結局大掃除は夕方になるまで続いた。
「はぁ~つかれたぁ~」
「こりゃ海は明日だな……」
「だな」
「みんなお疲れ~お茶いれたよ~」
装備――もとい掃除用具を女将に返却し、一息ついていた明彦と奏の前に茶碗が二つ置かれる。
テーブルの上を見るとそれ以外にも四つの茶碗があった。
「あっ、すいません立花先輩。
言ってくれたら俺がやったのに。
先輩も疲れてるでしょ?」
空いている茶碗に次々と緑茶を注いでいく美華に明彦が言う。
「いいのいいの、気にしないで?
合宿中はみんな無礼講だよ!」
「よし、サンキューな美華!」
奏は一度頷いて茶碗に注がれた緑茶を一気に飲み干す。
「お前……いくら無礼講だからってそれは……」
「この合宿は親睦を深めるのが目的なんだから別にいいんだよ。
寧ろこれくらいじゃないと!」
咎めるような視線を送る明彦を宥めるように美華が言う。
「ふふふ、美華は本当に変わったな。
去年なんて部屋の隅でずっとちっちゃくなっていたのにな」
薫が笑みを浮かべながら机の前に座ってお茶を啜る。
「うん。
本当に、広瀬君には感謝しないとね……」
美華は優しく微笑みながら明彦に視線を向ける。
「いっ、いやいや!
べつに俺はなんにも……」
明彦は頬を赤らめながら慌てた様子で言う。
「そんな謙遜すんなって、俺だってお前には感謝してんだぜ」
奏が明彦のうなじから腕を廻して顔を寄せる。
「だからそんな感謝されるような大したもんじゃねぇって……」
明彦は口ごもりながらそう言うと、正面に座る雪菜をちらりと見る。
雪菜は心なしか不機嫌そうな様子で無表情のまま茶碗を傾けていた。
(俺は、やっぱり冬野にも笑ってほしいな……)
笑顔で溢れている自分の周りを見て、明彦は素直にそう思った。
「ほら、草苅君もそんなところにいないでこちらに来たらどうだ?」
薫が障子の奥にある椅子に座ってノートパソコンを見詰める誠を促す。
しかし誠は一切の反応を見せない。
「先輩、こっちで一緒にお茶飲みませんか?」
そんな誠に対し、明彦がやれやれといった様子で言う。
「悪い、今いいところだから……」
が、誠は画面から一切目を離さずそう応える。
よく見るといつも通り目深に被ったフードからイヤホンのコードが覗いていた。
(あっ……アニメ鑑賞中でしたか……)
明彦は呆れた様子で誠を見ると、ふと思う。
(そういえば草苅先輩もあんまり笑わないよな……
まぁ冬野みたいに笑うことに嫌悪感みたいなのを持ってる訳じゃないんだろうけど……
先輩にももう少し笑ってほしいかな……)
「ふっ……」
突然誠が鼻で笑いを浮かべ、口元を僅かに吊り上げる。
(うっ、うん……
出来れば現実の人との関わりで笑ってほしいな……)
「よし、ではそろそろお風呂にしようか。
ここは露天風呂だぞ!」
暫く他愛もない事を駄弁りながらのんびりしていると、薫が満を持した様子で言う。
「露天風呂!?
猿とか居るのか!?」
「おい、ここどこだと思ってんだ?
ガッツリ関東だぞ?
猿なんていねぇだろ……」
「関東だって居るところは居るだろ」
「残念だけどここには居ないかな……
お猿さん……」
「ちぇ、なんだ……」
明彦と奏の喧嘩に美華が蹴りを付けると、一行はいそいそと浴場に向かう準備を始める。
「ははは、じゃあみんなで移動しようか」
薫はそう言いながら部屋の外へと歩みを進める。
明彦達はそれに続き、丁度きりがよかったのか誠もいつの間にか準備した洗面用具を抱えて最後尾を追う。
それに驚いた明彦は尻目で後方を確認する。
すると、視界の隅に雪菜の姿が入った。
雪菜は無言のまま茶碗に残る黄緑色の液体を見つめていた。
「…………」
明彦はその姿に哀愁を感じつつもそのまま流れに任せて浴場へと進む。
―大浴場―
「見事に誰もいないな……」
明彦は露天風呂に立ち込める湯気達を見ながら呟く。
この旅館(?)の客足の無さは先程女将が実証済みなので当たり前といえば当たり前なのだが。
無人の露天風呂というのはどうにも不気味な感じがしてならなかった。
「この宿経営大丈夫なのかな……」
「これはこれは……
俺達の貸切状態じゃねぇか。
何と無く心踊るものがあるな」
「そうですかね?
確かに漫画とかでありがちですけど……」
不意に背後から誠の声が聞こえ、明彦がそう言いながら振り替える。
「――っ!?」
しかし、明彦は誠の顔をみた瞬間驚愕の表情を浮かべる。
なんと誠は大きめの手拭いをまるで頭巾のように頭に巻いていた。
(どんだけ顔みられたくないんだ……?)
普段通り顔に影がかかり顔の判別がしずらい誠に対し明彦はそう思った。
「あの……先輩?」
明彦は恐る恐る誠の手拭いを指差す。
「ああ、これ?
気にすんな。
どこで誰が見てるか分からないからな」
誠はそう言いながら平然とシャワーの前へと歩いていく。
(えっなに?
先輩、犯罪者かなにかなの……?)
そんな誠の後ろ姿を見ながら明彦は言い知れぬ不安に駆られていた。
「ふいー」
体を洗い終えた明彦はおもむろに湯船に浸かり、一日の疲れを癒すように溜め息をつく。
誠はというと少し離れたところで背景と見紛うレベルで微動だにせず佇んでいる。
こうなるともう一人きりで入っているのと大差無い。
「はぁ……」
「おお、ここが勇者達が傷を癒す神秘の泉か!」
「そっ、そうなのか……?」
「薫ちゃん違うよ!?
違うからね!?」
明彦が湯気で霞む夜空を仰ぎ見ながら溜め息を吐くと、竹を並べたようなデザインの壁によって仕切られた向かい側から声が聞こえた。
(あの人達今まで何してたんだ?
……まぁいっか)
明彦はゆっくりと身を湯に沈める。
全身の筋肉と神経を緩め、安心しきった様子で瞼を閉じる。
「会長やっぱ胸でかいな!」
「ちょっ、神崎さん!?」
「そうか?
人と比べた事がないから分からんな」
「いやいや、これはなかなか……」
(またベタな話題を……)
「神崎さんいつまでに薫ちゃんのおっぱい揉んでるの!?
あとなんで薫ちゃんもなにも言わないの!?」
「ぶふぅ!!??」
予想外の展開に思わず明彦が勢いよく息を吹き出す。
「いや、スキンシップの一環かと……」
「にしてもやり過ぎだよ!?」
「そうなのか?」
「なにいってんだ、こんくらい普通だって!
ほれほれ、美華もなかなかでかいじゃんかよぉ!」
「きゃっ、ちょっ神崎さんやめっ……!」
バシャァッ――
「どうした?
顔真っ赤だぞ?」
勢いよく湯船から立ち上がった明彦に誠が不思議そうに尋ねる。
「いえ……
ちょっとのぼせたんで先上がります」
「ったく……神崎のやつ……
酔っ払った中年オヤジかっての……」
浴衣に着替えた明彦は僅かに赤らんだ顔のまま呟く。
完全に乾ききっていない髪を首に掛けたタオルで吹きながら廊下を歩き、部屋の襖を開ける。
「うおっ!?」
誰も居ないと予測していた明彦は、無言で小説を読む雪菜の存在に思わず驚きの声を漏らす。
「なに?
私が居たらダメなの?」
雪菜が突き刺さるような視線で明彦を一瞥して言う。
「いや、そうゆう訳じゃ……
お前もみんなと一緒に風呂行ったもんかと……」
明彦が少し申し訳なさそうに弁解する。
「あの後誘われたけど断った」
「うん、まぁ、そうするよな……」
明彦は雪菜の痣を思い出して視線を落とす。
「なあ……冬野?」
明彦が雪菜の正面に移動して座る。
「なに?」
雪菜は活字の羅列を見つめたまま応える。
「お前ってなんで笑いたくないんだ?」
明彦のその言葉に、一瞬雪菜の瞳が大きくなる。
「なんでそんな事訊くの?
私だって笑うときは笑うわよ」
「嘘だな。
前絶対笑わないとか言ってたし、俺がお前の笑った顔見てから態度変わったじゃん。
なんか理由があんじゃないのか?」
「べつにそんなの私の勝手じゃない。
それに、広瀬君には関係ないでしょ?」
雪菜は鬱陶しそうに答える。
「関係無くない。
俺はお前の友達だ。
友達が苦しんでるなら力になりたいんだ」
「あんまり調子に乗らないで……」
雪菜はおもむろに本を閉じ、凍てつくような目付きで明彦を睨む。
「なんなの?
先輩と神崎さんを助けてすっかりヒーロー気取り?
バカじゃないの?」
「いやっ、べつに俺はそんなつもりで言った訳じゃ……」
雪菜の威圧的な雰囲気に明彦は尻込みしながら応える。
「じゃあなんで私にしつこく付きまとうの!?
ほんっとに迷惑千万なのよ!」
「だからそれは……」
「私がいつ苦しいなんて言ったの!?
私がいつ助けてなんて言ったの!?」
雪菜は明彦の言葉を遮って畳み掛けるように言葉を紡いでいく。
「もういい加減に放っておいてよ……
私は変わる気なんかないし絶対に変わらない。
だからもう、お願いだから私に関わらないで……」
「冬野……」
悲し気に目を伏せる雪菜に明彦がなにか声を掛けようとするが、手頃な言葉がなかなか出てこずに思わず口ごもる。
「いやぁいい湯だったな」
「そうだね~」
そうこうしている間に薫達が談笑しながら部屋の襖を開ける。
「お風呂、誰かいましたか?」
それを見ると、雪菜今までのやり取りなどなかったかのように薫に尋ねる。
「いや?
私たち以外には誰もいなかったぞ?」
「やっぱり猿もいなかった……」
「ちょっと期待してたんだ……」
薫の後ろから呟く奏に、美華が苦笑いを浮かべる。
「そうですか」
雪菜はそう応えると、机の上に置いてあった小説を手に取り、手際よく洗面用具を準備する。
無言で部屋を出ようとする雪菜に薫達が思わず道を開ける。
「なんか、あいつだけ雰囲気ちがくないか?」
実は先程から部屋にいた誠が呟く。
((いや、お前が言うなよ……))
誠の発言に明彦と奏の脳内ツッコミがシンクロする。
―数時間後―
部屋は消灯され、部員達は各々の布団に潜り込んで寝ている。
雪菜が風呂から戻り、用意された食事を終え、枕投げ等をするわけでもなく現在に至っている。
因みに男女計六人が同じ部屋で寝ているのだが、配置としては上から見て女子四人が横に並び、足下に男子二人が縦に寝ている。
あと食事は予想に反して豪華で美味であった。
そんな中、明彦は未だ寝ずに 布団の中で携帯電話の画面を見つめていた。
『やっほ~調子はどう?なにか進展あった?』
画面にはそう記されている。
萌からのメールである。
『なにもないですよ。それよりなんであいつはあんなに頑なに笑おうとしないんですかね?』
明彦がそう返信すると少し間があってメールが返ってくる。
『さぁ・・・でももしかしたらうちの教育方針が原因になってるかも』
『教育方針?』
『うん、ちょっと長くなりそうだから電話で話したいんだけど、大丈夫?』
『分かりました、ちょっと待って下さい』
明彦はそう返信すると、周りの人を起こさないように静かに、且つゆっくりと起き上がり、廊下へと続く襖へと向かう。
「どこ行くんだ?」
明彦がそろりと襖を開けると、溢れた灯りが目に入ったのか、一番端で寝ていた奏が尋ねる。
「ちょっと……トイレに……」
突然かけられた声に明彦は肩を跳ね上がらせて驚くが、咄嗟に適当な嘘で誤魔化す。
「……そうか」
寝惚けているのか、奏はそう応えると反対側に寝返りをうって再び眠ってしまったようであった。
明彦はほっと一息つくと、橙色の灯りで満たされた廊下にでる。
『準備できました』
そっと襖を閉めてメールを送ると、数秒後に携帯 電話のバイブ音が唸りを上げる。
画面には冬野萌の文字が表示されている。
明彦は携帯電話の画面を指でスライドさせて通話状態にしてからそれを耳に持ってくる。
「もしもし?」
最初に明彦が声を掛ける。
「あっ、もしもし?
ごめんねぇ~こんな時間に。
ほら、私の仕事って時間不規則だから」
一辺の罪悪感も感じられない口調で萌が謝罪する。
「そうですか……
それで、冬野が笑わない理由が親の教育方針にあるかも知れないってどうゆう事ですか?」
萌の言葉を軽く流し、明彦は話を本筋に戻す。
以前親から家庭内暴力を受けているという話を聞いていた明彦は、親から「うざったいから笑うな」等といった酷い言葉を雪菜が受けていなのではないかと心配になる。
「うん、うちの親――っていうかお父さんは仕事が忙しくて殆ど帰ってこなかったから正確にはお母さんだね。
うちのお母さんはすっごく明るくてさ、どんな辛いことがあってもいっつもにこにこ笑ってたんだ……
それでね、そんなお母さんが私達に言うの。
笑顔には不思議な力があるの。
辛い時に笑えばまだ頑張れる気がする。
悩んでるときはちっちゃな自分がバカらしくなる。
他の人の笑顔を見ると自分も幸せな気分になれる。
笑顔は自分も、周りの人も一歩踏み出す力をくれるの。
自分も人も幸せにしてくれるの。
だから、一杯笑えばきっとみんな萌と雪菜の事を好きになってくれる。
困った時に助けてくれる。
世の中笑って暮らしてれば何事もいい方向に向くものなのよ。
ってね」
「なんか随分楽天家なお母さんですね……」
想像とは対照的な言葉に、明彦はほっとするとの同時に違和感を覚える。
「ってかそれとあいつが笑わないのは関係無くないですか?
寧ろ真逆っていうか……」
「うん、問題はそこなのよ。
私と雪菜は言われた通りに一杯笑って過ごしたわ。
お母さんの言った通りに私には沢山友達が出来た。
特に雪菜は本当によく笑う子で顔を想像したら笑顔しか浮かばない程だったのよ。
多分雪菜にとってあの時のお母さんの存在はとっても大きなものだったと思う。
だから離婚した後の荒れたお母さんに絶望してきっと……」
「っていうと尊敬してた人の言葉が全部嘘だった感覚なんですかね?
お母さんの言葉は嘘だった、私は騙されていた、だからもう笑いたくない……
みたいな感じなんですかね?」
「うん、多分……」
明彦の推察に萌が悲し気に同意する。
「そんなに……変わっちゃったんですか?
その、お母さん……」
この前の萌の様子から悪い意味で劇的に変貌した雪菜の母親を想像し、明彦が恐る恐る尋ねる。
「うん。
私が戻った時にはお母さんも、雪菜も全然笑わなくなってた。
それどころかお母さんは凄い恐い顔だったし部屋もあれ放題だった。
本当に、私が一緒に暮らしてた時とは何もかもが変わってた……」
「…………」
僅かに震える萌の声に、明彦はなにも答える事ができずにいた。
慰めればいいのか、こんな事を訊いてしまった事を謝罪するべきか、それともそのまま受け流すべきか、明彦は必死に頭の引き出しから適当な言葉を探す。
兎に角相槌ぐらいは打っておこうと明彦が口を開いたその時、不意に襖が開く。
「――!?」
特にいけない事をしている訳ではないのだが、明彦は反射的に後ろを振り返り耳に当てていた携帯電話を後ろに隠す。
「……?」
闇の中から姿を現した雪菜が不思議そうに明彦を見つめる。
「どっ、どうした?」
「……トイレ」
雪菜は寝惚けているのか、慌てた様子の明彦を気にすることなく気の抜けた声で答える。
「そっそうか、気を付けてな」
明彦がそう言うと、雪菜は頭が重そうにコクりと頷いて進路を左に変更する。
明彦はそれを確認すると、ほっと一息ついて雪菜に背を向けて再び携帯電話を耳に当てる。
「あっ、もしもし?
すいません途中で黙っちゃって……」
「も~ビックリしちゃったよ。
なんかあったの?」
萌の明るい声に、明彦は再び安堵の表情を浮かべる。
「ちょっと部員が起きてきちゃいまして……」
「えっ!?
今みんなが寝てる部屋の中なの!?」
「あっいえ、部屋からはちゃんと出てますよ?
他人に聞かれたらまずい話してますし……」
「そっか、よかった」
「あの――」
明彦が今後の作戦の方針を仰ごうとしたその時、後ろから誰かに服を引っ張られたような感覚がした。
なんだろうと思い明彦が振り返ると、そこには雪菜が相変わらずの無表情で明彦の服を掴んでいた。
「どっ、どうした……?」
明彦が緊張した面持ちで尋ねる。
「トイレ……」
「お、おう……早くいってこいよ」
「トイレ……」
「いや、だから――」
「どこ……?」
「そりゃお前……」
明彦はそう言いながら闇に沈む廊下の深淵を指差すと、続く言葉が分からなくなる。
(そういえば、トイレってどこにあるんだ……?)
「すいません、ちょっと緊急事態でして……
今日はこれで失礼します。
また今度お願いします」
明彦が雪菜から顔を反らし、小声で萌に言う。
「あっ、うん。
分かった。
よく分からないけど頑張ってね」
萌はそう応えると静かに電話を切る。
「もうちょい頑張れそうか?」
明彦が携帯電話をしまいながら尋ねると、雪菜は無言で頷く。
「多分風呂場にならどっかに便所ぐらいある筈だ」
そう言って明彦は雪菜を引き連れ浴場に向かって歩き出す。
が、
(あれ……?
風呂場ってどっちだっけ……?)
真夜中の独特な雰囲気のせいか、それとも妖怪的なものの類いの悪戯か、明彦達は道に迷っていた。
先程は同じような条件にも関わらず一人でも難なく部屋に戻る事が出来た。
しかし、どうも今は勝手が違う。
あの時よりも廊下が長く感じるし隅に落ちる影もより闇が深く見える。
なんならいつこの世のものではないものが現れてもおかしくないような空気である。
「まだ……?」
雪菜もこの空気に恐怖感を覚えたのか、僅かに服を摘まむ手に力を込めながら尋ねる。
「ごめん、多分もうちょっとだから……」
明彦がそう告げて止めていた足を再び動かす。
が、その足はすぐに止まってしまう。
「おっ、おい冬野……今奥の方でなにか動かなかったか……?」
明彦が怯えた様子で廊下の奥を指差す。
「さぁ、私はなにも見えなかったけど……」
雪菜が素っ気なく答える。
「そっ、そうだよな、見間違えだよな……
うん、こんな時間に人なんか――」
明彦がそう言いかけると、廊下の奥でなにか人影のようなものが蠢く。
「ねえ、やっぱりなんかいたぞ!?
なんかいたよ今ぁ!」
明彦が恐怖に満ちた表情で雪菜の肩を揺する。
「うるさいなぁ、知らないよそんなの……」
雪菜は明彦に揺すられるままに首をかくかくさせながら気怠そうに言う。
「でも今……!!」
明彦が必死な形相で先程なにかが蠢いた方に顔を向ける。
すると、
「どうかしましたか?」
そんな言葉と共に一人の老婆が下の方からぬるりと現れる。
「ぅぃやあぁぁぁ!!
でっ、でたぁぁぁぁぁ!!」
明彦は驚きのあまり恥もプライドもかなぐり捨てて雪菜に抱き付く。
「んん゛~?」
雪菜は面倒臭そうに目を指で擦って目の前に現れた老婆を見直す。
「広瀬君、これ、女将さんだよ……」
「え……?」
呆れた様子の雪菜の言葉に、明彦はそっと後ろを振り返る。
「どうも」
そこにはにこやかな笑顔で頭を垂れる初老の女性――もといこの宿の女将が立っていた。
「あっ……どうも……」
明彦は雪菜から離れ、気まずそうに挨拶を返す。
「どうかしましたか?」
再び女将が尋ねる。
「いやあの、風呂場……っていうかトイレを探してまして……」
「お風呂場でしたらもうすぐそこですよ?
脱衣場にお手洗いもあった筈です」
女将は数メートル先を指差す。
「あっ、そうでしたか。
ありがとうございました」
「いえいえ」
明彦は礼を言ってから女将の横を通り過ぎる。
すると、間もなくして浴場の暖簾が見える。
(マジでめちゃくちゃ近いじゃん……
なんで気づかなかったんだろ……)
「ちょっと行ってくるから待ってて」
自分の観察力の無さに僅かな呆れを抱いていると、雪菜がそう告げる。
「おう、分かった」
明彦がそう応えると、雪菜は無言でトコトコと女と書かれた暖簾を潜る。
明彦は軽く一息ついてついさっき女将とすれ違ったばかりの廊下に目をやる。
(あれ……?
女将、もういないんだけど……)
その日明彦 が最も戦慄を覚えた瞬間であった。
それから少しして雪菜が脱衣場から顔をだす。
「待たせてごめんね」
「いいってべつに」
謝る雪菜に明彦がそう答えて二人は部屋に向かって歩き出す。
「広瀬君て、優しいよね」
「なんだよ急に」
唐突な雪菜の言葉に、僅かに頬を紅潮させながら明彦が言う。
「困ってる人がいたらとことん助けようとするし、頼まれたら断れないし、お人好しだし……
それに、こんな私の我が儘も聞いてくれる」
「なんかそれだけ聞くとすっごい都合のいいやつみたいだな……」
明彦が微妙そうな表情を浮かべる。
「違うの……?」
「ちげぇよ!
……多分。
ってかお前はそう思ってたの!?」
「冗談だよ」
明彦のツッコミに雪菜は一言そう応える。
「それで……さ、そんな広瀬君と私って釣り合わないと思うんだ……
勿論友達としてね」
「おい、冬野……?
なに言ってんだ?」
雪菜の言葉に、信夫の頭が一瞬真っ白になる。
「私って、嫌な子でしょ?
ひねくれてるし、変なことで怒るし、その……暴力も振るうし……
だから、私なんかと友達してても広瀬君は迷惑しかかからないと思うの。
現に一杯迷惑かけて困らせてるし……」
雪菜の手がそっと明彦の服を掴む。
彼女の声はどこか寂しげで、切なくて、それでいて無理をしているようにも聞こえた。
「なっ、なに言ってんだよ……まだ寝ぼけてんのか?」
明彦は言葉だけは辛うじて平静を保たせたが、内心は訳の分からない焦燥感でぐちゃぐちゃに乱れていた。
なぜだか、雪菜の次の言葉を聞いてはいけない、言わせてはいけないと思った。
しかし、明彦の心情とは裏腹に雪菜はその薄い唇をゆっくりと動かす。
「だから、広瀬君は私の事嫌いになっていいんだよ?
無理して、友達なんて言ってくれなくていいの……」
「おい……なんだよそれ……
俺が無理してお前と一緒にいると思ってんのか!?」
明彦は思わず雪菜の前に立ちはだかり彼女の小さな両肩を手で掴む。
「そんなわけないだろ……!
お前はこの学校に来て初めて俺に優しくしてくれた大事な友達だ!
そんなやつを嫌いになる訳ないだろうが!」
明彦がそう言うと、雪菜の体がゆっくりと明彦の体に凭れる。
「えっ、ちょっ、ええっ!?
どっ、どどどどうした冬野!?」
突然の出来事に明彦は声を上擦らせながらあたふたと両腕を遊ばせる。
「……ってあれ?」
が、暫くして異変に気づいた明彦はそっと視線を落として雪菜の顔を見る。
前髪が邪魔だったので、手で撫でるように横に流す。
「すぅ……すぅ……」
見ると、雪菜は可愛らしい寝息をたてながらすやすやと眠っていた。
「本当に寝ぼけてたのかよ……」
明彦はその様子を見ながら呆れた様子で呟く。
「ってか普通あのタイミングで寝るか?
漫画かっつ~の……」
明彦は溜め息をつくと、雪菜の体が倒れないように支えながら体を反転させる。
そして、慎重に雪菜を背中に乗せ、明彦はそのまま廊下の闇の先へと消えるのであった。