Ⅰ
文化祭が終わり、それに次いで体育祭もあっという間に終わった。
しかし高校二年生の秋イベントはこれだけではない。
そう、高校生活最大といっても過言ではない一大イベント、修学旅行である。
そんな訳で現在二年生である薫、美華、誠の三人は本日より四泊五日で沖縄へ向かうことになった。
「えっと……なんか会長から部長代理を任されちゃったんだけど……どうしよ……」
明彦は表情に影を落としながらぼやくように告げる。
因みに、場所は自由ヶ原高校人間関係及び対人コミュニケーション研究会部室である。
「どうしようって、なにを?」
雪菜が小説のページを繰る手を止めて小首を捻る。
「いや、なんか「私がいない間部の運営を頼む」とか言われちゃったんだけどさ……
なにをどうすればいいのか全然わかんないんだよ……」
軽い頭痛を覚え、思わず頭を抱える明彦。
「ってかこの部って活動してたのか……?」
「だよな……」
そこに追い討ちのように発せられた奏の呟きが彼の中の憂鬱を更に増大させる。
「別にそこまで気張んなくてもいいんじゃないの?
普段から殆んどなにもしてないんだし」
そんな明彦に雪菜が労るような言葉をかける。
「うん、まぁそうなんだけどさ……」
「お前、ほんと変なところで真面目だよな……」
頭を抱えながらうんうんと唸る明彦を見ながら奏が呆れ気味に呟く。
「だってなんか問題起こって俺のせいになったら面倒じゃん。
だったら形だけでもやってるアピールしといた方が得だろ?」
「うん、悪い、前言撤回するわ」
平然とした様子で自分の本心を吐露させた明彦に、やはり奏は呆れたような声で応える。
「でも、問題なんてそんなに起こらないと思うけど……
そもそも私達なにもしてないんだし」
雪菜が杞憂だといわんばかりにそう言うと、突然無作法に部室のドアが開け放たれた。
「ようお前ら、お疲れさん」
けだるげな声で挨拶をしながら入ってきたのはニコ研の顧問である増田先生であった。
相変わらず顎には無精髭を蓄え、だらしなくスーツを着こなしている。
(((なっ、なんか問題起きたっぽい!!)))
増田の登場により三人の表情が一気に引き攣る。
「あれ?
天猫院達は?」
増田視線を左右に薙ぐとそう訊ねた。
「いや……なにいってるんですか、修学旅行に行ってるんだから居るわけないじゃないですか……」
「えっ?
そうだっけか?」
「って言うか先生は行かないんですか……?
たしか生徒指導主任でしたよね……」
寝惚けたように尋ねる増田に雪菜が呆れたような表情を見せる。
「ああ、俺は担任のクラス持ってないからな。
それに旅行先でまでいちいち生徒を指導する必要性もないだろ。
生徒も修学旅行でぐらい羽伸ばさないとな」
「なるほど、そうゆう事でしたか」
「それで、会長になにかご用ですか?」
軽い口調で説明する増田に雪菜が頷くと、明彦が思い出したように軌道修正する。
「そうそう、体育祭のごたごたで伝えらんなかった事があったんだがな……」
増田は顎に手を当てて暫く黙考すると、特にひらめいた感じでもない表情で口を開く。
「うん、めんどくさいからここで言うわ。
あいつら帰ってきたら伝えといてくれ」
「いや、いいんですかそれで……」
明彦が呆れたような表情で増田を咎めるが、彼はそんな事歯牙にもかけない様子で言葉を続ける。
「この部の事だから多分大丈夫だ。
それにお前達がちゃんと伝えてくれれば問題はない」
雪菜がやれやれと言わんばかりの溜め息をつくと増田は本題を話し始めた。
「文化祭……お前達、よく頑張ったな。
廃部の件は一旦白紙に戻った」
「それ、本当か!?」
吉報に奏が敬語も忘れて喜びの声を上げる。
「ああ、勿論本当だ。
ったく……やりゃできんだからちゃんとやってくれよな……
こっちはずっと「あの部は我が校に必要なものですから、顧問である増田先生が何とかしてくださいよ」とか訳分からん圧力かけられてたんだからな。
やべぇぞ。
超めんどくせぇぞ。」
「それはなんか……すいません……」
「まぁ、済んだことはもういい。
来年もこの調子で頑張ってくれ。
でも、だ」
増田は明彦の謝罪にヒラヒラと手を振って答えると、ドア近くに置いてあるパイプ椅子を広げてどっかりと座る。
「俺としては今の状況、あまり好ましいとは思わないんだよな」
「なっ、なんでですか!
ニコ研は廃部にならずに済んだじゃないですか!」
増田の真剣な声に不安を掻き立てられたのか、奏が思わず声を上げる。
「落ち着け神崎。
俺が言ってるのはこの部活の事じゃない。
お前らの事だ」
「えと、それはどうゆう……」
雪菜は増田の言わんとする事を予測しようと試みるが、結局分からず彼の言葉を待つ。
「お前ら友達はいるのか?」
すると、彼は重厚な声音でそう尋ねた。
その問いに、明彦達は間髪入れずにお互いにお互いを指差し合う。
「いや、そうじゃなくてだな……」
増田はやれやれと言わんばかりの溜め息をついてから言葉を継ぐ。
「この部以外の友達だ」
「先生」
「なんだ?」
突然挙手する雪菜に顔を向ける。
「友達の定義を教えてください」
「お前さっきその二人のこと友達だっつってただろ……」
増田は呆れた様子で答えると、「兎に角」と言って話を本題に戻す。
「お前ら、この部以外でちゃんと友達作れ。
でないとこの部が残った意味がない」
「先生、その言い方は酷いんじゃないですか?」
明彦がスッと立ち上がり、増田を睨み付ける。
今、彼の中には怒りの炎が燃えたぎっていた。
しかし、相手が教師である以上その怒りを爆発させる事もできず、最低限の思いを彼にぶつける。
「先生は全然この部に来ないから分からないかも知れませんけど、俺達――いや、冬野達は遊んでた訳じゃないんですよ?
冬野も、奏も、悩んで、苦しんで漸くここまで来たんです。
それに、それはきっとこの部があったからだと思います。
なのに、このままだと意味がないなんて……
なんでそんな酷いこと言うんですか! ?」
「だからこそだよ」
「え?」
きょとんと呆けた表情をみせる明彦に増田は続ける。
「確かに冬野も、神崎も、あとここにはいねぇけど立花も、みんな変わったと思う。
その変化やその裏にある努力が全部無駄なんて俺は言わねぇよ。
ただな、お前らがここに居られる時間は無限じゃねぇんだ」
増田はそこで言葉を切って明彦の顔を見る。
「広瀬、お前は友達思いのいいやつだ。
でも、その二人と一生一緒にいられるか?
お前の人生棒に振るってまで神崎と冬野に尽くせるほどお前は愚かなのか?
違うだろ?」
「ええ、はい……
そうですね……」
そう、ここは高校なのだ。
いつか必ず卒業という終わりが訪れる。
そしてその後には大学、就職、場合によっては大学院に進むかもしれない。
そんな細かく枝分かれしていく人生全てにおいて二人に寄り添うなど不可能に近い。
増田の言わんとする事が何となく理解できた明彦は、大人しくパイプ椅子に座り直す。
「お前の言う通りここの部員達はみんな頑張ったんだろうよ。
その結果としてこの部をきっちりと守った訳だしな。
でも、だからこそここでもう一頑張りしてほしんだ、俺はよ」
増田の言葉と共に部室に静寂が広がる。
「分かりました……頑張ってみます……」
それを破ったのは雪菜の弱々しい声であった。
「おっ、俺も……もうちょっとやってみます……」
それに続いて奏も脆弱な決意を口にする。
明彦は二人が自分からその言葉を口にしたことが何故かとても嬉しかった。
「おお、頑張れ!
俺も応援してるからな!」
多分娘の成長を見る父親ってこんな感情なんだろうなと、よく分からない感情を抱きつつ、彼は二人にグッと親指を立ててみせる。
「バーカ、お前もがんばんだよ」
が、そのあとに続いた増田のツッコミに、明彦は思わず照れ笑いを浮かべてしまうのであった。
「で、友達ってどうやって作ればいいんだ?」
「私も、忘れちゃった……」
増田が帰った後、最終下校時刻までの残り時間で明日に備えての作戦会議が開かれていた。
「俺と雪菜ってどうゆう経緯で友達になったっけ?」
「分からない……
私達、どのタイミングで友達になったっけ……?」
(ダメだこりゃ……)
が、引き籠り経験ありの奏と一年近く人を遠ざけていた雪菜である。
会議は当然の如く難航していた。
「なぁ明彦、友達ってどうやって作るんだ?」
「教えて、ニコ研のエース」
彼女達もその事に気付いたのだろう、この中では一番人との友好関係を築くのが上手そうな明彦に意見を仰ぐ。
「もう、エースのことは忘れてくれない?」
そうツッコミを交えつつ彼は暫しのシンキングタイムに入る。
実際問題友達の作り方なんて彼自身分からない。
何故なら友達とは大抵の場合気付いた時にはそういった関係になっているからだ。
「うぅん……そうだな……」
そう呟いてハッとある事を尋ねる。
「そういえば二人って朝誰かに挨拶とかしてる?」
すると、二人はふるふると首を横に振った。
「じゃあ取り敢えず朝誰でもいいから取り敢えず挨拶するっていうのはどう?」
「うぅ……挨拶……」
「ハードル高いな……」
始めは軽くと思って提案したのだが、二人は難しい表情で唸りを上げていた。
(これでハードル高いって俺どうすればいいの……?)
早くも心が折れそうになるが、ここは踏み留まって彼女達の説得を試みる。
「えと……ほら、いない?
クラスで仲良くしてくれそうな人」
「いない……」
「俺は、いるけど……」
雪菜は今までの行いを悔いるかのようにずうんと表情を沈ませ、奏は自分に非があると言わんばかりに顔を伏せて黙り込む。
その二人の様子を見て、明彦も思わず言葉を失ってしまう。
「じゃぁ……その、隣の席の人とかはどうかな……?」
明彦はなんとか言葉を絞り出すが、それは何度目かの沈黙を打ち破るには及ばなかった。
「うぅ……兎に角、明日の朝は誰かに挨拶すること!
わかった!?」
すると、彼は有無を言わせないような口調で強引に会議を終了させる。
「「はい……」」
それに対し、彼女達は不承不承というか不安感たっぷりな様子で返事をすのであった。
―翌日―
斯くして増田により発令された“友達百人出来るかな?大作戦”が始動したのだが――
「なんでお前ら俺の部屋の前にいるの……?」
明彦が学校に行こうと玄関のドアを開けると、そこには雪菜と奏の姿があった。
「いや、その……不安すぎて……」
「同じく」
よっぽど不安だったのだろう、二人の表情はどこか窶れているように見えた。
「だからってわざわざ俺と一緒に行かなくても大丈夫だろ」
その様子を見てか、明彦は優しい声でそう言いながら困ったように後頭部を掻く。
「ばっ、バカ野郎!
一人で行ったら決心が鈍るだろうが!」
奏は頬を僅かに赤らめて目尻に涙を浮かべる。
「今更どんな顔してクラスのみんなに会えばいいのか分からない……」
その一方で雪菜はどんよりと顔を青くさせていた。
「まぁまぁ始めは軽くでいいから。
あまり気負わずに気楽にいこうよ」
このままだと玄関口から動かなくなりそうな二人を適当になだめて明彦は歩き出す。
すると、奏は袖を、雪菜は裾を半歩後ろから掴んできた。
(なんだろう、この迷子の子供を連れて歩いてる感じ……)
そんなことを思いながら彼は二人を連れて学校へと向かう。
(はぁやっとついた……)
校舎へと到着する道すがら、二人は完全に無言であった。
重苦しい空気を背負ったままの登校は何時もよりも数倍疲労感を感じさせた。
「ほら、ついたよ」
そう言って後ろを見ると、二人揃ってまるで捨てられた仔犬のように体をぷるぷると震わせていた。
「えと……大丈夫……?」
思わずそんな言葉が漏れ出た。
「だめ……かも……」
雪菜は弱々しい声でそう言うと裾を握る手の力を少しだけ強める。
今まで敵を作り続けてきた彼女にとって、自分のクラスとは敵しかいない場所なのだ。
そんな所でこれから友達をつくろうとしているのだから緊張の一つや二つするのが当たり前だと言えるだろう。
「大丈夫。
今日は挨拶をするだけ。
それ以外の事はしなくていいから」
「うん……分かった……」
明彦が微笑みを浮かべると、雪菜は不安そうな表情をみせつつもそっと明彦の服から手を離す。
「じゃあ、私こっちだから……」
それから彼女は無言のまま明彦の後ろを歩いていくと、階段を上ったところでそう言った。
その表情は不安と絶望で真っ黒に彩られており、さながらテストで失敗した後の受験生のようであった。
「おっ、おう……」
そんな彼女の表情になんと言えば良いか分からず、とくに意味もない声が口から漏れる。
せめて雪菜が教室に入るまでを見守っていたかったのだが、こちらもそういうわけにはいかない。
「明彦……俺もなんか怖くなってきちまったよ……」
雪菜が纏っていた負のオーラに当てられたのか、奏の顔が先程よりも数倍不安そうなものになっていた。
「大丈夫だよ。
俺が先に入ってお手本見せるから」
「ほんとか!?」
予想外の援軍に、奏がまるで子供のように目を輝かせる。
「まぁ上手くお手本になれるかは分からないけど……」
恐らくたった今彼女のなかでとんでもなく高めに設定されたハードルを落としてから、明彦はそっと教室の引き戸に手を掛ける。
その一方で、雪菜は未だに教室の中に入れずにいた。
現状況でクラスの好感度はマイナス値を叩き出す程に低迷している筈だ。
少なくとも彼女の中ではそうなっている。
故に、隣の席に突然挨拶なんてしたら気味悪がられるのではないかと思い至った訳だが、かといって不特定多数に対してどのように挨拶をすればいいのかも彼女には分からなかった。
(席についてからじゃ絶対遅いし、ここでやるしかないんだろうけど……
うぅ……どうしよう……)
雪菜は自分の知り得るなかで最も波風を立てず、尚且つ好感度を修復できる挨拶はないかと脳内検索を掛ける。
(「みんなおっはよ~☆
雪菜だよ、てへっ☆」)
思わず全身の毛が逆立った。
(誰これ……
っていうかこんな挨拶じゃ絶対虐められる……)
明らかにふざけた検索結果が出てきたが、彼女はめげずに再び脳内で検索を掛ける。
(「教室に、俺参上!!」)
思わず自分の頬に平手打ちを喰らわせてしまった。
(なんか何処かで聞いたことがある……
っていうか何と無く奏ちゃんが言いそう……)
ヒリヒリと頬の痛みを感じながら三度脳内で検索を開始する。
(「皆さん、御早う御座います。
不束者ですが、どうぞ今日も御贔屓にお願い致します」)
頭の中で和室がイメージされ、思わずブンブンと顔を振る。
(だめだ……絶対違う……
っていうか私、挨拶しなさすぎて完全にやり方分かんなくなってる……)
あまりのコミュニティ能力の低さに思わずしゃがみ込んで両手を頬に当てる雪菜。
(どうしようどうしよう、やっぱり私に挨拶なんて無理だよぉ……
でも、このままじゃ私が広瀬君の重荷になっちゃうし……)
「あの……冬野さん……だったよね?」
どす黒いオーラを撒き散らしながら悶々と思考を巡らせていると、背後からそんな声が聞こえた。
「……?」
なんだと思い振り返ってみると、そこには眼鏡を掛けた大人しそうな顔の女子生徒がこちらを覗き込むように見ていた。
「えっ、えと……大丈夫……?
具合とか……悪いの?」
彼女は何処か怯えた様子でそう尋ねるが、その目は心配そうに雪菜の事を見つめていた。
「なんで……?」
そんなに具合の悪そうな顔してるのかなという気持ちと、なんで自分に話し掛けてくれたのだろうかという二つの気持ちが相成って、そんな言葉が口から溢れた。
「えっ?
なんでってその……ドアの前でしゃがみ込んでたし……」
「あっ、ああうん、大丈夫。
心配させてごめん」
彼女の言葉に納得し、立ち上がって誤解させてしまった事を詫びる。
すると、彼女は不思議そうにこちらを見つめる。
「どうしたの?」
雪菜が首を傾げると、彼女はびくりと肩を跳ね上がらせる。
「ごっ、ごめんなさい……!
なんかいつもと雰囲気が違うなって……
へっ、変だよね、殆んど喋ったこともないのに……」
そう言って彼女は困ったような笑顔を浮かべた。
彼女の反応も無理はない。
雪菜は敢えて第一印象を最悪にしようと努めていたし、他人との会話も拒み続けてきた。
恐らく彼女にとって今目の前にいる雪菜はまるで別人のように写っているのだろう。
改めて自分の作った壁の大きさを確認して思わず溜め息が溢れる。
その息吹きを丁度よくチャイムが打ち消す。
「あっ、いけない、早く教室に入んないと!」
そう言って彼女は教室の引き戸をがらりと開ける。
「みんなおはよ~」
「おっ、おはよう……ございます……」
そう言いながら教室に入っていく彼女から少し遅れて、雪菜が呟くように挨拶の言葉を口にして教室に入る。
時は僅かに遡り、場面は一年E組の教室の前へと移り変わる。
教室の引き戸に手を掛けた明彦は冷静な面持ちとは裏腹に緊張していた。彼も雪菜と同様に暫く挨拶などしないで教室に入っていたため、どうすればいいのかを忘れている状態であった。
しかも勢い余って「お手本を見せる」などと言ってしまった以上、失敗は許されない。
が、どうやら神は考える時間を与える気はないらしい。
「どうした?
明彦」
後ろから奏の声が聞こえてきた。
「あっ、いや、ごめん。
奏、行くよ……」
一旦奏に向けた顔を正面に戻し、声だけで確認をとる。
「おっ、おう……」
すると、彼女の緊張した声が返ってきた。
それを聞いてから、明彦は覚悟を決めてドアを開く。
教室に入った時の雰囲気は正直悪かった。
いや、正しくは無反応と言うべきか、誰も彼の姿に気を留める事はなかった。
こんな状態で落ち溢れ生徒代表とも言える明彦が挨拶をしたとしても恐らく誰も反応はしないだろう。
いいとこ数人がこちらに視線を飛ばすのが関の山だ。
そう考えた明彦は即座に全体に挨拶という選択肢を捨て、自分の席へと歩いていく。
その途中、視線を忙しなく移動させてクラスの面々を観察、分析していく。
彼が元居た中学校とは違い、ここは進学校だ。
盛り上がる話題も絞りやすい。
「おはよう、何してるの?」
彼が話し掛ける相手としてロックオンしたのは、彼の席から見て斜め前の席に座る男子生徒であった。
彼はノートにシャープペンを走らせながら、時折難しそうな顔で教科書を睨んでいた。
「なにしてるって……昨日の数学の復習してんだよ」
彼は明彦の声に気付いてペンを止めると、少し鬱陶しそうに応えた。
「だよね!
俺もそこ分かんなかったからさ、ついてでいいから教えてくれない?」
「えっ?
ああ、まぁいいけど……」
彼は少し驚いた後、不承不承な感じではありつつも明彦の申し入れを了承してくれた。
「ありがと!
じゃあちょっと椅子取ってくるから待ってて」
「ああ、うん。
それはいいんだけどさ……その子はなんなの?
さっきからずっと君の後ろにくっついてたんだけど……」
バッグを机の上に置こうとしたその時、背中からそんな声が聞こえた。
まさかと思って振り返ると、そこには「バレたかっ!?」と言わんばかりの表情で目をあっちこっちに泳がせている奏の姿があった。
明彦はじとっとした視線を彼女に向けると、「お前も俺に便乗して挨拶しとけ」と目で訴える。
奏が反らしていた視線をチラリと彼の方に向けると、その意志が伝わったのか、一度驚いたような表情を浮かべてから明彦の斜め前の男子生徒を正面から見据えた。
「えっ、なに……?」
奏の真剣な面持ちを見てか、彼が困惑したような声を漏らす。
対して奏は出そうとしている声が喉に突っ掛かって窒息しそうになっていた。
苦悶に歪む彼女の表情が、彼の不安を助長させる。
まるで一秒が数十倍に感じられるような淀んだ時間の中で、漸く奏か口を開く。
「おっ、おぉ……っ!!」
詰まった言葉が、ずるずると重たい体を引き摺って彼女の口から顔を出す。
(頑張れ奏、もう一息だ!
そのままおはようって言うんだ!)
明彦は自分の席を移動させながら内心で彼女を鼓舞する。
「おっ……おっ……」
奏はそこで言葉を切ると、カッと目を見開き明彦が持ってきた椅子に勢いよく片足を乗せる。
「俺様の名前は神崎奏!
十三の世界を統べし魔王!
この名、とくと心に刻み込むがいい!
いずれ全ての世界はこの俺様に集約されるのだからなぁ!
はぁ~っはっはっはぁ~」
奏はえたーなるふぉーすおぶぶりざーどを唱えた。
教室内の全てが凍り付つき、空気が死んだ。
「えと……なんなのこの子……?」
まるで笑えないイタズラを仕掛けられたような反応で数学の復習をしていた彼は明彦に問い掛ける。
が、そんな事を訊かれたところで、明彦にも彼女がなにをしたいのかさっぱり分からない。
「さっ、さぁ……
自己紹介、したかったんじゃないのかな……」
故に、これが彼の精一杯のフォローだった。
「あれが自己紹介だったら喧嘩売ってるだろ……」
覆水盆に返らず、焼け石に水、はたまた自業自得と言うべきか、明彦の伸ばした手は届かず、奏の評価はドン底まで落ちてしまったようだ。
「おっ、お騒がせして……すいませんでした……」
暫く凍結したクラス中の人達と共に動きを止めていた奏がふと我に返ったのか、明彦の椅子から足を下ろして静静と頭を下げた。
かと思うと、今度は逃げ出すように自分の席に行き、機敏に、素早く椅子に座って机に突っ伏した。
「変なやつ」
男子生徒は一連の動作を眺めると、特に気に留めた様子もなく復習を再開する。
「あははは……
あっ、ここなんだけど――」
(頑張れ、奏……)
自分から教えてほしいと願った以上その場から離れる訳にもいかず、明彦はチラリと彼女を一瞥してから心の中でエールを送るのだった。
(はぁ……ダメダメだな、俺……)
その一方で奏は深く落ち込んでいた。
無論、その理由は先程の件である。たかだか挨拶一つするだけにもかかわらず緊張と焦りで我を忘れてしまった。
そんな自分に半ば憤りすら感じる。
やはりまだ、彼女にとって人と会話をするのは難しい行為であった。
長らくニコ研の部室内でしか会話をしていなかったがために、改めてその壁の大きさを実感することになってしまったのだ。
(やっぱり、先生の言う通りだよな……
これじゃまるで成長してない……)
増田の言葉を思い出し、奏は自分の甘さに気が付く。
最初は友達を沢山つくると意気込んでいた。
しかし、彼女はつい甘えてしまった。
友達だと言ってくれた明彦に、同く心に傷を負っている雪菜に、優しい部の先輩達に。
そして、その結果がこれだ。
情けないにも程がある。
(ダメだダメだ、くよくよしててもなにも始まらない。
今がダメならその先の一分で、一秒で、変わればいい!
俺のために、明彦のために!
それが、あの部屋から俺を出してくれたあいつにできる、唯一の恩返しだと思うから……!)
奏はガバッと顔を上げると、両手で勢いよく頬を叩く。
乾いた音が教室に響き、彼女は再びクラスメイトから奇異の眼差しを向けられる事となった。
(あぁ……)
それに気づいた奏は肩をすぼめ、恥ずかしそうに頬を赤らめながらうつ向く。
(まだまだ道は険しそうだ……)