今ここで――
そう思って、服を脱ごうとしたその瞬間。
「ちょ、バカッ!? どこで服脱いでるのよ!? 試着室に行きなさい!!」
「えっ?」
フレイの叫びと同時に、腕をつかまれ、強引に試着室へと押し込まれる。
数分後。
「……着替えたけど」
カーテンをそっと開けて見せると、フレイがふいに言葉を失った。
「……似合ってるわね」
その目が、ほんの少しだけ、優しく揺れていた。
「ナンタルキカクガイ!ゲヒンナスガタダ! ゲヒン!」
隣でハロアインが謎の言語で叫び、ぺし、とフレイの手が振り下ろされる。
「……あんたは黙ってなさい」
ボクは静かにため息をついた。
「……もう、いい?」
「いいわけないでしょ! 次いくわよ、次!」
――始まってしまった。
こうなったフレイは、止まらない。
このあとボクは、色違い、型違い、なぜかゴスロリ風やお姉さま風まで、
数えきれないほどの服を着せ替えられる羽目になるのだった。
◆
無機質な鉄の匂いと、油の残り香が、沈黙の中に漂っている。
ブリーフィングの喧騒も、戦闘の緊張も届かない、閉ざされた空間。
その中央に、一機のMSが、まるで獣のように身を潜めていた。
フォルムは鋭利、逆関節の脚は深海の捕食者を思わせる異形。
青を基調とした機体色に、鈍いグレーのアクセントが走る――
これは、俺の機体。ネオ・ロアノーク専用の、特別仕様のハンブラビ。
……隣に。
いつも、もう一機いたような気がする。
肩を並べ、出撃前に無言で交わす視線。何かが……そこに、確かにあった。
だが、その“何か”が何なのか、思い出すことができない。
思い出そうとすれば、頭に鈍痛が走る。
「……関係ない」
わざと心の中で呟いて、そのままハンブラビへと足を向けた。
梯子を上り、コックピットへと身を滑り込ませる。
座席に深く沈み、スイッチを順に入れていくと、パネルが淡く光り始めた。
AIが起動シーケンスを無機質に読み上げる。
『出撃準備完了。発進どうぞ』
整備士たちが手を挙げ、次々と格納庫の扉が開かれていく。
機体はリニアレールへと滑り込み、出撃ゲートに向かって進んでいく。
コックピット内に、振動。
音を殺した、確かな覚悟の鼓動が、機体と共に高鳴っていく。
「――ハンブラビ、ネオ・ロアノーク。出る」
その一言を口にした瞬間、世界が変わった。
ブースターが咆哮し、光の尾を引いて――
ハンブラビは、戦場という名の空へ、再び舞い上がった。
静寂が破られ、戦いの幕が、再び、開かれる。
◇
無音の虚無に、漆黒の機体が静かに躍り出る。
その姿は、闇に紛れる深海の獣――ハンブラビ。
戦場は、すでに明滅を始めていた。
敵の残光が、星屑のように軌跡を描く。
前方、レーダー反応――ザフト製ゲイツ三機。
「まずは……肩慣らし、ってとこか」
照準マーカーが赤に染まる。
一瞬のタメもなく、引き金を引く。
紫電のようなビームが走り、敵機を正面から貫いた。
――爆散。
「一機」
すぐさま左右から回り込む二機目、三機目。
だが、その動きすら予見していた。
連続で放たれた二発のビームが、時間差で空間を裂く。
――爆散。
敵の機動をすべて読み切った上での、最小限の動き。
一機の“人型兵器”が、まるで舞を踊るかのように三機を屠る。
仮面の下で、自然と口元が吊り上がる。
快感。これこそが“本能”だった。
その時――
アーモリーワンの影から、新たな光が現れる。
三機の新型ガンダム。
それらを遠巻きに見つめ、ネオは舌を巻くように小さく呟く。
「……来たか」
奪取された最新鋭機たち。
連携はまだ甘いはずだが、機体性能は折り紙付きだ。
だが――違和感。
その背後。
一拍遅れて、もう一機の機影が現れた。
シャープな輪郭。禍々しくも洗練されたシルエット。
他の三機とは違う、“何か”を纏っている。
「なるほどねぇ……もう一枚、隠し玉があったわけだ」
ネオはハンブラビを変形させ、宇宙の瓦礫に溶け込む。
光と影の境に身を伏せ、モニター越しに新型の挙動を観察する。
「俺の見落としか……それとも、ザフトの“後詰め”か。どっちにしても……」
視線を戻す。
先行する三機のガンダムは、ガーティ・ルーへと帰還を始めていた。
「……行くぞ」
変形を解いたハンブラビが、その身を雷鳴のように駆け出す。
重力も音もない宇宙空間を、一直線に、鋭い矢の如く切り裂いていく。
「さぁ――その機体も、頂こうか!」
トリガーが引かれる。
解き放たれた紫の光が、真空を裂いて標的へ一直線に突き進む。
ビームが、宙を裂いた。
だが――標的のガンダムは回避した。
「チッ、やるな……インパルス……」
呟いて――自らの声に、凍りつく。
“インパルス”
初めて見るはずの機体だ。
コードも、名称も、誰からも教えられていない。
なのに――この胸の奥には、確信があった。
それが“インパルス”だと。
仮面の内側、額に熱が走る。
圧迫感。軋むような違和感。何かが奥底から這い上がってくる。
そのとき――
インパルスの反撃。
意識が逸れていた分、反応が遅れる。
「クソ……! 戦闘中だぞッ!」
怒鳴るように言った声は、自分に向けられていた。
苛立ち。動揺。だがそれ以上に――どこか懐かしさが痛い。
直後、背後から殺気。
「ッ――!」
即座に反転。
視界の端に映るのは、白いザクウォーリア。
そのパイロットと――目が合ったような気がした。
咄嗟にビームを放つ。
だが、相手は滑るように回避する。
「避けるのかよ……エースってやつか!」
呟きながら、思わず口調が崩れる。
リズムがずれる。
仮面の奥で、“何者として話しているのか”自分でも分からなくなる。
「……っ、なんだ……この感じは」
記憶の底が軋む。
“誰か”の影が、水底から浮かび上がってくる。
その瞬間、警報が鳴った。
新たな反応――ザフトの新型艦がこの宙域に出現。
ビーム砲が閃き、空間を焼く。
「艦まで出してきやがったか……上等じゃねぇか!」
言葉とは裏腹に、心は冷静だ。
主砲の照準が正確すぎる。――これ以上は危険。
「……欲張りすぎは、命を落とすな……」
低く、かすれた声が漏れた。
仮面の奥に、自嘲が浮かぶ。
即座に変形。通信を開く。
「こちらネオ・ロアノーク――ガーティ・ルー、撤収する!」
機体が再加速する。
漆黒のハンブラビが、宇宙を駆ける疾風となって――
戦場を後にした。