「……行っちゃいましたね」
ふと思い出したように明彦が口を開く。
誠が部室を出てから少しばかりの時間が経っていた。
特に返事は求めていない。
彼はただ誠が部室を出てから続くこの沈黙がむず痒かったのだ。
だから自然、興味なさそうな態度が表に出てしまう。
「そうだな」
それでも薫は律儀に答えを返す。
が、やはりその後には沈黙が訪れる。
明彦は先程の薫の言葉がひっかかっていた。
恐らく、というよりはやはりと言うべきか。
薫も他の部員達と同じように過去に闇を抱えているのだ。
しかし、それがなんなのかは分からない。
完全に蓋が閉じられた箱よりも中途半端に開かれた箱の方が中身が気になるように、明彦の興味は悪いと分かっていても彼女の過去に向かって注がれていた。
故に、口を開けばまた余計な一言を言い出しそうで、明彦は沈黙を破ることはできなかった。
適当な話題でも振って興味をそらそうかとも考えたが、生憎そんな都合も良く時間を潰せそうな話題はない。
大方ぶつ切りの会話が数回続く程度が関の山だろう。
明彦はちらりと横目で薫の姿を見る。
薫は背筋をしゃんと伸ばし、真っ直ぐな瞳で部室の唯一のドアを見据えていた。
何時なんどきに来客があっても対応できそうな雰囲気をむんむんと放ってはいるが、さっきの今で客など来る筈もない。
「なあ広瀬君」
薫がまるで不意打ちのように唐突に口を開く。
「はっ、はい……!
なんですか?」
それに少し驚いて明彦が答える。
見ると彼女は微動だにせずにドアを凝視していた。
その様はさながら部屋に飾られたアンティークドールのようであった。
「相談者は……いつ来るんだ……」
「さっ、さぁ……」
切実且つどこか哀愁の漂う声音に同情の念を孕ませた答えを返す。
「このまま相談者が来ない、なんて事は、ないよな……?」
薫の目は動かない。
他の所に目を移せば現実を見てしまうとでも考えているのだろうか。
「さっ、さぁ……」
同じ言葉だが、今回は先程よりも諦めに近い意味合いが込められていた。
現に誠を除いて一人が請け負う時間帯に一人程度しか人は来ていない。
薫の言うように一人も来ないまま終わる事も十分に有り得る。
「広瀬……君……」
薫の首が錆びたブリキの人形のようにぎこちなく周り明彦を見据える。
その目には涙が貯まっていた。
「だっ、大丈夫ですよ!
きっとそのうち誰か来ますっ て!」
今にも泣きそうな表情で捨て犬のようにプルプルと震える彼女を見たからにはそう言いざるをえない。
明彦が宥めすかすように何度か同じ言葉を繰り返すと、漸く薫はいつもの様子を取り戻す。
「しかし、まだ誰も来そうにないな……」
彼女は「はぁ~」と深い溜め息を着くと諦観めいた声音で呟く。
「そうですね」
明彦が答えると薫がぐぐっと上半身を天井に向かって伸ばす。
「ずっと気を張るのは疲れた。
少し休むとしよう」
独り言だとは思ったが、わざわざそんな宣言をする彼女が少し気になって明彦は顔を向ける。
すると薫が明彦の顔を見てにこりと微笑んだ。
「少し、話をしようか」
「はあ……」
突然改まったように言われ、思わず空返事が漏れる。
「この文化祭で、彼女達の様子はどうだった?」
唖然としている明彦を気に掛ける様子もなく言葉を継ぐ。
「彼女達……とは?」
うっすらと予測は出来ているが、確認の意味合いも込めて問い返す。
「無論、我等がニコ研の部員たちだ」
薫の回答に明彦は暫し黙考する。
が、様子はどうかと問われたところでこれと言って普段と変わりなかったような気がする。
「うむ、ならば質問を変えよう。
彼女達を今日一日見て、君が入部した当初と比べてどう思う?」
答えあぐねている明彦を見かねて薫は質問を変える。
「そう、ですね……」
明彦はそう呟いてから再び思考を巡らせる。
「冬野は明るくなったと思います。
奏は……あんまり変わってはないですけど、多少落ち着いてきたのかなって思います。
立花先輩はかなりスムーズに会話が出来るようになったんじゃないですかね?
草苅先輩は会長も見ての通り変わりはないです。
……なんか上から目線になっちゃいましたけど、そんな感じですかね」
反応を見るために顔を向けると、薫はなるほどと頷いた。
「どうしてこんな事訊くんですか?」
その事が少し気になったので問う。
「いやなに、会長として部の状況を正確に把握したくてな。
私も見ているつもりなのだが、参考のために他の人の意見も聞きたかったのだ」
薫が礼を言う代わりに笑う。
「会長は……
会長は、どうなんですか……?」
思わずそんな疑問を吐露してしまった。
自分よりも長い時間をニコ研で過ごし、彼女は少しでも変わったのだろうか。
先程誠に対して垣間見せた闇は過去のものなのか。
「ささあな……分からないよ。
逆に君から見て、私はどう写る?」
「ええっ!?
あっ、いや、そうですね……」
予想していなかった問に慌てて目を泳がせながら明彦は回答を捻り出す。
「草苅先輩と一緒で特に……変化らしい変化はないように見えます……」
「そうか。
うむ、私もそう思う」
薫は頬杖をつくとどこか遠い視線を正面に向ける。
変わっていなと自分で認識しているということは恐らくもう過去の事なのだろう。
その結論に至ると明彦は内心ほっとした気分になる。
(うわ……俺ヒーロー気取りじゃん……)
ふと明彦の胸にそんな思いが過る。
人の内側に踏み込むことは少なからず相手にダメージを与える行為だ。
奏の時も、美華の時も、雪菜の時も、明彦は無意識とはいえ彼女達の地雷原に足を踏み入れ、そして、傷付けた。
とりわけ雪菜の時は酷かった。
なんとかしようと足掻く度もがく度色んな所に顔を突っ込み引っ掻き回す。
他人から最低だと言われても言い訳が出来ないような所業をした。
結果として彼女達の心の負担を軽減することはできたのかもしれない。
しかし、それはあくまで結果論であり、それが絶対の正義であることの確証には ならない。にも関わらず、明彦は傲慢にも自分がなんとかしなければいけないなどとと考えてしまった。
押し付けの優しさを、誰も望まない正義を、彼は懲りもせず薫に向けようとしていた。
(最近いようにその手の話が気になるのもそのせいなのかな……)
今までのは偶然に偶然が重なってたたけだと自分に言い聞かせ溜め息をつく。
脳裏の奥底で滞っていたなにかを吐き出すかのように息を吐くと、少しだけ頭がスッキリしたような気がする。
すると今度は別の疑問が浮かんだ。
「そういえば、会長ってどうしてニコ研に入ったんですか?
草苅先輩や冬野みたいに先生に入れられた訳じゃないんですよね?
にしては立花先輩みたいにどこかを直したいって感じでもなさそうですし……」
「ははは、まぁそう思われても無理はないだろうな」
薫のどこか諦観したような笑みに明彦の心が妙に不安になる。
また、人の暗い過去に足を踏み入れてしまったのではないかと。
生唾を飲み込み、ごくりと喉仏が上下する。
薫の唇が重々しく動き言葉を紡ぐ。
「私はクラスメイトに性格を直した方がいいと言われてな。
それでニコ研に入ったのだ」
「え……?」
思わず目が点になる。
「いや、クラスメイトにこのままだといつか騙されるだとか変な男に引っ掛かるだとか色々と心配させてしまってな……
私もこのままじゃいけないのかと思っていたところにこの部を見つけ、入部を決意したのだ」
唖然とする明彦に薫が先程よりも詳しく経緯を説明する。
「はあ……なるほど……」
(なんか、草苅先輩の時もこんな感じだったな……)
若干のデジャビュを感じながら明彦は気の抜けた返事をする。
「しかし、恥ずかしながら私自身どうしたらいいものか分からず今に至っている……
とまあ、こんな具合かな?」
「他になにかあるか?」と問うように薫が明彦の顔を覗き混む。
「ありがとうございました。
……その、変な事訊いてすいません」
少し気恥ずかしくて明彦は顔を反らす。
そのせいもあってか言葉尻が少々弱々しくなる。
「いいんだ、気にするな。
私も君から情報を引き出したのだからおあいこだ。
それに、ここは人間関係及び対人コミュニケーション研究会なのだぞ?
部員達でコミュニケーションを取ることは大切な活動の一つではないか」
にっこりと眩しい笑みを浮かべる薫。
その輝く笑顔は彼女の心の中にある闇すらも明るく照らしていた。
淡く薄らいだ闇は明彦にそれはもう過去のものだという錯覚を与えた。
だからすんなりと興味を断ち切る事が出来た。
(もう、なるべく余計な事を詮索するのは止めよう……)
薫の言葉には何も返さず、明彦はふぅっと一息入れる。
すると、二、三控え目にドアをノックする音が聞こえた。
二人はびくりと肩を跳ね上げると、少し慌てた様子で狼とウサギの被り物を被る。
(なんで会長のだけやたら剥製っぽい感じなの……?)
当然本物の剥製ではないのだが、無駄にリアリティーを追求されたそのディテールに思わず驚愕する。
「どうぞ」
再びドアがノックされ、薫が答える。
おもむろにドアが開き恐る恐ると言った様子で馬の顔が隙間から此方を覗く。
なんだかとてつもなく久しぶりな気がするが、相変わらずシュールな光景である。
相談主は女子生徒であった。
ここの学生にしては珍しく指定の制服を来ている。
(なんか、女子ばっか来てないか……?)
ふとそんな思いが胸を過るが、高校男児は馬鹿で単純だから特に悩んだりしないんだろうな、と適当に結論付けて流すことにした。
「どうぞ、座ってください」
薫に促されて女子生徒が正面のイスに座る。
「どのようなご用件でしょうか?」
「はい、その……私、実は好きな人がいて……
それで……その……」
女子生徒はもじもじと歯切れ悪く言葉を紡いでいくと、意を決したように俯いていた顔を正面に向ける。
「その人の好きそうなタイプと私のタイプが違うっぽくて……それで、どうすればいいのかなって……」
最初こそ気合いの入った声音であったが、徐々にその勢いは衰え最後には呟き程度の声量になってしまう。
「それは……つまり?」
今の説明では言葉足らずだったのか、薫が明確な要点の提示を要求する。
「その人の好きそうなタイプに合わせて私も変わった方がいいのかなって……
その事で悩んでます」
弱々しい声音でそう告げて俯く。
「一応訊くけどその人の好きそうなタイプってどんな感じなの?」
明彦が尋ねると女子生徒の頭がむくりと持ち上がる。
そして小首を捻って頬であるだろう部分に人差し指を当てる。
「えと、大人しい系……?
あっ、でもたまにスッゴく大胆で、それで結構悪戯好き……なのかな?
あと……ツンデレ?」
(なんか、大分細かいな……
もうこれ個人特定出来るレベルだろ……
ってか絶対こいつと友達だろ……
なんか、気まずくね?)
そんな感想は伏せつつ明彦は次の質問に移る。
「じゃあ、君は……?」
「えっ、わっ……私?」
女子生徒は見るからに慌てた様子で手をわちゃわちゃと遊ばせる。
明彦は落ち着けと言わんばかりにゆっくりと頷く。
「えと、えと……」
しかしその意思は通じなかったのか、彼女は世話しなく視線を斜め上で泳がせる。
そしてはっと天啓を受けたかのように顔を明彦に向け、両手を膝に置いて少し体を前のめりにさせてる。
「どっ、どう思う!?」
くわっという効果音が聞こえて来そうな勢いで女子生徒は言い放った。
「いや……俺に訊かれても……」
当然あって数分の人物の人間性など分かる筈もなく、呆れた様子で明彦は答える。
「多少主観的になってもいいからさ。
君は自分がどんなタイプだと思う?」
そう問うと女子生徒はう゛~と唸ってシンキングタイムに入る。
「コミュ障……」
(いや、それタイプじゃなくね!?)
「臆病……
ネクラ……
能天気……
馬鹿……」
(ものっそいネガティブだなこの子!!)
「それから……」
「待って待って待って!
もういいから!
なんか答えづらい質問してごめんね!?」
今にでも泣き出すのではないかと思うほど声を震わせる彼女を明彦が慌てて止める。
「えと……じゃあ周りからはどう言われてる?」
引き攣った笑顔を浮かべながら問うと、女子生徒は腕を組んで黙考する。
「……さあ」
あまりにも他人行儀な回答に明彦が固まる。
(もしかして……友達いない系……?
ボッチってやつ?)
「しかし聞いてるとそれほどまでに例の彼女と貴女とのベクトルが違うとも思えませんが」
表情に影を落とす明彦の隣で薫が小首を捻る。
「いや、その……私普段はアホみたいに明るく振る舞ってるんで……」
「それは、キャラクターを演じているということですか?」
「うっ……まぁ、近からず遠からずというか……」
恐らく彼女は自分でネクラだのなんだの言ってはいても結構ノリの良い性格なのだろう。
故に他人に合わせて自分も明るく振る舞うみたいな場面が多いのかもしれない。
しかし、それならば逆に好都合である。
「だったらそのキャラクター、演じなければ良いんじゃないの?」
「いや……でも素の私って多分相当暗いですよ……?
クールっていうよりダークですよ?」
ずうんとダークなオーラを身に纏いながら女子生徒が項垂れる。
「それは、その、ほら……
その人と全く同じ性格になるなんて無理なんだしさ、自分なりの妥協点というか……」
大分後ろ向きな思考回路を有する彼女をどう説得したものかと頭を悩ませながら明彦は言葉を紡いでいく。
そして、それが面倒になったのかくわっと目を見開いて目の前にちょこんと座る女子生徒を真っ直ぐに見据える。
「そもそも好きな人のために性格を変えるなんて事がもうおかしい!
男なら……じゃなくて女なら……あれ?
まぁいいや、取り敢えずそんな上っ面の飾り化粧なんて直ぐに剥がれてばれる。
だから本気でその人の事が好きならありのままの自分をぶつけていくべきだ!」
何処と無くしまらないが、それでも明彦はそう強く言い放った。
「うん……分かってる」
その言葉に対し彼女は小さく、呟くように応えた。
そして、とつとつと言葉を継ぎ足していく。
「結構、素の自分を見せてきたつもりだったんだけどさ……
なんか、それだとどうしても友達止まりって気がするんだよね……」
友達止まり、ということは少なからず人間関係としては良好なのだろう。
しかしそれから先、恋愛ともなると話は別である。
そういった居心地の良さや信頼感に+αなにか付加価値を相手に抱かせる必要があるのだ。
彼女の場合、その人の好きそうなタイプになることでその付加価値を得ようとしていたのだろう。
「う~ん……そうか……」
彼女の返答に明彦は腕を組んで苦い表情を浮かべる。
「あの……よくわからないのですが……
他に策がないのであればやってみてはどうでしょうか?」
キョトンとした表情で薫が言う。
「へ……?
なにをですか?」
明彦が顔を向けて尋ねる。
「タイプを変える事をだ」
薫も同じく明彦の方へ目を向けて答える。
「いや……でもやっぱりそれは上部だけって言うか……
そもそも万が一それで好きになられてもそれは自分とは言えないんじゃないですか?」
「うむ、正しくそれだ」
否定的なニュアンスを込めた筈なのにも関わらず、何故か思いっきり肯定されて明彦の表情が固まる。
(……え?)
唖然とする明彦を余所に薫は女子生徒の方へ顔を向ける。
「突然ですが、貴女は本気でその殿方に好意を寄せていますか?」
「はっ、はいっ!」
その問い質すような鋭い声音に思わず背筋が伸びる。
「その人にもっと見てもらいたいと思っていますか?」
「はいっ!」
「その為に自分を捨てる覚悟はありますか?」
「はっ――ぅえっ!?」
言いかけて女子生徒は奇っ怪な声を上げた。
「へ?
どうゆう、こと……?」
そして訝しむような、それでいて不安そうでもある表情で尋ねた。
明彦も薫の真意が良く分からず無言で顔を向ける。
「今、彼が言ったように上部だけではなんの意味もないのです。
そんなものはまやかし物でしかない。
故に、根本から変えてしまうのです。
いや、正確には徹底的にそのキャラクターを演じると言った方が正しいのかもしれませんね。
それも、自分自身が自分はそういう人間であると錯覚するほどに……」
「ちょっ……会長……?
なに、言ってんですか……?」
薫の狂気にも似た発言に思わず言葉が詰まる。
「そんなの……無理に決まってますよ。
できっこないです」
「いいや、出来るさ」
僅かに震えた明彦の反論を彼女はあっさりと一蹴する。
「人間、物理的に不可能なこと以外であれば本気になれば大体は出来てしまうものだ。
精神論というのもなかなか馬鹿には出来ない」
「でも……」
明彦は反論しようとしたが言い淀む。
それを決めるのは自分ではない。
そう思って女子生徒に目を向ける。
薫も何一つ冗談はないと言わんばかりに真っ直ぐな瞳を彼女に向ける。
「えっ、あっ、いや……でも……」
その視線を受けて彼女は困惑した様子で途切れ途切れに言葉を継いでいく。
当然だ。
急にこんな質問をされて直ぐに答えられる人はいないだろう。
答えあぐねているということは多少なりとも否定的な感情があるはずだ。
ならばと、明彦は先程の反論の続きを口にする。
「さっきも言いましたけど、やっぱりそんなのおかしいですよ。
俺は、そんな即席の人格を自分だとは呼べません」
「そうか……」
薫は僅かに視線を落として呟く。
このとき、彼女は酷く悲しげな、それでいて寂しそうな顔だった。
が、それも一瞬で気づいた時にはもういつもの表情に戻っていた。
「そうだな。
うむ、三つ子の魂百までともいうし、そう、簡単なものでは……ない、のかな」
薫の言葉は徐々に徐々に弱々しくなり、最後は呟きのようになっていた。
視線も自然と足元へと向かう。
「君も、やっぱりそうゆうことはやるべきじゃないと思う。
今の会長の話を聞いて、余計強く、そう思った」
「へ?」
突然放たれた明彦の咎めるような声に、女子生徒が呆けた声を上げる。
「貴女の相談ってのはつまりそうゆうことなんだ」
それはつまり自分を殺す事であり、今まで歩んできた人生、そしてそれよって形成された現在の人格への冒涜だ。
そんな行為を一体誰が祝福するのだろうか、誰が賛美するのだろうか。
奏でや美華、雪菜はそうするしか自分を守れなくて、救えなくて、已む無く自分を殺した。
いや、殺されたのだ。
多少の原因は本人にもあるのかもしれない。
しかし、それでも彼女達は周りや大切な人にに否定され、拒絶され、確かに本来の自分を殺されたのだ。
それを自分からするなど途方もなく馬鹿げている。
「キャラを変えるなんて中途半端にやっても意味はない。
でも、だからって人格を根本から変えるなんて絶対にやっちゃダメなんだと思う」
「うん……」
諭すような明彦の言葉に女子生徒は素直に頷く。
「きっと今、すごく辛いんだと思う。
届きそうで届かなくて、自分でもどうしていいか分からなくて……
そのくせ思いだけは募っていく」
確認するように視線を向けると、彼女は小さく頷いた。
「本気で、その人の事が好きなんでしょ?」
今度は少し間を開けた後、やはり頷いた。
「その気持ちは凄く大切で綺麗なものだと思う。
だからさ――」
妙な言葉の間に女子生徒は顔を上げる。
マスクを被っているので良く分からないが、この時二人は確かにお互いの目を見合っていたのだろう。
「君はもっと自分に自信を持った方がいいよ」
だからきっと、明彦の満面の笑みも彼女に伝わっていたのだろう。
「そう……ですかね……」
彼女の声は心なしか先程よりも明るく感じられた。
「そうだよ。
ううんと……何て言えばいいのかな……?」
明彦は腕を組んで少しばかり思考を巡らせると、ハッとした様子で目を見開く。
「自分を好きになってもらうんじゃなくて自分を好きにさせる……みたいな……?
確かに時間は掛かるかもしれない。
その間の時間は辛いかもしれない。
でも、そうやって必死こいて、試行錯誤して一つ一つ積み重ねたものはさ、きっと君を裏切らないと思う」
彼女は返事をしなかった。
ただ黙って明彦の顔をじっと見つめているだけだった。
「あっ……あははは……
やっぱり、そんな都合良くは……いかないよね……
ごめん……」
思わずそんな言葉が口から出てきた。
彼女は今、どんな表情をしているのだろうか。
泣いているのだろうか、怒っているのだろうか、それとも呆れているのだろうか。
顔を隠しているマスクのせいで余計に不安感が掻き立てられる。
「うん……
本当に……そんな都合良くはいかないんだよ……」
マスクから絞り出された掠れた声。
声が少し震えているところをみるともしかしたら泣いているのかもしれない。
「力になれなくてごめん……
でも、結果は兎も角として君が彼の事を真剣に思っていれば、その気持ちは伝わる……と、思う……」
自分でも情けなく思うほど言葉尻に行くほど自信が希薄になっていく。
「成功するとは、言ってくれないんだね……」
その言葉に女子生徒は寂しげな声で応える。
「まぁ、無闇矢鱈にそうゆうことは言えないしね……」
「失礼。
ちょっといいかな?」
諦観めいた雰囲気の中に薫の言葉が割ってはいる。
二人は一旦会話を打ち切って薫に視線を向ける。
「気持ちは、思っているだけでは伝わらないと思うのだが……
やはり言葉にして、相手がそれを受け取って、始めて伝わったと、そう言えるのではないか?」
それは、薫らしいとても真っ直ぐな疑問だった。
しかしそれは愚直ともとれる。
愛の告白というのは聞こえこそ美しいが、破談してしまうと色々と遺恨を残すことが多々ある。
恥ずかしさから会話がぎこちなくなったり、気を使って距離を取ったりと、人間関係を不可逆的に変化させる恐れがある。
極論を言ってしまえば成功すれば恋人、失敗すれば他人へと成り下がってしまうような大博打なのだ。
恋愛経験が実は少ない明彦でもそれくらいのことは心得ている。
寧ろ心得ているからこそ行動的になれずに恋愛経験値が低いままともいえる。
「いや、会長……そうは言ってもですね……
結構色々と柵もあるんですよ……」
諭すように明彦は応える。
「そうなのか?
好きなものを好きと言って何がいけないのだ?」
キョトンとした表情で薫が問う。
「いや、まぁ……いけなくはないんですけど……
リスクというか、事後処理が……」
一瞬目の前にいる彼女に同意を求めようとしたがグッと視線を下に落とし込む。
流石にこんな負けることを前提とした話に同意してはくれないだろうし、何より酷だ。
「でも、伝えなければ伝わらないままだ。
いくら自分の持ち得る全ての言葉や知識や思いを注ぎ込んだ秀逸な恋文を 書いたとしても、見せるべき人に見せなければそれはただの紙束でしかない。
……違うか?」
薫は一語一語に重みを持たせて言葉を紡ぎ、最後に意見を求めるように尋ねる。
彼女の問いに明彦は応える事が出来なかった。
その代わりに女子生徒が口を開く。
「違わないと……思います……」
ゆっくりと放たれたその言葉には確信と共にどこか哀愁にも似た感情が込められていた。
「ではなぜ……」
「怖いんですよ。
分からないんですか?」
恨めしそうに、そして糾弾するかのように彼女は聞き返す。
「分かりませんね」
しかし、薫は考える間を置くことなく一蹴する。
「好きな人は目の前にいるのに、その声は届くのに、やろうと思えば伝えられるのに、なぜ貴女は自分の気持ちを言葉にしないのですか?
私は貴女が羨ましい。
行動で示すしかない私は、相手の表情を窺いながらいつか思いが通じるのではないかと盲信することしか出来ない私は……
貴女が……羨ましい……」
熱を帯びた声音でそう言い放つと、彼女はふっと視線を伏せる。
訪れる静寂。
まるでこの空間だけ時間の流れが淀んでいるようだった。
「そう、かもしれません……
私の言っていることは見る人から見れば贅沢で我が儘まなものなのかもしれません。
確かに私はその気になればいつでも彼にこの気持ちを打ち明けることができる。
彼もきっと真剣になって私の話を聞いてくれる」
女子生徒が静かに、しかし力強く静寂を打ち破る。
「でも、だからこそ、それは最後まで取っておきたいんです」
彼女の言葉に薫はマスクの中で一度目を丸くさせた後、キリリとした笑顔を浮かべる。
「覚悟を決めたようですね」
「はい、貴女のおかげで私決められました」
女子生徒がコクりと頷く。
「私、彼にこの思いを伝えます。
どんなに彼が近くにいても、形にしないと見えないから、声にしないと聞こえないから……!
だから、もっと形にする、ちゃんと声に出す。
私に足りなかったのはキャラクターとかそんなんじゃなくて、そうゆう所なんだって気付いたから……」
(そう、私は他力本願で、受け身で、結局自分の力でどうにかしようとか思ってなかったんだ……
目の前に壁があれば誰かが手を差し伸べてくれるのをただ待つだけだった。
だからいつまでたっても進めない、進まない。
でも、もうそんなのは嫌だ)
「うっ、うん……まぁ良い結論が出たなら良かったよ」
なんだかよく分からない内にベストアンサーが導き 出され、明彦は戸惑いながらもそれらしい言葉を告げる。
「心ながらに応援しています」
その一方で薫はゆっくりと頷いて柔らかな声音で女子生徒を鼓舞した。
「ありがとうございました」
彼女は席から立ち上がってぺこりとお辞儀をすると、すたすたと部室を後にした。
(これからは、確りと自分の足で歩く)
女子生徒は後ろ手にドアを閉めると、その横にある長机に馬のマスクを置く。
(例えそれが、叶わぬ夢だとしても……)