「薫ちゃんってさぁ~お母さんと話すのって何年ぶりぐらい?」
軽自動車を運転しながら恵が助手席に座る妹に尋ねる。
彼女曰く、「高級車もいいけど、実用性を考えたら軽の方が色々と融通がきく」とのことだ。
「えっ?
ええっと……そうですね……」
突然予想だにしていなかった質問を投げ掛けられ、薫は慌てて記憶に残る母の姿を探る。
「覚えて……ないですね……
すいません。
お母様に関することやその意思は、お父様やお姉様から又聞きするだけですので……
恐らく、三年は言葉を交わしていないのではないでしょうか」
「そっか……そうだよね。
ごめんね、あんまり意味ない質問しちゃって」
彼女の言う通り、母親からの伝言を伝えていたのは恵本人だ。
だから彼女が口にする答えなどは、聞かずとも分かっていた。
それでも、聞いてみたかった。
もしかしたら自分の知らないところで問題は解決しているのかもしれない。
そんな希望的観測が恵の中にはあったのだ。
(そうだよね……お母さんがそんな事してる訳、ないよね……)
「いっ、いえ、そんな……お気になさらないでください」
そんなことを思っていると、不意に薫の声が聞こえてきた。
さっき自分の放った言葉がすっかり思考の海の底へ沈んでしまっていた恵は、呆気にとられた様子で薫の方へと視線を向ける。
「お姉様が気にかけてくださる。
それだけで私は嬉しいのです。
それに、今となってはお姉様と話をしている時ぐらいでしか、家族の温もりというものに触れられる事が出来ませんから……」
そう言って笑う彼女の声には、締観めいた悲しさが込められていた。
そのせいか、折角浮かべていた笑顔もすっかりと雲ってしまっている。
「薫ちゃん」
恵は正面に視線を戻して、静かに妹の名を呼んだ。
どっしりとして、それでいて少しばかりの怒気が込められた言葉。
「はい……?」
薫はその真意を汲み取ることが出来ず、困惑に少しの驚きを足したような反応を見せる。
「なんで私に敬語なの?」
「なんでと言われましても……
理由なんてお姉様を尊敬しているからの決まっているではないですか。
お姉様は私の目標であり、憧れであり、理想なのです。
それになにより、お姉様は私よりも年が五つも上ではないですか。
たとえ家族であっても、目上の方には敬語を使うのが常識というものです」
「薫ちゃんは、本当にそれが正しいと思ってるの?」
ハンドルを握る指にきゅっと力が籠る。
陰った表情からでは彼女の心境は一層分からず、薫は不安気に姉の顔を覗き込む。
「さっき私と話している時だけが、家族の温もりを感じられるって言ってくれたよね?」
「はい……」
先程から言葉の内に見え隠れする怒気の根元が掴めず、薫は恐る恐る応える。
「凄く嬉しかった。
でも、凄く悲しかった。
薫ちゃんは、家族の温もりなんて知らずにここまで来ちゃったんだね……」
「そんな事は――」
「あるよ」
薫の言葉を遮って、恵は続ける。
「だって、家族なのに敬語なんて絶対おかしいよ。
普通じゃない……」
「しかし、やはり目上の方には敬意を……とりわけ私はお姉様に――」
「家族に、上も下もないよ!」
恵の叫びと共に薫の体が大きく前後に揺れた。
そして、それと同時にクラクションがけたたましく鳴らされる。
恵は感情のあまりブレーキを強く踏みつけてしまっていたらしい。
彼女は一瞬大きく目を見開くと、慌てて車を再発進させる。
「ああ、もう……」
自分の行動の浅はかさに、思わず溜め息が漏れた。
危うく薫や自分、そして関係無い人達にまで危害を加えるとこであった。
大事故に繋がらなかったのは本当に幸いと言うべきであろう。
(運転中にこんな感情的になっちゃダメに決まってるでしょ私ぃ~!!)
拭いきれない罪悪感と自己嫌悪で、すっかり彼女の心と表情は暗く沈んでいた。
「あっ、あの……お姉様?」
情緒不安定な姉に、薫が心配そうに声をかける。
「えへへ、ごめんごめん、びっくりしちゃったよね。
もう大丈夫だから」
恵は取り繕った笑顔を浮かべると、姿勢を正して視線を前へと向ける。
が、それも長くは持たず、すぐに陰ってしまう。
「……でも、今の話はもう止めよ。
ごめんね、私から話し掛けたのに」
「いえいえ、私は――」
先程と同じ返答をしようとした薫であったが、それが今まさに止めようと言われた事であることに気づき、むごごと口を手で塞ぐ。
そんな妹の微笑ましい姿を見ると、恵は今度こそ快調に車を走らせる。
突然ではあるが、薫の家はお金持ちである。
当然だ。
日本はおろか、世界にまで名を轟かせる大企業の社長がじり貧とあっては世も末である。
だがしかし、彼女の実家はそれほどきらびやかという訳ではない。
一般家庭と比べると流石に一回り程大きいが、それでも豪邸と言うには遠く及ばない。
東京にある高級住宅街の一角。
そこが薫の、正確には天猫院家の住まいである。
最大で三台の乗用車を駐車できるガレージに自分の愛車を止めると、恵はふぅと安堵の溜め息をついた。
「お疲れさまです、お姉様」
「うん、ありがと~」
薫が労うと、彼女は空気の抜けた風船のようにハンドルに突っ伏し、これまた気の抜けた返事をした。
「ささっ、お姉様」
いつの間にか車から降りていた薫が運転席側のドアを開けて、下車を促す。
しかし、恵からの反応はない。
「お姉様……?」
心配そうに首を傾げると、恵はむくりと顔を上げた。
「ああ、大丈夫大丈夫。
ちょっと気疲れしちゃって……」
彼女はえへへと疲れた笑みを浮かべると、少ししてハッとした表情を見せた。
「っていうかそうゆうのしなくていいよ~!
いくらなんでもドアも開けられないほど疲れてないよ!」
悔いるように、それでいて叱るように恵が言う。
「ああ、すいません。
これは不要でしたか……」
しゅんと謝罪の言葉を告げる薫。
そこには申し訳なさというよりは、哀愁が色濃く写っているように思えた。
「うん、さっきも言ったでしょ?
別に私の事は敬わなくていいって。
そうだな、さっきの部員の子達と同じような対応をしてくれると嬉しいな」
自然と話せて、自然に笑って、下らない冗談を言い合ったりできる。
そんな姉妹としてはあまりにも普通な関係。
それこそが恵の求める理想。
「そう、ですか……分かりました。
お姉様が、そう望むのでしたら……」
しかしその理想は、今はまだ、あまりに遠く思えた。
(私の命令とかじゃなくて、自然とそうしてくれるのが一番嬉しいんだけどな)
恵は車から降りると、心苦しそうに俯く薫の頭にぽんと掌を乗せる。
「でも、その気持ちは素直に嬉しいよ。
ありがとう」
彼女はなにも自分を尊敬する事を止めろとは言っていない。
溺愛する妹に尊敬される事は純粋に嬉しい。
だが薫のもつ尊敬が、純粋なものでないうことに恵は気づいている。
彼女のそれは、純粋な優劣関係でしかないのだ。
ただ単に恵が薫よりも上で、薫が恵よりも下なだけ。
そこに、本当の意味での尊敬なんてありはしない。
だらこそ恵は、薫に敬語を使われることを嫌うのだ。
彼女が望むものは普通の姉妹であることだ。
それは決して高貴なものではなく、ありきたりなもののはずだ。
生まれた時も、育った環境も、社会的地位も、全部取っ払って対等にいられる姉妹。
そんな平凡で当たり前な関係。
恵にとっては特別な関係。
(昔は、そんなことなかったのに……)
恵は叩くように何度か薫の髪を撫でると、家の中に居るであろう母親を睨み付ける。
天猫院楓こそ、彼女の当たり前を持ち去った元凶。
そして、彼女が最も深い恨みを向ける相手である。
(今日の為に何度も何度も説得したんだ、何度も何度も喧嘩したんだ。
必ず、薫ちゃんとの時間を戻してみせる……!)
「おっ、お姉様……痛い……」
絞り出すような薫の声でハッと我に返る。
どうやら意気込みのあまり、彼女にアイアンクローをおみまいしていたらしい。
「ああっ、ごめん!
大丈夫!?」
慌てて手を離して安否を確認する。
「ええ、なんとか……
それよりもお姉様は……?
なんだかとても怖い顔をしていましたが……」
涙で潤んだ瞳が心配そうに恵に向けられる。
その表情を見ただけで、今まで胸の内で渦巻いていたどす黒い霧が一斉に晴れていくような気がした。
(こうゆう優しい所はやっぱり変わってないな……)
彼女の変わらない大切なものの一つ。
それがそこに、彼女の中に確かにあるのなら、きっと他もまだ残っている。
「ありがとう、大丈夫だよ」
これからそれを探し出す。
「じゃあ、行こっか」
そして、取り戻すのだ。
恵は決意を新たに胸に刻むと、ガレージを出て階段を数段上り、小さな門を開けて漸く家の敷地内に入る。
家を取り囲むようにある庭を少し進んだ先にある玄関に着くと、恵がポケットから鍵を取り出して解錠する。
「ただいま」
「お帰りなさい、恵さん」
気を引き閉めてドアを開けると、直ぐに若い女性の声が帰ってきた。
声のした方に目をやると、そこには一人の女性がエプロンをその身に纏って立っていた。
見た目はかなり若く、恵よりも年下なのではないかと見紛う程だ。
その姿を見た瞬間、恵の緊張の糸がぷつりと切れる。
「あっ、
彼女は先程までの凛とした表情を一瞬で破顔させ、にこにこしながら手を振る。
「おっ、お久し振りです」
姉に続き、薫が少し驚いた様子で頭を下げる。
「二人ともほんと久し振り。
元気にしていたのかしら」
可愛らしい笑みを浮かべながら藤田さんが尋ねる。
「うん、まぁそこそこですね」
「私は元気でした」
二人がそう答えると、彼女は鈴を転がしたように笑った。
「藤田さんこそ元気だった?
誰もいない家で二年間もハウスキーパーなんて、かなりしんどそう……」
「いえいえそんな。
掃除するだけでお給料が頂けるのだから、なにも文句なんてないわ。
ただまぁ、何度かこの家が私の家なんじゃないかって錯覚には陥ったわ……」
思わずリビングで寛ぎそうになったり、帰らずに泊まりそうになった事を思いだし、彼女は額に指を当てる。
「あはは、もういっそ家の子になっちゃえば?」
「もう、五十近いおばさんをからかわないで」
恵がからかうと、藤田さんは不貞腐れたように顔を背ける。
その姿はどう見ても彼女の言う年齢からはかけ離れている。
「む~、前から思ってたけど藤田さんってほんとにアお母さんと同い年?」
恵は彼女の顔を覗き込むようにまじまじと見つめる。
「そんな毒にも薬にもならない冗談言ってどうするのよ」
藤田さんは彼女の視線から逃れるように俯くと、やれやれと言わんばかりに溜め息をつく。
それから彼女はおもむろに顔を上げ、咎めるような視線を恵に向けた。
「リビングで楓さんが待っているわ。
あの方も決して暇な人ではないのだから、早く行ってあげなさい。
貴女達はそのためにここにきたのでしょう?」
彼女の言葉は急かすようでもあったが厳かであり、なにも言い返せなくなるような強さがあった。
「は~い。
じゃあ、行こうか」
恵はつまらなそうに返事をすると、リビングへ向かうように薫を促す。
「あっ、はい」
「藤田さん、ありがとう。
少し気持ちが落ち着いた」
薫が一歩踏み出した辺りで恵はその言葉を残し、二人で母の待つリビングへと向かっていった。
その声は鋭く、研ぎ澄まされていて、まるで抜き身の刃のようであった。
触れればたちまち傷ついてしまいそうなそれは、少なくとも今から母親に会いに行くというときに発せられるものではなかった。
「はぁ……
まったく、子供になんて顔させてるのよあのバカ……」
暫く二人の背中を見送っていた藤田さんは、深々と溜め息をついた後に顔を手で覆うのであった。