合宿から帰って丸一日がだった。
明彦は今日動くことにした。
前日を使って熟考に熟考を重ねた結果、やはりこれしかないと明彦は結論づけた。
これで最後にしようと明彦は思っていた。
いくら雪菜とはいえ、再び地雷を踏もうものならなけなしの友情は無惨にも粉微塵に砕け散る事であろう。
尤も、友情なんてものが二人の間に存在していればの話なのだが。
兎に角、それでもこの微妙な関係と雰囲気を持続させるよりは幾分ましであろう。
あとは、なるべく雪菜の癇に障らないように注意しつつ、言いたいことを言う。
それだけであった。
明彦は決意を固めて玄関から外に出る。
そして、隣の部屋――この前発覚した雪菜の部屋のインターフォンを鳴らす。
現在の時刻は大体十時過ぎ。
恐らくこの時間ならば居るであろうとたかをくくっていたのだが、部屋からの応答は無かった。
(どっか出掛けてんのかな……)
二回目のチャイムを鳴らしても反応がないので明彦はそう考える。
雪菜の部屋は角部屋で人目にはつきにくいため、明彦はドアの前で雪菜の帰りを待つことにした。
しかし、待てど暮らせど雪菜は帰ってこない。
べつに今日でなければいけない理由など何処にもない。
が、残り少ない夏休みを考慮してか、はたまた覚悟の表れか、兎に角明彦はひたすら待った。
気づけば空は茜色に変わり、日がかなり傾いてしまっていた。
「はぁ……」
明彦は自分の心境とは真逆の美しい夕焼けを眺めながら思わず溜め息を溢す。
「あんた……なにしてんのよ……」
突然雪菜の声が聞こえ、明彦は慌てて振り返る。
が、そこに雪菜の姿はない。
「いつまでうちの前に居るの?
いい加減気持ち悪いんだけど……」
その代わりに雪菜の籠った声がインターフォンから流れ出る。
「お前、居たんなら出てくれよ……」
雪菜の言葉に、明彦は疲労した様子で文句を言う。
「で、なんのよう」
一切の謝罪の言葉も言い訳もなく、雪菜がぶっきらぼうに尋ねる。
「傘返せ」
「……え?」
「お前夏休み前に俺の傘持っていったっきり返してねぇだろ」
「ああ、うん。
そうだったね……」
雪菜がそう答えてから少しして、ドアが少しだけ開く。
そして、その隙間からニュッと明彦の傘が顔を除かせる。
「あの、冬野さん……?
なんで普通に渡してくれないの?」
異様な光景に明彦が困惑した様子で尋ねる。
「そんなの、広瀬くんの顔を見たくないからに決まってるでしょ。
あと家の前で何時間も張ってるストーカーへの最低限の防御」
「おい……それは俺の事か?」
心外そうに明彦が尋ねるが、雪菜の応答はない。
「はぁ……」
明彦は軽く溜め息をついてから数歩前に進み、僅かに空けられたドアに手を掛ける。
「あのさ、冬野――!!??」
明彦がなにかを言おうとした瞬間、雪菜が力一杯ドアを閉めようとする。
「あの、冬野さん゛?
ちょっと話したいことがあるんだけど、いいかな?」
明彦はそれを阻止するようにてに力を込め、力んだ笑顔を浮かべる。
しかし、雪菜は明彦の言葉など聞く耳をもたず一心不乱にドアを閉めようとする。
負けじと明彦は更に腕に力を込める。
傘が地面とぶつかり乾いた音を立てる。
雪菜が両手でドアノブを引っ張る。
拮抗する力と力。
半ば意地の張り合いで明彦と雪菜はお互いにドアを引っ張り合う。
「分かったよ、そんなに顔を見たくないんならそのままでいいから」
明彦がそう言ってパッとドアに掛けていた手を離す。
「――えっ!?」
その瞬間、雪菜は自分の体が宙に浮いているような感覚を覚える。
「だからせめて話だけでも――」
「ぅわあぁぁぁっ!!」
明彦の言葉を遮るようにドアの向こうから雪菜の悲鳴が聞こえる。
「えっ、ちょっ、冬野!?」
明彦は慌ててドアを開けて中の様子を確認する。
「いっててて……」
そこには盛大に尻餅をつき、痛そうに尻を擦っている雪菜の姿があった。
「だっ、大丈夫……?」
明彦が恐る恐る尋ねる。
「もう広瀬くん!
なんでいきなり手を離すのよ!」
雪菜が目尻に涙を浮かべて怒声を浴びせる。
「ごめん……流石に女子の部屋に無理矢理押し入るのは無いかなって」
「女子の部屋の前でずっとスタンバってるのはありなのに?」
申し訳なさそうに言う明彦に、雪菜がジトッとした視線を送る。
「いや……うん、ごめん……
立てる?」
明彦は気まずそうに言って雪菜に手を差し伸べる。
「うん……ありがとう……」
雪菜はその手を取って立ち上がろうとするが、
「ってなにすんのよ!」
途中で思い出したように明彦の手を強引に振りほどく。
「きゃっ!」
重心が後方に残ったままだった雪菜は再びその場に尻餅をつく。
「ちょっ、大丈夫か?」
明彦が心配そうにもう一度手を雪菜に伸ばす。
「うっさい!
こっち来んな!」
雪菜はその手を払い除け、おもむろに立ち上がる。
「ほら、傘そこに落ちてるからさっさと持って帰りなよ」
雪菜は尻についた埃を払い、ドアの隙間で佇む傘を指差す。
「貸してくれてありがとう」
そして、そう言い残して明彦に背を向ける。
「ちょっと待てよ……」
部屋の奥へと進んでいく雪菜の背中に明彦が声を掛ける。
「なに?
まだなんか用?」
雪菜は足を止めて鬱陶しそうに振り返る。
「俺さ、やっぱりもうお前に話しかけない方がいいよな?」
「なっ……なにを、今更……
そんなこと、ずっと前から言ってたでしょ……」
雪菜は一瞬苦い表情を浮かべると、伏し目がちに言う。
「うん……そうだよな……」
「なあ、冬野」
「なによ」
「俺達さ……もう、前みたいに戻れないのかな……」
「え?」
予想だにしていなかった明彦の言葉に、思わず呆けた表情を浮かべる雪菜。
「あんだけお前を怒らせるような事言っておいて図々しいとは思ってる。
だから許さなくてもいい。
でも、それでもやっぱり俺はお前と友達でいたい。
前みたいに普通におしゃべりがしたい。
だめ……かな……」
「ダメだよ……」
雪菜は即答した。
しかし、その声は悲し気で、辛そうで、今にも消え入りそうな声だった。
「それは、やっぱり俺の事を許せないから?
それとも――」
明彦は心の中で大きく息を吸い込む。
紆余曲折を繰り返し、漸く導きだした明彦の結論。
「俺が、変わってしまうと思ってるから?」
その言葉を聞いた瞬間雪菜の瞳が大きく開く。
図星ではないにしろ、どうやらこの結論は間違ってはいなかったらしい。
明彦は慎重に言葉を選びながら話を続ける。
「多分……なんだけどさ……
俺が、お前の笑顔を見たから……
だから、俺がお前のお母さんみたいになるんじゃないかって思って俺の事を遠ざけていたんじゃないのか?」
明彦の問いに雪菜はただ黙って俯いていた。
普段なら罵倒の一つや二つ飛んでくるところだが、今はそれすらもない。
その反応を明彦は取り合えず肯定と受け取ることにした。
「もしそうなら、それは違う。
事情はよく知らないけど、多分……っていうか絶対冬野のお母さんが変わっちゃったのはお前のせいなんかじゃない。
それに、俺は変わらない。
どんなことがあろうとも俺はお前の友達だ」
「そんなの嘘だよ……」
雪菜は俯いたまま震えた声で呟く。
「違う、嘘なんかじゃない!」
しかし、明彦はその言葉を力強く否定する。
「みんな……みんな最初はそう言うんだよ……
“ずっと友達だよ”とか“これからも仲良くしていこうね”とか……
でも、そんなのみんな嘘だった……」
「おい……それどうゆう事だよ……」
悲し気な雪菜の声に、明彦は驚愕の表情を浮かべる。
母親が荒れてしまい雪菜の笑顔を何度も否定し、暴力を与えた結果笑わなくなってしまった。
明彦はそう考えていた。
だからこそ雪菜の口から放たれた“みんな”という言葉に明彦は衝撃を受けた。
「お前……まさか、母親以外の人にも何かされてたのか……?」
「へっ……?
あっ、いや、違うの。
これは……」
明彦に尋ねられて漸く自分が口を滑らせたことに気付いた雪菜は、慌てた様子で否定しようとする。
「なあ冬野。
やっぱり、話してくれないか?
その、お前がどうしてそうなっちゃったのか……」
明彦の言葉に雪菜は押し黙ったまま返答を見せない。
「頼むよ……俺はもっとお前を知りたいんだ。
大丈夫、誰にも言わないし変な心配もしないようにするから」
「本当に……?」
上目使いに雪菜が明彦を見つめる。
潤んだ瞳、不安そうな表情、赤らんだ頬。
どれも普段の気丈な彼女からは想像もできないような、触れてしまえばたちまち壊れてしまうような弱々しさと可憐さがあった。
「おっ、おう……当たり前だろ」
その表情に思わずドキリとしながらも辛うじてそう答える。
「まぁ、広瀬君には半分ぐらい知られてるようなものだし……いいかな……」
そう言って雪菜は語り始めた。