「それで……走ってどこかに行っちゃったの?
奏ちゃん」
「そうなんだよ……
俺また変なこと言ったかなぁ……」
小首を傾げる雪菜と憂鬱そうに机に突っ伏す明彦。
「ううん……話を聞く限りだとそんなことなさそうだけど……」
本気で落ち込んでいる様子の明彦に、雪菜が少し心配そうに視線を送る。
「だといいんだけどな……」
明彦は溜め息をつきながら体重を背凭れに預ける。
「ほんとに、どうしちゃったんだろうね」
口ではそう言うものの、雪菜自身、奏と同じことを言われたら同じ言動を起こしていたかもしれないと思っていた。
ただ、それが彼女と同じ気持ちから来るものなのかどうかまでは分からない。
「ねえ、広瀬君……」
「どうしたの?」
明彦が顔を向けると、雪菜は視線を下げて、どこか言いづらそうに言葉を継いだ。
「もし、もしもだよ?
私と……その、広瀬君が離れ離れになったらどう思う……?」
「それは、寂しいと思うな」
明彦は一瞬怪訝そうな表情を浮かべると、そう答えた。
「やっぱり……嫌?」
「まぁ、嫌だけど……納得出来る理由があればそうでもないかな」
明彦は再び怪訝そうな顔を浮かべた後に答える。
「そうなの……?」
「ああいや、別にいなくなって寂しくないとかそうゆう訳じゃないよ」
ずうんと重たげなオーラを滲ませる雪菜に、明彦が慌てて言葉を継ぎ足していく。
呆れた様子の明彦に、雪菜は少しムッとして言い返す。
「ああ、そう……
で、なんでそんな事訊いたの?」
「えっ、いや、それは……その……何となく?
っていうか、気持ちの確認っていうか……」
「いや、なんだよそれ……
さっきからお前なんか変だぞ?」
曖昧すぎる言葉でお茶を濁され、明彦はじとっとした視線を雪菜に送る。
「そっ、そんなことないよ。
っていうか、そんな事より奏ちゃんの事、今日だけ私に任せてくれない?」
「え?
なにかいい考えでもあるの?」
「うん……いい考えって程じゃないんだけど……
ちょっと話をしてみたいなって」
「そっか、じゃあ任せるよ。
よろしく」
明彦は考えるように少しの間視線を宙に飛ばすが、特に断る理由もないので快く応える。
それから幾ばくかの時間が経って二人は部室を後にした。
まだ最終下校時刻にはまだかなりの余裕があるのだが、普段から特別な事などなにもしない部活である。
寧ろ、だらだらと駄弁ったりしていることの方が多い。
それが二人きりだけとなると当然話題も直ぐに底を尽きるし、沈黙もどこか気まずく感じてしまう。
それに加え、奏の件もある。
早めに切り上げた方がいいだろうと二人は判断したのだ。
「じゃあ、また明日」
「おう」
部屋の扉の前で挨拶を交わして中に入る。
雪菜は勉強机の上に鞄を置くと、ベッドに腰を沈ませる。
明彦の言うところの本当の絆というものを奏は信じているのだろうか。
もし、信じているのなら何故彼の言うような言動をとったのか。
そして、彼女は雪菜と同じ感情を持ち合わせているのか。
彼女は、それを問わねばならない。
このままでは折角育んだ関係が、本当の絆となるかもしれない糸が、切れてしまうような気がした。
それを防げるのは現状、雪菜しかいない。
彼女はショートパンツのポケットからスマートフォンを取り出すと、画面を操作して連絡先のアイコンをタップする。
空欄だらけの名簿。
奏は、か行の欄に一人だけぽつんとその名前を残していた。
『急にメールをしてごめんなさい。今日は部活来なかったけど、どうしたの?』
挨拶代わりにそんな文面のメールを送ってみる。
すると、数分も経たずにスマートフォンのバイブが唸りを上げる。
『心配させてごめん。ちょっと気分が悪かったんだ。でも、もう大丈夫だから。明日はちゃんと行くよ』
『友達なんかいらないって言ったんだってね』
雪菜は少し悩んでから、意を決したようすで送信のボタンをタップする。
『なんだ、明彦から聞いてたのか。ほんと、バカなこと言っちまったよ』
『その事についてお話ししたい。これから電話してもいい?』
そうメールを送ると、メールとは違ったテンポで雪菜のスマートフォンが唸りを上げる。
画面を見てみると、奏からの着信であることが分かった。
「もしもし?」
「おう」
「ごめんね、急に電話なんて」
「いいんだよ。
俺も丁度話したいことがあったし」
雪菜はなんだろうと思いつつも口には出さず、そのまま話を進める。
「ねぇ、奏ちゃんって……広瀬君のこと、好き?
勿論異性として」
電話の向こうからは何も返ってこない。
「あっ、ごめん、急に変な話して……
ビックリしたよね……
ただ、もしかしたらそうなのかなって……広瀬君の話聞いてたら思っちゃって……
今回の件もそれが原因なのかなって……
あっ、あの、違ってたらごめ――」
「合ってるよ」
あまりにも突然過ぎたかなと、慌てて言葉を並べていく最中、奏の静かな声が割って入ってきた。
「合ってる。
何から何まで全部」
それは気恥ずかしさというよりは、どこか、何かを諦めたかのような声音だった。
「俺さ、もうダメなんだ……
もう、いろんな事が抑えられないんだ……
俺は、どんどん我が儘になっていく。
どんどん、自分の事が嫌いになってく……
今だってさ、お前さえいなければ。
なんて思ったりしてんだぜ?
最低だろ……?
大切な、本当に、大切な友達なのに……」
「最低なんかじゃないよ」
自棄になったような口調の奏に、涙声のような僅かに震えたその声に、雪菜はきっぱりと、少しの迷いもなく断言した。
「私は、本当に最低な人間っていうのを知ってる。
だから言える。
奏ちゃんは、絶対に最低なんかじゃない」
彼女の言う最低な人間。
それは即ち、中学時代のクラスメイトの事であった。
自分勝手な理由で自分を妬み、嫉み、怨み、友情をいとも容易く切り捨てた彼女達。
それに対し奏は、自分でも抑えきれない感情の渦に呑み込まれていてもなお、雪菜の事を大切な友達だと言ってくれた。
友情を切り捨ててしまいそうな自分を咎めて苦しんでいる。
そんな彼女のどこが最低だと言うのだろうか。
「奏ちゃんは……私の最高の友達だよ」
「……っ」
奏は、思わず奥歯を噛み締めた。
自分があまりにも惨めだった。
まるで自分が、欲しいものが手に入らないと言ってごねる子供のように思えた。
(あははは……
本当に、雪菜はいいやつ過ぎるんだ……
やっぱり、始めっから俺に勝ち目なんて無かったんだ)
頭ではそう思っているのに、涙が出るほど嬉しい言葉を掛けられたのに、奏の心は彼女に牙を剥く。
「そんなの……卑怯だ……!
そんなこと言われたら、何も言えなくなっちまうじゃねぇか!」
「ううん。
言っていいんだよ、何でも。
奏ちゃんが私の事を友達だって思ってくれてるなら、私もそれに応える。
友達だから、奏ちゃんだから、多分何を言われても最後には笑って許せる」
「ありがとう。
そう言ってくれるだけ嬉しいよ……
でも、これ以上はもう止めておこう。
きっと、誰も得しない。
お互い傷付くだけだ……」
奏は、今尚攻撃の姿勢を崩さない心を必死に抑えて通話を終わらせようとした。
これ以上、優しい彼女を傷付けたくはなかった。
「そんな事、ないよ……
話を聞けば私も力になれるかもしれない。
私、奏ちゃんが苦しんでるなら助けてあげたい。
だから、話して?」
しかし、雪菜はそれに食い下がる。
兎に角必死だった。
このままだと奏が離れていってしまいそうで、大切な友達を失ってしまいそうで、焦っていた。
自分の言葉が、彼女の心のダムを決壊させるのに十分な時間を与えてしまったとも知らずに。
「お前はバカかっ!?」
我慢の限界を超えた奏の声が雪菜の耳に響く。
「力になれる?
助けたい?
雪菜が明彦の事諦めてくれんのか?
今お前のことが好きな明彦を、無理矢理俺に惚れさせてくれるのか?
そんな事、出来る訳ないだろ?
あまんまり調子に乗るなよ!?
言っちゃ悪いけど、今俺にとって一番の敵は雪菜なんだよ!!」
捲し上げるような奏の怒声。
余程力んで話したのだろう、電話の向こう側から彼女の吐息が漏れ聞こえる。
「うん、そうだね……
ごめん、奏ちゃん……」
暫く沈黙が続いた後、僅かに震えた声で呟くようにそう言ってから、雪菜は通話を終了させた。
奏は、その間に何も言うことが出来なかった。
自分で自分の言った言葉に唖然としていた。
漸く思考回路が戻った頃には、もう、スピーカーから雪菜の声が聞こえなくなっていた。
「ごめん……
ごめん……あんなこと、言うつもりじゃなかったんだ……」
力なく地面に伸びた指先からスマートフォンが音を立てて滑り落ちる。
自分は一体何がしたかったのだろうか。
どうあがいても手に入らないものを見て、無意味に駄々をこねて、結果、全てを失ってしまった。
きっと明彦はこんな我が儘な自分に辟易している筈だ。
きっと雪菜はあんな酷いことを言ってしまった自分を許しはしないだろう。
(俺は……本当に、なんてバカなんだ……)
「ごめん、ごめんねぇ……
ごめんねぇ、雪菜ぁ……」
どれだけ涙を流しても、謝罪の言葉を口にしても、その思いは、声は、もう、彼女には届かない。