「……神埼さんとなにかあった?」
美華がドアの向こうに居るであろう奏を見ながら心配そうに言う。
「いや、特に……なにも……」
特に心当たりがない明彦は、美華の言葉を怪訝そうに受け取りながらもそう答える。
「そう……だったらいいんだけど……」
美華はやはり心配そうにドアを気にしながらゆっくりと明彦方へ歩み寄る。
「かんざ――奏、なんか変でした?」
隣に座る美華に明彦が尋ねる。
「いや……別に変じゃなかったんだけど……
なんと言うか、雰囲気が暗かったから……
って言うかなんでわざわざ名前に言い直したの!?」
美華がハッとした様子で尋ねる。
「なんか奏がそう呼んでくれって……
あいつまだそれほど友達いないみたいですし……これはあいつなりの友情の証なのかなって思いまして……」
(それって……もしかして違う感情なんじゃ……)
美華はそう予想を立てるが、それを口にすることはなかった。
そんな事を口にすればいろんな人に混乱と迷惑を掛けてしまうのは美華でなくても察しがつくであろう。
「えと……取り敢えず、宜しくね」
美華が緊張した面持ちで笑顔を浮かべる。
「ああはい、こちらこそ宜しくお願いします」
明彦はそう言いながら軽く頭を下げる。
「私結構楽しみにしてたんだ、これ」
美華は楽しそうに微笑みながら体重を背凭れに預ける。
「意外……ですね。
先輩は嫌がるかと思ったんですけど……」
「ふふん、私はもう昔の私じゃないんだよ」
驚きの表情を見せる明彦に、美華が得意気に鼻を鳴らす。
「はは、それは頼もしいですね」
その自信満々と言わんばかりの表情に、明彦は期待で胸を膨らませる。
「うん、もう私は極端に人見知りなんかしないよ!
…………多分……
どんな相談もドンと来いだよ!
…………」
胸を拳でポンと叩いたその数秒後、とてつもなく不安そうな表情を浮かべる美華。
「先輩……あまり無理しないで下さいね……?」
美華が繰り広げる本音と理想のせめぎ合いに、明彦の中で膨らんでいた期待がまるで穴の空いた風船のように萎んでいく。
しかし、それでもやはり明彦がこの部に入ってきた時とは比べ物にならない程美華は成長している。
本人は自信が無いようだが、案外なんの問題もなく、寧ろ美華のおかげで話が円滑に進む場面が有るのではないかという気すらする。
「まぁでも、先輩は自信もっていいと思いますよ?
きっ と先輩なら上手くやれます」
明彦は僅かに残った美華への期待をそのまま言葉にする。
「そっ、そう……かな……」
美華が自信無さそうに答える。
「そうですよ。
だって先輩、俺が入部したての時とは見違える程変わったじゃないですか」
「えへへ、なんか改めてそう言われるとなんか照れるね」
美華は頬を朱に染めながら行き場のない感情を発散させるかのように右手で自らの後頭部を撫でる。
「よし、後輩にそこまで言われたら先輩としてカッコいい所見せないとね。
私、頑張るよ。
今までの成果見せてあげるんだから」
美華が意気揚々と言い放つと、都合よく最初の相談者がドアをノックする。
「はい、どうぞ」
明彦は自分と美華がマスクを被った事を確認してからそう言うと、部室のドアから鹿のマスクを被った女性が現れる。
身長は少し高めで、ボディーラインは綺麗な瓢箪型をしている。
派手ではないが何処か高級感を漂わせる服装から考えても、明らかに十代ではないことが窺える。
「どうぞ」
明彦の指示にしたがって女性が正面のパイプ椅子に座る。
よく見るとその手にはヘリウムガスが握られていた。
余程プライベートな相談を持ち掛けるつもりなのだろう、その女性はただならぬ雰囲気を身に纏っていた。
女性はスプレー缶から射出されるヘリウムガスをゆっくりと吸い込み、重苦しい空気の中言葉を発した。
「結婚シタイ……」
甲高く、ふざけたような声とは裏腹に、その言葉の質量はとんでもなく重厚であった。
ガチンコ過ぎる相談に、二人は思わず絶句してしまう。
「はぁ……
結婚シた――」
盛大に溜め息をついたせいで肺に溜まったヘリウムガスを吐ききってしまったのか、地声が出た女性は慌てて口を接ぐんで再びヘリウムガスを吸い込む。
(やばい、どうしよ……無理だろこれ……
なんてアドバイスすりゃいいんだ……?
ってかなんで生徒相手にこんなガチ相談してんだこの人……)
「あの……今の声、もしかして山田先生ですか……」
困惑する明彦を他所に美華がそう尋ねる。
「チッ、違ウワヨ!
適当ナ事言ワナイデ!」
「ひっ、あっその……ごっごごごご免なさい……!
ちょっと声が似てたので……
ご免なさい、失礼しました……!
本当に……本当にすいません……!
わっ、私……私ぃぃ……」
強めの口調で言い返されたせいか、美華は錯乱した様子で今にも泣きそうな声で謝罪する。
「えっ、あっちょっ、嘘嘘!
嘘だから、合ってるわよ !
だからなくなぁ!」
その様子を見ていたたまれなくなったのか、女性が慌ててマスクを外す。
マスクの下から出てきたのは明らかに気の強そうな、しかし綺麗に整った顔だった。
「まぁそれ程信頼してはいなかったけどさ……こうゆうのって気付いても黙っとくもんじゃないの……?」
表情を僅かに蒼くさせながら、ぐったりとした様子で額に手を当てる山田。
「あっ……ご免なさい……
知っている声だったので……なんだか嬉しくなってしまって……つい……」
美華が申し訳なさそうに俯く。
「ああ……もういいから……
って言うかよくあれだけで分かったわね。
貴女、誰?
もし差し支え無ければ教えてほしいんだけど」
山田はまた泣かれては敵わないと、適当にあしらってから興味津々といった様子でマスクを被っている美華をまじまじと眺める。
「あっ、はい。
先程は失礼いたしました。
私、立花美華です」
そう言って美華はマスクを取ってにっこりと微笑んだ。
「あぁ、美華ちゃん?
最近保健室に運ばれなくなったと思ったら……
しばらく見ない間に雰囲気変わったわね」
山田は美華の顔を見ると少し驚いたような表情を浮かべる。
「あれ……お二人はお知り合いですか?」
なんとなく流れに乗ってマスクを取って明彦が尋ねる。
「うん」
と美華が答える。
「山田 美玲(やまだ みれい)先生は保健室の先生なんだよ」
そう言われても今一ピンとこない明彦は更に質問を続ける。
「それで……なんで保健室の先生とそんなに仲が良いんですか……?」
「ああ、それはね。
私この学校に入学したばっかり――っていうか広瀬君に会うまではもう人見知りが酷くてさ……」
明彦は初めて美華と会った時の事を思い出し、静かに頷く。
「パニックになって貧血とかよく起こしてたんだよね……
まぁ日が経つに連れて段々良くはなっていったんだけど……
山田先生にはその度にお世話になってたのよ」
美華は恥ずかしそうに微笑む。
「なるほど、それで……」
明彦は納得した様子で美華から山田に視線を移す。
「結婚の相談……?」
「うっ、煩いわね!
私こう見えてももう三十路越えてるのよ!」
山田はそう主張するが、明彦の目からは普通に年相応に見える。
しかし、彼女はそのカテゴリーの中でも美人の方に部類されるのではないかと明彦は思った。
「先生美人なのになんでですかね……?」
「本当にね~なんでだろ」
山田は組んだ足の上で頬杖をついて溜め息をつく。
「そういうのは否定した方がいいんじゃ……」
「いいのよ、へこへこしてたら男なんてすぐに調子に乗って付け上がるんだから」
「はあ……」
微妙にずれた返答に戸惑いの表情を浮かべる明彦。
「先生は今彼氏さんとかいるんですか?」
相談相手が知人だったせいか、物怖じせずに美華が質問する。
「あははは、いると思う?」
(まぁいたらこんなところ来ませんよね……)
明彦は同情にも似た眼差しを山田に向けてから口を開く。
「だったら当面の目標はかれ――男友達をつくることですね」
「待って、なんで今ワンランク落とした?」
山田はふざけるなと言わんばかりの表情を見せると、勢いよくポケットからスマートフォンを取り出す。
「私にだって男友達ぐらい!!
男友達ぐらい……!!」
恐らく電話帳を確認しているのだろう、山田の指が素早く画面をスクロールさせている。
「男友達ぐらい……」
しかし、肝心の男友達は見つからないらしく、山田はの勢いはすっかり衰えてしまっていた。
「当面の目標は男友達をつくるということで」
そんなの山田に明彦は最終判決を告げるが如く言い放つ。
「うっ、うっさいわね!
二回も言わなくていいのよ!」
山田が悔しそうに目尻に涙を浮かべる。
「ところで、先生はなんでそんなに結婚に焦ってるんですか?
男友達もいないのに……」
美華は首を傾げながら彼女にとっては致死レベルの毒を無自覚に吐く。
無論、美華に悪気はない。
「うっ、うん……それがね……」
山田は不意にのし掛かってきた虚無感や絶望に苛まれながら美華に説明する。
「最近さ、友達とかが続々結婚してってんだよね……
なんか私一人だけ取り残された感じがしてさ……
それに実家の母親が電話で知り合いの結婚の報告とかたまにしてくるのよ……
その時『“また”美玲のお友達が結婚したってさ…“また”……』ってな具合で異様なほど“また”を強調してくんのよ……!!」
山田は始めの頃は静かに語っていたが、母親の話をした途端嘆くように顔面を両手で覆った。
「でさ、式に行ったら行ったでこれまたみんな幸せそうなのよ……
ほんと、ぶっ壊したくなる程幸せそうで……」
(ちょっ、怖い怖い!)
先程までとは打ってかわって今にも闇落ちするのではないかという程に負の感情を滲ませる山田に明彦は戦慄を覚える。
「それで、まぁなんとか式を切り抜けて家に帰るわけよ。
そしたらね、部屋がスッゴい暗いの……
そんでビックリするくらい静かなのよ。
まぁ私独り暮らしだし?
静かなのは当然だし、電気だってつけなきゃそりゃ暗いに決まってんだけどさ……
そこでふと思っちゃうのよね……
あっ、私って今幸せの対極にいるんだなって……
そしたらもうなんか辛くて……!
私も幸せになりたい!
ってかぶっちゃけ一人超寂しい!」
この人酔ってんじゃないかと疑いたくなるようなテンションで高校生にぶっちゃけトークを繰り出す大人(山田美玲 33歳)。
あまりの生々しさに美華も明彦も言葉に詰まる。
当の本人は天井を仰いで子供のように泣きじゃくっている。
大人が本気で泣いている姿は正直見てていたたまれない。
「せっ、先生の事情は分かりました!
これは早急に男友達をつくる必要性がありますね!」
なんとかしてやろうという気迫を見せる明彦に同意するように美華が何度か頷く。
「……でも、友達ってそんな一朝一夕につくれるないような……」
美華が不安そうに明彦を見る。
明彦はそれに対して一度頷いてから山田の方へ顔を向ける。
「今先輩のおっしゃった通り、友達なんていってもそんな簡単につくれるものではありません。
それは私達もよくわかっています」
「ぐすっ……じゃあ、どうするの……?」
少し落ち着いたのか、山田が涙を拭いながら尋ねる。
「取り敢えずある程度コミュニティーが出来上がっている職場の人に目をつけます。
どうですか?
職員室の中で誰か気になる人とかいませんか?」
明彦の言葉に山田は考えるような仕草を見せる。
しかし、その表情は不安気で、どこか暗いものであった。
「どっ、どうですか……?」
あまりの思考時間の長さに、明彦は怪訝そうな表情で回答を促す。
「人体模型……
と、骨格標本……?」
明らかにプラスに思考を巡らせていない山田にハラハラしながら回答を待つ明彦に返ってきたのは、夢も希望も無いような暗く弱々しい声であった。
「え……?」
人以外(?)というまさかの回答に、思わず明彦は驚きの声を漏らす。
「ひっ、広瀬君……
ほら、さっきも言ったけど先生、保健室の先生だから……」
ガックリと項垂れる山田を見て美華が明彦に囁く。
「えっと……もしかして先生ってずっと保健室に居ます……?」
山田はどんよりとした背景を背負いながら頷く。
「いやでも流石に完全に他の先生と関わりがないって訳でもないですよね?
この際好みは一旦置いておいて自然に話せる人を狙いましょう」
「…………」
「……えっと……まさか……」
――そんな人すらいないんですか?
という残酷すぎる質問は明彦には出来なかった。
しかし、それでも明彦の表情や声のトーンからその真意を察したのか、山田は重々しくその頭を上下に動かした。
「朝礼会議が毎日有るんだけどさ、私みたいな特殊な人は自由参加なの。
んでさ、私も最初は出てたんだけどまぁ私に関係のない事ばっかりなのよね。
それで、段々めんどくさくなって……」
(これは……かなり深刻だな……
出口が全く見えねぇ……)
苦悶の表情を浮かべる明彦。
「うえぇぇぇ!
どうせ私なんて、私なんてぇ!」
それを見た山田が諦めムード全開で泣きじゃくる。
「先生!
諦めてはダメです!」
完全に敗戦一色の雰囲気を切り裂いて美華が言い放つ。
「朝礼会議が有るならそれに出席すれば良いじゃないですか!
今からだってきっと遅くありません、先生にだって友達は出来るはずです!」
「美華……ちゃん……?」
力強い美華の言葉が山田の涙腺に一旦歯止めを掛ける。
「人は、変われるんです……いつでも、いつからでも……!
だから先生、諦めないでください!」
「でも……それじゃあ婚期逃して焦ってる年増みたいに見られない……?」
山田が涙を拭ってグスンと鼻を啜る。
「周りからの目なんてどうだって良いじゃないですか!
じゃあ先生はこのままでいいんですか!」
「そりゃ……嫌だけど……」
「だったら行動するべきだと思います!」
美華は昔とは――というより普段とは一風変わって熱い口調で語り、最後に「そうしないと……先生はきっと、後悔すると思います……」と付け加えた。
「うぅぅ……美華ち゛ゃぁぁぁん……!!」
感極まったのか、山田は再び滝のように涙を流しながら机越しに美華に抱き付く。
「先生が有りのままでぶつかれば、きっとそんな先生を好きになってくれる人がいると思いますよ?」
「うぇぇぇ……私、頑張るよ!
頑張って幸せになるよ!」
泣きじゃくる山田の頭を優しく撫でる美華の姿は、さながら彼女の母親のようであった。
「じゃぁね、今日はありがとう」
暫く美華に慰められた後山田は明るい笑顔を残して部室を後にした。
「つ、疲れたぁ~」
美華は溜め息混じり呟きながら上半身を机の上に乗せる。
「お疲れ様です。
俺なんて要りませんでしたね」
明彦がニコリと美華に微笑み掛ける。
「ふえぇ?」
美華は首を回し、机の上に頬を密着させて明彦を見る。
そして、明彦と目が合った瞬間先程まで山田に熱く語っていた自分が脳裏に浮かぶ。
「うあぁっ!!」
ハッとした様子で美華が背筋を伸ばす。
「わっ、わわわ私、私……」
美華は目を丸くし、動揺しきった様子で声を上げる。
「まっ、また変な事を……」
美華の頬は仄かに朱色に染まり、その目には涙が溜まっていた。
「ちょっ、どうしたんですか先輩!?」
とても申し訳なさそうな声音の美華に明彦が驚きながら尋ねる。
「どっ、どどどどうしよう!
私……私……!!
スッゴい上から目線で……なんて無責任な事を……!!」
「先輩、落ち着いて下さい!
そんなことないですから!」
美華罪悪感からか今にも泣きそうな美華を宥める明彦。
「でっ、でもぉ……」
「人生相談なんて自分の事棚上げでもしないとできませんよ。
それに、どんな言葉を掛けようとそれが良いか悪いかなんて誰にも分かりませんよ。
最悪の言葉を掛けて最高の結果を残す人もいればその逆の人もいる。
それはもう俺達にはどうすることもできないことです」
今にも声を上げて泣きそうな美華に、明彦がまるで小さい子供に絵本を読み聞かせるような柔らかい口調で更に言葉を紡ぐ。
「でも、だからこそ先輩の言った言葉は無駄じゃないって信じたいじゃないですか。
だって先輩は変えたんですよ?
ほんの少しだけど、先生の心を、行動を、人生を……
完全な自己満足ですけど、そうゆう風に他人の人生に関われた事を俺は誇りに感じます。
だから信じましょう。
先生の事を、先生の未来の幸せの事を」
(なっ、なんか余計重くなった気もするけど……)
屈託のない笑顔を浮かべる明彦を見ながら美華は内心そう思った。
だけど、と美華は思い返す。
「そうだよね、私が悩んでたってしょうがないよね」
「そうですよ」
狙ってやっているのか、はたまた、元々なのか、明彦の楽観的な考えはマイナス思考になりがちな美華にとってとても居心地のいいものだった。
まるで心が温かく柔らかい毛布に包まれているような感覚。
そんな感覚が明彦と一緒にいると感じられた。
「なんだか広瀬君 って炬燵みたいだね」
思わずそんな言葉が出た。
しかし、当然その言葉の意味が伝わる訳もなく、明彦は唖然とした表情を浮かべる。
「えと、それはどういう……」
美華は顔を真っ赤にさせ、慌てて明彦に向けていた顔を正面に向ける。
(わわわ!!
わっ、私なにいってるのよ~!!)
顔から湯気が出てくるのではないかというほど体が熱くなっていくのが分かった。
「あの……大丈夫ですか……?」
「えっ!?
うっ、うん大丈夫!」
心配そうに尋ねる明彦に美華は無理矢理笑顔を作って答える。
「そうですか……
で、さっきの言葉の意味は――」
「ごめん、それは聞かないで」
「ああ、はい……分かりました」
食い気味に抑揚のない言葉を放たれ、明彦は恐怖と驚きに顔を青くさせる。
(恥ずかしいから直接は言えないけど……)
諦めた様子で正面を向く明彦の横顔を見ながら美華は思う。
(広瀬君と一緒にいると本当に安心できるんだよ……?
無意識かも知れないけど、貴方が傍に居てくれるだけで曇りがちな私の心はいつの間にか晴れちゃうんだ。
広瀬君……貴方は、私にとって――)
そこで部室のドアが開かれ、美華の思考は中断する。
ドアから現れたのは薫だった。
しかし、彼女の纏う雰囲気はいつものそれとは違っていた。
「あれ?
次って薫ちゃんだっけ?」
どこか黒いオーラを放つ薫るに美華が驚きながらも不思議そうに尋ねる。
「いいや、私ではない。
彼だ」
薫はそう言うと左腕を勢いよく胸の前まで持ち上げる。
それを見て明彦と美華は驚愕の表情を浮かべる。
薫の手にはまるで子猫のように首の後ろを掴まれた誠がいたのだ。
「かっ、会長……
これは……一体……」
「彼は自分の責務を忘れて遊んでいたのだ」
薫が首の後ろを掴んでいた手を離し、蔑むような冷たい視線を誠に向ける。
その一方で誠は軽く咳き込んだ後パーカーの襟元を息苦しそうに指で正す。
「見てみろ、美華の時間はとっくに過ぎている」
明彦と美華が確認の為に時計を見ると、確かに決められた時間よりも十数分オーバーしていた。
「いっ、いや……でも、なにか事情があったんじゃないですか……?」
明らかに怒りの感情を露にさせている薫に明彦が恐る恐る尋ねる。
「うむ、私もそう思って聞いてみたのだが、草薙君は全く答えてくれんのだ。
それに、彼は私と目が合った瞬間一目散に逃げ出した。
これはなにか疚しいことがあると考えてもおかしくはないだろう」
溜め息をついてから、やれやれといった様子で薫が言う。
「おい広瀬」
ここで漸く誠が口を開く。
「はい」
「俺は人生相談なんて下らない事絶対にしない、面倒臭い。
あとパーカーを引っ張るな、延びる。
それと人前で俺を引き摺るな、恥ずかしい。
って事をこいつに伝えてくれ」
誠が胡座をかいたまま薫を指差す。
「いや、あの……それ、今ですか……?」
「?
今に決まってんだろ。
逆に今じゃなかったらいつ言うんだ」
「もっと前ですよ前!
なんで現在進行形の時に言わなかったんですか!」
さも当然であるかのような態度をみせる誠に、思わず口調を強くして明彦が応える。
「いやな、俺もそうしようとしたんだがな……」
(まさか、会長の怒りが激しすぎてとても言えるような状態じゃなかったんじゃ……)
ただでさえ影の掛かった顔に更に影を落とす誠に、明彦はなにか特別な理由があるのではないかと思考を巡らせる。
「たまたま周りに男が居なかったんだ」
あまりにいつも通り且つしょうもない誠の言葉に、思わず体の力が抜けてコケそうになる。
(いや……なにもそこまで徹底しなくても……)
「あの……会長、聞いてましたか? 」
明彦は呆れた様子で誠を見た後、確認するように薫に尋ねる。
「ああ、聞いていたさ……」
背後からゴゴゴゴゴと効果音が聞こえてきそうな威圧感を放つ薫。
「そうかそうか、やはり草苅君は自分の責務を放棄しようとしていた訳だ……」
「俺が責務を果たしてないだと……?
笑わせるな。
この教室をセッティングしたのも、機材を調達したのも、基本的なタイムテーブル作ったのも、もっと言えばこの案出したのも全部俺だろうが。
影の功労者にてめぇらはその上こんな労働しろって言うのか?」
薫の雰囲気に、誠は一切の恐れを感じさせない悠然とした様子で言い返す。
「そう、こいつに伝えてくれ」
そんな様子を不覚にもカッコいいと思ってしまった明彦は、その言葉で現実に引き戻される。
やはり誠はとことん情けなく面倒臭い人間であった。
「あの……会長……」
明彦が困った様子で誠の言葉を伝えようとすると、薫は無言で掌を明彦に向けた。
喋らなくても分かるという意思表示なのだろう。
取り敢えずそう考えた明彦は黙って口を紡ぐ。
「私も広瀬君を通して話した方が良いのか?」
流石にこれには今まで踏ん張ってきた明彦もこけた。
「なんでそういう話になるんですか!」
「いや、見ての通り草苅君がまともにとりあってくれないだろう?
だから彼と同じように話せばちゃんと話せるようになるんじゃないかと思ってな……」
怒っているような明彦の言葉に、薫は困った様子で応える。
「絶対関係ないですって……」
「待て」
明彦と会話をしている隙をついて逃走を謀る誠の服を薫が掴む。
「おい、いい加減にしろ……
こんなくそ怠いことやってられっか。
――って伝えてくれ」
「はいはい……
会長、だそうですよ」
明彦は諦めた様子で薫に告げる。
「いい加減にするのは君の方だ……!!
君がどんなことを事を思おうと、感じようと、そんなことはどうでもいいんだ。
これはニコ研の成果を発表する場だ。
そして、今日明確とした成果を見せられなければこの部は終わる。
先輩たちが築き上げた伝統も、私達がつくってきた居場所も、なにもかも無くなってしまうのだ!
確かに準備期間に尽力してくれたことは感謝する……望みであればそれ相応の礼も今度しよう。
だが、今その事は関係無い、大切なのは結果だ。
君もニコ研の一人に違いない。
故にサボらせる訳にはいかない。
最後までしっかりとやってもらうぞ……!」
「はいはい、そうかよ。
やりゃいいんだろやりゃ……ったくめんどくせぇな……
確かに折角出来たあいつらの居場所をこんな下らねぇ事で奪うのも酷だしな。
――って伝えてくれ」
誠は気だるげに、溜め息を交えながらそう言うと体の向きを180゜変える。
それを見た明彦はやりましたねとでも言いたげな表情を薫に見せる。
薫もそれに対して満足そうな顔を明彦に返す。
「でも、勘違いすんなよ?
俺はお前の言う形だけの伝統とやらだとかクソつまんねぇ結果主義の言葉に動かされた訳じゃねぇからな……
あくまで“こいつらが”つくった居場所を“俺達”みたいななにもしてない奴等が荒らすのは忍びないと思ったからだ。
――広瀬、最後にそう伝えてくれ」
返事を聞く気が無いのか、誠はそう告げると無言で長机の方へ向かっていく。
「構わない。
君が確りと責務を果たしてくれるというのであればどうとでも思えばいい」
そんな誠に明彦が困った顔を向けると、薫は特に動じた様子もなくそう応えた。
「では、私はそろそろ行くよ。
邪魔したな、また後で会おう」
「ああ、はい。
また後で」
薫は明彦の返事に軽く手を上げて応えると、その長い黒髪を靡かせて部室を出た。
「あっ、薫ちゃんちょっと待って!
広瀬君、今日はありがとうね」
美華は薫を呼び止めると、
「ダメですよ、女子とちゃんと話せるようになんないと」
「うるせぇ」
などと誠と話していた明彦に太陽のような笑顔を見せる。
「いえ、今日はどっちかって言うと俺の方がお世話になってしまいまして……」
明彦は顔を誠から美華に向けて恥ずかしそうに笑う。
「それにしても先輩変わりましたね。
先輩が人に対してあんなに意見できるなんて……
ちょっと失礼かも知れませんけど、俺びっくりしちゃいましたよ」
「あはは、実は私が一番びっくりしてる。
これも、広瀬君のおかげかな」
「いえいえ、俺はなにもしてないですよ。
先輩の努力の結果ですよ」
「ありがと、そう言ってもらえると嬉しいよ」
「おい美華~まだか~?」
「あっ、ごめん、今行くよ!
じゃあね、広瀬君」
「あっ、はい、お疲れ様でした」
薫に呼ばれ、美華は駆け足で部室を後にする。
「遅いぞ美華」
「えへへ、ごめんごめん」
美華がにこやかに謝罪をして二人は肩を並べて廊下を歩く。
「なんだかご機嫌だな、美華」
「そう……かな……?」
少し照れた様子で胸元に視線を落とす美華。
「ああ、どうやら上手くいったようだな」
「うん、また広瀬君に褒められちゃった」
美華が屈託のない笑顔を見せる。
「その……なんというか……やはり、殿方に褒められるというのは……嬉しい、ものなのか……?」
薫は困惑と恥ずかしさが混在した表情で尋ねる。
「う~ん……まぁ、誰にでも褒められれば嬉しいけど……
広瀬君はちょっと別かな……?」
美華は考えるように顎に人差し指を当てて視線を宙に泳がせる。
「?
どのように違うんだ?」
「広瀬君に褒められた方が嬉しい」
美華がうっとりと目を僅かに細める。
「そう……なのか……?」
いつもと様子の違う美華に戸惑いを隠せない薫。
こんな表情は今までで一度も見たことがなかった。
「うん。
ほら、広瀬君て優しいし凄く頼りになるでしょ?
年下の男の子にこんな事思うのも変かも知れないけどさ――」
美華は頬を赤らめながらもじもじと指を遊ばせると、恥ずかしそうに笑顔を見せた。
「まるで私のお父さんみたいだなって……
そう、思うの……」
「ほおぉ、お父さんか……
いいんじゃないか?
美華らしくて」
薫はにっこりと笑う。
「そっ、そうかな……
大丈夫か な……?
私、変じゃないかな……?」
「うぅむ……
そう聞かれてもな……
私はそうゆうのはよく分からんのだ」
薫は眉を八の字に曲げて難しい表情を浮かべる。
「まあ思うだけでは罪にはならんからな。
好きなだけ思ってやればいいさ」
薫は笑いながら美華の背中を軽く数回叩く。
「ええっ!?
それってなんか私が変みたいじゃない!?」
「……?
そうなのか?」
不安そうに尋ねる美華に薫はキョトンとした表情で首を傾げる。
(やっ、やっぱり私って変な子なのかな……?)
隣を歩く薫を他所に自分の感性に疑念を膨らませる美華なのであった。