雪菜は幼少の時は誰にでも優しく、明るい性格であった。
親の言い付けもあってか、いつも笑顔を絶やさず、友達も多かった。
それに加えて容姿も良かった雪菜は学校じゅうの憧れの的であった。
故に男子生徒から告白される事も多かった。
しかし、恋愛に対しあまり深い理解と興味を持っていなかった雪菜は、悉くそれを断ってしまっていた。
最初の頃はまだそれでよかった。
だが、年齢を重ねる度、学年が上がる度に周りからの評価が代わり始めてきた。
八方美人、小悪魔、人でなし、調子のってる、うざい、ムカつく――
いつしか憧れは憎しみへと変わり、憎しみは怒りとなって雪菜にぶつけられた。
切っ掛けや、いつ頃からそうなったかは分からない。
ふられて逆恨みした男子生徒や人気のある男子生徒からの告白を断ったことによる女子生徒の嫉妬か、兎に角気付いたときには雪菜の悪い噂が周囲に蔓延したいた。
それでも雪菜は笑っていた。
まるで悪口などなんとも思っていないかのように、泣きそうな心の内を必死に押さえて毎日太陽のように笑っていた。
親の言い付け通り、自分が笑えばみんなも笑ってくれると信じて。
だが、現実は非情である。
学校の中で雪菜は徐々に孤立していき、雪菜に対する排他的な運動は日に日にエスカレートしていった。
最初は中学校に上がったばかりの頃だった。
その日、雪菜は初めてイジメの被害者となった。
トイレから戻ってきた雪菜は、自分の机の上にしまった筈のノートが置いてあることに気付いた。
その時はただしまい忘れたのだと思い、机の中にしまった。
しかし、その次の授業でノートを開いた雪菜は驚愕した。
『ウザい、キモい、ビッチ、男にだけ良い顔するクズ、媚売り女、死ね――』
怒りを体現したかのような煩雑な文字で書かれた誹謗中傷がノートを埋め尽くしていたのだ。
気分を落ち着かせるためにそっとノートを閉じる雪菜の耳に、クスクスと嘲るような笑い声が聞こえる。
それも、一人や二人ではない。
クラスの殆んどの人間が笑っていたのだ。
とうとう雪菜の周りには敵しかいなくなった。
一線を越え、たがが外れた行為は一気に加速していった。
無視、暴力、窃盗、器物破損――
そんなものは当たり前だった。
机に彼岸花を飾られ、トイレで水を浴びせられ、物を勝手に捨てられ、散々な目に遇わされた。
それでも雪菜は笑顔を絶やさなかった。
たとえどんなに酷い行いをされても、汚い言葉をぶつけられても、雪菜はずっと笑っていた。
笑っていればきっとみんなも笑ってくれる。
怖い顔しないで仲良くしてくれる。
その時は盲目的にそう信じていた。
信じるしかなかった。
そんなある日。
雪菜は昼休みに校舎の影に呼び出されていた。
「どっ、どうしたの……?
おっ、お金なら……ないよ……?」
顔は笑っているが、雪菜の声は酷く怯えていた。
「金?
ああ、今日はいいや。
そんなことよりあんたに言いたいことがあんのよ」
雪菜を呼び出した同じクラスの女子三人の中の一人が高圧的に言う。
「なっ、なに……かな……?」
「あんたさぁ、あんだけ嫌がらせしてんのになんで毎日ヘラヘラしてんの?
私達の事馬鹿にしてんの?
マジでウザいんだけど」
「やっ、やだなぁそんなわけなっ――」
雪菜の言葉が終わるよりも早く女子の蹴りが彼女の腹部にめり込む。
「ぅぶぇっ!」
それにより体勢の崩れた雪菜は腹を抱えて踞る。
「ちょっ、なんで……痛いよ……」
しかし、それでも雪菜の笑顔は剥がれ落ちない。
「それがムカつくんだよ!」
女子生徒が怒りに任せて雪菜の頭を踏みつける。
「いっつもいつっも私は全然気にしてませんみたいな顔しやがって!
どうせ心の中では私達の事見下してんだろ!?
ああ゛ん!?」
そしてグリグリと雪菜の髪を踏みにじる。
「ちっ、違うよ……
そんなこと、思ってない……」
「あっそう……
じゃあ今笑ってんのはなんなんだよ!」
「あぐぅっ!」
顔面を固いローファーで蹴りつけられ、雪菜が短い悲鳴を上げる。
「おら泣けよ!
泣いてみろよクズ!」
その後も女子生徒は罵声を浴びせながら雪菜の体を蹴りつける。
何度も、何度も。
「ちょっ、落ち着きなよ紗由理……
流石にやり過ぎなんじゃ……」
暫くしてから後ろに控えていた女子生徒が声を掛ける。
「そっ、そうだよ……ってか冬野なんか痙攣してない?
大丈夫なの……?」
もう一人も心配――というよりは恐怖に近い眼差しで雪菜を見つめる。
紗由理と呼ばれた女子生徒は、そう言われ冷静になって雪菜を見る。
雪菜の制服は砂で汚れ、口からは唾液か胃液か分からない液体が、鼻からは血が垂れている。
体は小刻みに震え、目は虚ろで譫言のように「止めて……もう止めて……」と繰り返し呟いていた。
それを見た紗由理は思わず恐怖を覚えた。
こんな姿の雪菜に、こんなことをしてしまった自分に、
そして――
こんな状況下においてもにっこりと吊上がっている雪菜の口元に。
「なっ、なぁ……生きてるよな、これ……」
紗由理は恐れ戦いた様子で後ろの二人に尋ねる。
「しっ、知らないわよそんなの!」
その片割れが怯えた様子で答える。
「わっ、私もう帰るね!」
「あっ、ちょっ待ってよ!」
「ちょっと、私を置いてかないでよ!」
もう一人が逃げるようにその場を立ち去り、それを追うように紗由理とその連れもその場から去っていく。
(なんで……なんでみんな笑ってくれないの……?
私が笑うとウザいの……?
なんで……?
笑う事ってそんなにダメなことなの……?)
誰もいなくなった校舎の影で、雪菜の虚ろな瞳から涙が溢れ落ちる。
その日、なんとか動けるようになった雪菜は体調が悪いと言って早退した。
その翌日から暴力のような直接的なイジメは殆んど無くなった。
が、今度はいつでも、なにをされても笑っている気持ち悪い女とレッテルが貼られ、結局周囲から避けられるようになった。
事実、雪菜はそれでも笑っていた。
恐怖も嘆きも悲しみも、なにもかもを押さえ付けて笑っていた。
その頃だろうか、雪菜の母親がおかしくなり始めたのは。
雪菜にとって母親は唯一自分を心配してくれる存在であった。
いつも笑顔で、弱音など聞いたことのないような強い女性であった。
そんな母親に憧れて雪菜は自分の笑顔を守り続けてきた。
しかし、雪菜の母親の笑顔は日に日に陰りを見せ始めていた。
どんなに雪菜が話し掛けても、笑いかけても、返ってくる笑顔はどこか虚ろで空っぽだった。
姉は上京し、父親は単身赴任で殆んど帰ってこない。
それでも前までは明るく、暖かかった家庭が少しずつ冷えて、暗くなっていくのを雪菜は感じていた。
母親の変化の原因を知ったのは雪菜がそれに気づいてから暫くしてからの事だった。
父親の不倫――
それが原因だった。
そして、そのせいで離婚したと雪菜は告げられた。
言い方は悪いかもしれないが、要するに捨てられたのだ。
自分の愛した夫に裏切られた。
その事実を告げた日、彼女はずっと泣いていた。
見たことがなかった。
自分の母親がこんなにくしゃくしゃな顔をして泣いている姿を。
雪菜に対する差別的なイジメは今もなお続いていたが、そんな事は最早どうでもよかった。
毎日毎日母親の事が心配で他の事など殆んど頭に入ってこなかった。
雪菜は学校が終わるやいなや風のごとく家に帰り、ずっと母親を慰めていた。
母親にまた笑ってほしくていつも以上に笑った。
元気が出ればまたいつもの母親に戻ると思っていた。
しかし、そんな雪菜の意思とは裏腹に、母親は足早に、そして確実に堕落していった。
酒に溺れ、体は痩せ衰え、自慢の笑顔はすっかり消えてしまっていた。
あらゆる事に無気力になり、かと思えば思い出したように泣き喚いたり癇癪を起こして近くにあるものに当たったりした。
その対象には雪菜も含まれていた。
雪菜は度々母親に暴力をふるわれた。
物を投げられ、叩かれ、蹴られ、沢山の痣ができた。
とうとう学校でも、家庭でも、雪菜の安息の地は無くなってしまった。
雪菜は笑っていた。
母親が好きだったから、憧れていたから。
みんなにまた笑ってほしかったから。
「あんたはなんで笑ってるの!?
いっつもいっつもなんで笑っていられるのよ!!
私が……私がこんなに苦しんでるのに……!!
なんで……なんでなのよ!!」
そんな中、雪菜は母親にそんな言葉をぶつけられた。
癇癪を起こした母親を宥めようとした時だった。
笑顔で言葉を掛ける雪菜に、母親は叩き付けるようにそう言った。
自分が最も敬愛する母親の言葉は、クラスメイト達の言葉と共振し、その威力を何倍にもして彼女の心を抉り、壊していく。
(私が笑ってもなにも変わらない。
誰も、笑ってくれない。
なんで?
なんでみんなも、お母さんも、なんで笑うんだって言って怒るの?)
「その気もねぇのに愛嬌振り撒くなっつーの」
「誰にでも笑顔見せて、なんなのあいつ」
「あんたさぁ、あんだけ嫌がらせしてんのになんで毎日ヘラヘラしてんの?
私達の事馬鹿にしてんの?
マジでウザいんだけど」
「あいつなにされても笑ってんだぜ、キモくね?」
「なにそれドM?」
ウザい――
キモい――
なんなのあいつ――
死ね――
「あんたはなんで笑ってられるの!?
いっつもいっつもなんで笑っていられるのよ!!」
(ああ、そうか……
逆なんだ……私が笑うからみんな怒るんだ……
私の笑顔を見たからみんな私の事嫌いになったんだ……
みんな、みんな……お母さんも……
私は、お母さんみたいにはなれないんだ……)
母親の言葉に絶望し、その結論に至った雪菜は、その日から笑う事を止めた。
それから少し経ち、帰ってきた萌に連れられて雪菜は母親と別居することになった。
学校も転校し、母親とは離れた場所で萌と二人で暮らすことになった。
転校先で雪菜はクラス中で悪態をついた。
そうやって他人との関わりを断ち切り、自分を守った。
人から嫌われるのは辛かったが、それでも友達だと思っていた人に嫌われるよりはましだった。
自分自身身勝手だと分かっていたが、雪菜はそれ程強くなかった。
完璧に笑顔を押さえ込む自信はなかったし、もう人を信じることができずにいた。
そうする他、方法はなかった。