当然といえば当然なのだが、結局雪菜はそれ以降海に来ることはなかった。
明彦は重たい心と体を引き摺り女将に借りた道具一式を返却する。
「随分お疲れのようですね」
「ええ、まぁ……色々ありまして……」
女将の声に明彦が適当に応える。
「良かれと思ってした事がかえって相手に嫌われる結果となってしまった――
そんな顔をしておられます」
女将の言葉に、明彦は驚いた様子で彼女の顔を見る。
「当たってあるようですね」
「ちょっと、違いますかね……
悪いのは俺なんです。
俺が……酷い事を言ってしまったから……」
明彦が悲し気に視線を落とす。
「あなたはそれを何回も?」
「まぁ、そうですね……
かれこれ三回は確実に怒らせてます……
もう関わるの止めようかなって思ってます。
向こうも迷惑そうですし」
「果たしてそうでしょうか」
意味深な言葉に明彦が落としていた視線を持ち上げる。
「その人は本当にあなたの行為だけに怒っているのでしょうか。
本当にあなたの行為が嫌だから嫌っているのでしょうか……
他に別の理由があるとは思いませんか?」
「いや……でも……」
「あなたが正しいと思ってやったことです。
途中で諦めずに、もう少しがんばってみてはいかがでしょうか」
「はあ……」
女将の言葉はゆっくりではあるが、どこか有無を言わせないような威圧感と信頼感があった。
「しかしです、いくら自分が正しいと思っていてもそれが間違い続けるとどうなるでしょうか。
先程のあなたのように途中で折れて二度とその行為を出来なくなるかもしれません。
程々に、引き際を考えて行動することをお勧めします」
「えと……女将さん、昔なんかしてましたか?」
あまりにも迷いなく小難しい言葉を並べていく女将に疑問をもった明彦が尋ねる。
「ええまあ……ここで働く前にちょいと占い師をしていましてね……
ふふふ……」
女将はそう答えると含み笑いを浮かべながら物置部屋を後にする。
「…………マジで女将さん何者……?」
女将の謎過ぎる経緯に明彦は表情に影を落として女将が去った後を見つめる。
「はぁ……結局女将さんは何が言いたかったんだ……?」
明彦はそう呟きながら廊下を進み、ゆっくりと自分達の部屋の襖を開ける。
すると、雪菜が少し驚いた表情でこちらを見ていた。
現在部屋に雪菜以外の人は居ない。
「……なんだ、広瀬くんか」
雪菜はそう呟くと手に持っていた小説に視線を戻す。
「なんだとはなんだよ……
他のみんなは?」
明彦は細やかな反論をしてから尋ねる。
「お風呂」
雪菜はページから目を話さずぶっきらぼうに答える。
「そっか……」
明彦はそう言って机を隔てて雪菜の正面に座る。
「なあ冬野……」
「なに……?」
雪菜は少し面倒臭そうな口調で応える。
明彦は雪菜が一応は反応を見せてくれる事を確認すると、ゆっくりと口を開く。
「その、今日は……じゃないな……
今日もごめんな……
俺、バカだからさ……お前の気持ちも、自分がいっている言葉の意味もよく考えないで……本当に申し訳ないと思ってる」
「そう……」
「一応言い訳させてもらうとあれはお前のお母さんを侮辱した訳ではないんだ。
本当に……」
「うん、分かってる」
「分かってたのに怒鳴ったのかよ……」
「だから謝った。
あの時はなんか頭に血が上っちゃってて……」
「なるほどね」
「ところで広瀬くん」
「えっ、なに?」
突然名前を呼ばれ、明彦は少し動揺した様子で言う。
「広瀬くんは本当に人の気持ちは考えれば分かると思う?」
「そりゃ、流石に全部は無理だろうけど……そこそこは分かるんじゃないのか?」
明彦は困惑した様子でそう答える。
「私の気持ちは誰も分かってくれなかった……
昔も、今も……」
雪菜の言葉が胸に突き刺さり、明彦は思わず苦い表情を浮かべる。
「だっ、だったらさ、分かってもらえるようにもっと感情を表に出したらどうかな?」
「…………私、意識して感情を押し込めてるつもりはないんだけど……」
「そっ、そうですか……
それは失礼しました……」
ジトッとした視線を向けられ、明彦は気まずそうに謝罪する。
(嘘つくんじゃねぇよ……
前に絶対に笑わないとか言ってたじゃねぇか)
明彦がそう思いながらそらしていた視線を再び雪菜に戻す。
すると、少し遅れて襖が開き、薫達が部屋へと入ってくる。
「おお、広瀬くんお疲れ。
先に湯あみさせてもらったぞ」
「ああ、はい。
じゃあ俺も風呂入ってきます」
明彦はそう言って荷物から洗面用具を取り出して立ち上がる。
「うむ、明日はまた電車やらバスやらで大変だからな。
今日のうちに疲れをとっておいた方がいいぞ」
「はい、分かりました」
明彦はそう返すと廊下の奥へと消えていく。
明彦が風呂から戻ると、夕飯の支度がされていた。
合宿最後の晩餐ということもあり、会話も弾む。
しかし、部員達の顔がどれだけ笑顔に溢れようとも、自分が笑いの種を撒こうとも、やはり雪菜の口元はピクリとも動かない。
やがて夕食も終わり、膳を下げられた部屋に各々が布団を敷く。
電気を消し、部員達は布団に潜り込む。
ふと明彦が携帯に目をやるとメールが一通届いていた。
送り主は萌であった。
なんだと思い明彦は画面をタップしてメールを開く。
『やっほー☆元気?いやぁさっきめちゃくちゃ雪菜に怒られちゃってさぁ。私の予想外れてたんでしょ?なんかごめんね。私の力はもう貸せないけどあとはあなた一人でもやれるよね?私応援してるから、ガンバ!』
(イラッ)
明彦はそのメールを読むと、無言で部屋を出ようとする。
「どうしんだ広瀬くん?」
異変に気付いた薫が尋ねる。
「ちょっと……トイレです」
「おっ、おう……そうか。
気を付けるんだぞ」
(そんなに限界が近いのか……?)
怒りを孕んだ明彦の言葉に気圧されつつ薫が応える。
「はい……」
明彦はそう言って部屋を出た後、
「すいません、私もトイレ行ってきます」
少ししてから雪菜もそう言って部屋をあとにする。
部屋を出た明彦は地団駄を踏むように廊下を歩き、通話履歴の欄から萌に電話を掛ける。
これで萌が電話に出なければ諦めようと思ったが、三回目の呼び出し音で電話が通じる。
「もしもし?」
「もしもし、広瀬ですけど……冬野萌さんでしょうか」
「やだなぁ、どうしたの?
かしこまっちゃって」
「どうしたもこうしたもないですよ!
なんなんですかあのメールは!」
可笑しそうに笑う萌に、明彦が口調を強めて言い放つ。
「え?
一応謝罪文のつもりだけど?」
「マジですか……?」
萌の社会人とは思えない言葉に、明彦の頭も冷える。
「今よくこの人社会人やってんなとか思ったでしょ。
会社とかであんな謝罪文は書かないよ、流石に」
その言葉に、一度は下りていた血が再び頭に上る。
「なんなんですか!
あれだけ煽っといて最後は丸投げなんですか!?
大体、あなたがあんな事言わなければ……!」
明彦は我ながら滅茶苦茶な事を言っていると、こんな事ただの八つ当たりにしかすぎないと、分かっていた。
しかし、雪菜に対する行き場のない不安が、悲しみが、明彦の意思を無視して言葉となって飛び出していく。
「お姉さんがあいつを変えてくれとか言わなければこんなに気負う事もなかった……!
こんなに深く突っ込もうとは思わなかった……!
お姉さんが親の事なんて言わなければ……!
俺は……俺は、あいつに嫌われたくなんてなかった……」
「うん。
それは本当にごめん。
私もかなり浅はかだったよ……
雪菜にもおんなじような事言われた」
「え……?」
「あまり広瀬くんを唆すなって、お姉ちゃんのせいで傷つくのは私だけじゃないってね」
「あいつが……そんなことを……?」
萌の言葉に、明彦が驚いたような表情を浮かべる。
「うん、だからあとは一人で頑張ってって言うのはそうゆう意味なんだよ。
私はあなた達の為にもう余計なちょっかいは掛けない。
それにどうせ私の開示できる情報はもうないしね」
「そう……だったんですか……
よく考えずに怒鳴ってすいませんでした……」
「いいのいいの、ふざけたメール送った私が悪いんだし」
「本当ですよ……!」
明彦はメールの文章を思いだし、怒りの籠った声で応える。
「あはは……
まぁとにかく、今確実に分かっている事は雪菜はあなたのこと嫌いなんかじゃないってこと」
萌は笑って明彦の怒りを受け流すと、纏めるようにそう告げる。
「はあ……そうだといいんですけどね……」
「大丈夫、大丈夫。
普通なら嫌いな人の心配なんてしないでしょ?」
「まぁそうなんでしょうけど……」
(あいつは優しいからな……
嫌いな人間に気をきかせることもないとは言いきれないよな……)
「あまり気負わずにゆっくり関係を直していくといいよ。
もう、私のお願いの事は忘れていいから……」
どこか哀愁の籠った声音で萌が言う。
「そう……ですか……
でも出来る限りの事はしたいと思います。
きっとそれがあいつと仲直りできる一番の近道だと思うんで……」
「そっか……じゃあ頑張ってね。
私は影ながら応援してるから……」
静かに、しかし力強い明彦の声に、萌は安心した様子で応える。
「はい、ありがとうございます。
すいませんでした」
明彦はそう言って通話を切る。
そして、染みだらけの薄暗い天井を仰ぎ見て溜め息をつく。
「さ~て、こっからどうするかな……」
襖が静かに開き、雪菜が部屋に足を踏み入れる。
「ん……?
早かったな」
微睡んでいた奏が雪菜に気づいて声をかける。
「うん、まぁ……ね……」
雪菜はそう応えながらスタスタと自分の布団へ向かって歩いていく。
「…………?」
奏は何と無くその行動に違和感を覚え、上半身を起こして雪菜を見る。
雪菜は早々と布団にくるまって横になっていた。
(なんだろ……なんかあったのかな?)
奏はそう思いつつも言及することはなく、静かに体を寝かせて再び瞼を閉じる。
俺は……俺は、あいつに嫌われたくなんてなかった……
明彦は先程そう言っていた。
そして、その言葉を影で聞いてい た雪菜は気付いた。
今まで自分は自分と同じ苦痛を明彦に与え続けていた事に。
人に嫌われる辛さを雪菜はよく知っていた。
(私が中途半端だから……
だから広瀬くんを傷付けるし、広瀬くんは私を嫌いになってくれない……
もっと、徹底しないと……)
自分勝手だとは分かっていた。
でも、これ以上仲を深めた上で明彦に嫌われるなど雪菜には耐えられなかった。
明彦を信じていない訳ではない。
しかし、笑顔を見られた以上それは確定事項であった。
少なくとも雪菜の中ではそうゆう事になっている。
「はぁ……
広瀬くんの話なんて聞くんじゃなかったな……」
雪菜は深く溜め息をつき、自分の行動を悔やむように呟いて瞼を閉じる。
帰りの電車の中で明彦は斜め前に座る雪菜に目をやる。
雪菜は静かに活字の列を目で追っている。
今日の雪菜はいつもと雰囲気が違っていた。
最近は多少話しやすい雰囲気であったが、今はまるで初めて会った時のような物言わぬ冷たさがあった。
迂闊に触れれば切り裂かれるような、剥き出しの剃刀の刃のような鋭さがあった。
故に明彦は今朝から一回も雪菜と言葉を交わすことが出来ずにいた。
(ん~なんなんだろうなこれは……)
明彦は頭を悩ませながら流れ行く風景と雪菜を交互に見る。
(俺の気のせいかもしれないし、取り敢えず話し掛けてみるか……)
「なぁ、その本面白い?」
「なんで?」
なるべく物腰柔らかに尋ねた明彦に、雪菜が鋭い眼差しで睨み付ける。
(だめだ、これはまともに会話できる状態じゃない……)
そう思いつつも明彦はめげずに言葉を紡ぐ。
「いや、なんとなく気になったからさ……」
「言ってもどうせ読まないでしょ」
雪菜はそう言って視線を本に戻す。
「うっ……でももしかしたら興味持つかもしれないじゃん?」
「無いでしょ……
どう考えても広瀬くん活字読めるタイプの人間じゃないじゃん」
雪菜の言葉に明彦はなにも言い返せなくなる。
図星であった。
明彦は現代文の教科書に載っている十数ページの文章すら途中で飽きてしまうような人間なのだ。
当然数百ページもある小説など読破できる自信はない。
「はぁ……」
敗北感と疲労感の籠った溜め息をついて明彦は項垂れる。
なんとも言えない雰囲気が漂い、困惑した様子で美華と奏がアイコンタクトをとる。
(なんでこいつはこんなに人をつっぱねるのかな……)
明彦は流れ行く景色に目をやりながら物思いに耽る。
思えば出会った頃から雪菜は無愛想で、辛辣な言葉を口にし、表立って友好を深めようとはしていなかった。
しかし、明彦は雪菜を嫌なやつだとは思わなかった。
時折見せる彼女の優しさが明彦にそう思わせたのだ。
にもかかわらず彼女は人を邪険に扱い、遠ざける。
そして、なぜだか人前では絶対に笑わない。
それを見てしまった明彦は彼女に酷く拒絶されてしまった。
(なんでだ……?)
明彦は雪菜を一瞥すると、再び頬杖をついて記憶を整理する。
『母親が原因かもしれない』萌はそんな事を言っていた。
『笑顔でいればなんとかなると言っていた母親に虐待されたから』と。
しかし、それは違った。
雪菜は母親は関係ないと言った。
全部自分が悪いのだ、とも言っていた。
なぜか――
『周りから否定されて、自分がなんなのかすら解ら なくなるような経験も、自分が壊れちゃいそうな 苦しみも……!!』
そこまで考えたとき、不意に神崎宅で雪菜がいい放った言葉が明彦の脳裏を掠める。
(おい、待てよ……)
『多分雪菜にとってあの時のお母さんの存在はとっ ても大きなものだったと思う』
『だから、広瀬君は私の事嫌いになっていいんだよ?
無理して、友達なんて言ってくれなくていいの……』
『私の気持ちは誰も分かってくれなかった……』
それに連動して雪菜と萌の言葉が次々と頭に浮かんでいく。
『しかしです、いくら自分が正しいと思っていて もそれが間違い続けるとどうなるでしょうか。
先程のあなたのように途中で折れて二度とその行 為を出来なくなるかもしれません』
そして、なんの因果か最後に女将の言葉が明彦をある結論に至らせる。
(まさか……
あいつ……)