「お母さん、入るよ」
三回ほどノックをして、返事も聞かずに恵はリビングのドアを開けた。
楓は娘を一瞥すると、飲みかけていたティーカップとソーサーを机の上に置く。
美しく整った顔立ち、恵とよく似た暗い小豆色でセミロングの髪。
静かな佇まいはまるで彫刻を思わせる優雅さを放っている。
顔が少し窶れて見えることを除けば粉う方ない美人である。
「おかえりなさい」
彼女は仮面のような色のない表情のまま、抑揚のない無色透明な言葉をまるで吐息のように吐き出した。
「おっ、お久し振りですお母様……!」
が、恵の後から部屋に入ってきた薫を見た瞬間、眉がピクリと動いた。
「そんな気負わなくていいわ。
ただの世間話をするために呼んだのだもの。
さっ、そこに座って二年間の穴埋めをしましょう」
仰々しく頭を下げる薫に、楓が向かい側のソファーに座るよう促す。
「はっ、はい。
喜んで」
まるで面接に来た受験生の様に緊張した様子の薫に対し、恵は終始じとっとした視線を楓に送っていた。
楓は彼女の視線に気付いているのかいないのか、相変わらず無表情のままだ。
「あなた、この子達の分も、紅茶を」
二人がソファーに座るのを確認すると、楓はキッチンの方へ声をかける。
「もう準備してあるよ」
そう言ってキッチンから出てきたのは薫と恵の父である、
彼は長方形のお盆に乗せた三つのティーカップとソーサーを順番に机の上に置いていく。
「流石ね」
「まぁ、紛いなりにも君の秘書だからね」
そんな言葉を交わしながら恵、薫、自分の順番で並べ終えると、彼は楓の隣に腰掛けた。
「久し振りね、薫」
彼女は仕切り直すように紅茶を一口飲むと、吐息と共に言葉を紡ぐ。
「こっ、こちらこそお久し振りです、お母様……!!」
薫が勢いよく深いお辞儀をする。
「そんなに緊張しなくてもいいのよ?
ほら、折角巧が紅茶を淹れてくれたのだから、それを飲んで落ち着きなさい」
彼女が言われた通りにティーカップを口に運ぶところをみると、楓は更に言葉を続ける。
「寮での生活はどう?
ご飯はちゃんと食べてる?」
字面だけ見れば当たり障りない、普通な会話である。
それなのに、楓の声は微かに震えていた。
それだけなのに、彼女の目は一度も娘の表情を捉えない。
「そうですね、寮での生活は勉強に集中できてとてもいいです。
近隣とのトラブルも特にありませんし、毎日快適に過ごしています。
それと、ご飯はちゃんと食べています。
栄養バランスを考えて、出来るときは自炊をしているようにしていまるのです」
母の反応とは裏腹に、薫は楽しそうに言葉を紡いでいく。
「ですからこんど私が作った料理をお母様にも――」
しかし、無邪気な笑みを浮かべていた薫の表情は、突然ハッとしたようなものに変わった。
そして表情を暗くさせるのと同時に、続いていたであろう言葉を無理矢理押し潰した。
彼女は少しの間焦った様子で目を泳がせると、申し訳なさそうな上目使いで母親を見つめる。
が、楓がその表情の変化に気づくことはなかった。
「……そう、じゃあ今度、機会があれば頂こうかしら」
それどころか、彼女は薫から視線を逸らすように体を捻って応えるのであった。
それでもその言葉で薫の表情は華やぐ。
「はっ……はい……!
有難うございます!」
「学校生活はどうだい?
友達は……もう、沢山いるか」
今度は巧が冗談めかして尋ねる。
すると、楓の視線が僅かに上に上がる。
「はい、学校は凄く楽しいです。
友達も沢山います。
部活仲間とは特に仲良くしていますし、とりわけ美華とは親友と言っても過言でない程の仲だと思っています」
「へぇ、部活をやっているのかい?
文化系?
それとも運動系かな?」
「そうですね……間違いなく運動系ではありませんから、文化系だと思うのですが……」
「なんて部活?」
うむむむと悩む薫に巧が続けて問う。
「人間関係及び対人コミュニケーション研究会という部活なのですが……」
彼女が答えた瞬間、リビングの時が凍り付いた。
「あっ、あのねお父さん、私もさっき見てきたけど全然変な部活じゃなかったよ?
みんな凄く仲良かったし、薫ちゃんも凄く楽しそうだったから」
恵が慌てて言い訳めいたフォローを入れる。
「あっ、ああ……そうなのか……
そうか、薫は文化部を選んだんだな。
うん、そうかそうか」
すると巧はまるで自分に言い聞かせるように、引き攣った笑顔のまま頷いた。
その様子を見て恵はほっと胸を撫で下ろす。
薫には悪いが、正直人間関係及び対人コミュニケーション研究会なんていうみょうちくりんな部活を掘り下げられても、ブラスになることなんて殆んどないだろう。
「それは、どんな部活なの?」
が、楓はそこで話を終わらせようとはしなかった。
当然恵の気など知るよしもなく、薫は嬉々として答える。
「その名の通りコミュニケーションや人間関係について研究する部活です。
普段は部員達と語り合い、互いを認め合い、理解し合い、より良い人との関わり方を模索しています」
その声には恵の時のような躊躇いはなかった。
「それは、貴女の意志で入部したの?」
楓は眉がピクリと動かして尋ねる。
「いえ……お恥ずかしい話、友達に勧められまして……
それで、入部しました。
あっ、でっ、でも、私は入部して本当に良かったと――」
「そんなものに、一体何の価値があるの?」
今日初めて薫が見た母親の目は無気力で、無機質で、それなのに心が震え上がるほどに冷たいものだった。
「へ?
え……?」
遮られた言葉は失われ、衝撃のあまり声すら上手く出てこない。
薫はただただ瞳に涙を溜め、口をパクパクとさせながら声にならない言葉を吐き出すことしかできずにいた。
「貴女は、薫は、そんな部活に入って何がしたいの?
より良い人との関わり方を模索するなんて、そんなこと貴女には必要なの?
どうせ特に理由もなく人に言われたから入部したんでしょ?
そうじゃなかったら……いえ、そうでなくても本当なら貴女は今頃――」
「母さんっ!!」
捲し立てるように続いた楓の言葉は、立ち上がって叫んだ恵の声によって漸く止まった。
「母さんは今日、何のために薫をここに呼んだの?
貴女は今日、この子を責める為に呼んだの?
違うでしょ!?
仲直りするために呼んだんじゃないの……?」
彼女の言葉は怒りに震え、掠れていた。
手や肩にも目に見えて力が込められているのが分かる。
それに対し、楓は言いたい言葉をグッと堪えるかのように顔を俯かせる。
「過去になにがあったかは知らない、でも母さんのやってることってなんか違うと思う。
私には薫に責任を押し付けて、自分を正当化しようとしてるようにしか見えない。
あんたはこれだけの事をしておきながらまだ堕ちるの?
どれだけクズになれば気が済むの?
だってそうでしょ!?
薫はなんにも悪くない!
あんたが……あんたのせいで薫は――」
「お姉様、もう止めてください!
お母様はなにも悪くありません!
私が、私がいけないんです!
私が至らないからお母様は……」
娘に本気で怒鳴られる母親の姿など見たいわけもなく、潤んだ瞳のまま薫は恵の手を掴んで軽く引く。
しかし、それでも恵の怒りは収まらない。
「なんで!?
なんで薫ちゃんは母さんを庇うの!?
貴女は憎くないの?
自分に――」
「憎いわけないじゃないですか!
私にはお姉様のおっしゃっていることが分かりません!
なぜ、なぜお母様を憎まなければいけないんですか!?
なせお姉様はそこまでお母様を罵るのですか!?
それがお姉様の言う普通の家族なんですか!?」
薫は一際恵の腕を引いて彼女の言葉を遮る。
彼女の言葉を聞いた恵は、歯を食い縛るようにグッと押し黙る。
その表情や視線の動きは先程の楓と似ていたが、瞳の奥に宿る意思はまるで逆のものであった。
「もう、話すことなんてないでしょ?」
恵は口の中に溜まった言葉を吐息として吐き出すと、静かに、自分を落ち着かせるように、ゆっくりと尋ねた。
その言葉の裏に「あんたはもう薫と話す権利はない」という思いを潜ませて。
それを知ってか知らずか、楓は黙ったまま返事をしない。
ただひたすらに、なにかを言おうとしては口を紡ぐという行動を繰り返すだけ。
その一方で巧は困ったような表情で妻と娘の顔を交互に見る。
その様子に恵が苛立たしげに乱暴な溜め息をつくと、薫の手を引いて廊下へ続くドアへと向かう。
「行くわよ、薫ちゃん」
「えっちょっ、まだ話が……」
「話しはもう終わったの!
これ以上、ここに居ても意味ない……!」
「しっ、しかし……」
「いいから!」
心配そうに母親を見つめる薫の手を強引に引っ張り、恵はリビングを後にする。
「お姉様……痛いです」
荒々しく閉められたドア音が消えたところで、薫が呟くように言う。
「あっ、ごめん……つい、カッとなって……
大丈夫?
怪我とかしてない?」
「痛いです……」
心配そうに尋ねる恵に、薫はまたも呟くように応える。
「ほんと!?
ああもう……どこが痛い?
ごめんね、すぐ湿布とか用意するから!」
恵は心配そうに先程まで自分が掴んでいた部分を優しく揉むと、慌てた様子で医療品を探しに行こうとする。
「胸の辺りが、痛いんです……
凄く、凄く痛いんです……」
その背中に、薫の震えた声がぶつかる。
「えつ、胸……?」
予想だにしていなかった部位の症状を訴えられ、恵は怪訝そうに後ろを振り返る。
「お姉様、変です……
私にはこんなにも優しいのに……
どうして……どうして、お母様にも同じように優しく出来ないのですか……!?」
薫の目から大粒の涙が止めなく溢れ落ちていく。
「喧嘩は友好の証しということは分かっています。
でも、そうだとしても……お母様やお姉様のあんな表情を見るのは心が苦しいのです……!
痛いのです……!
これは私がおかしいのでしょうか……!
私が間違っているのでしょうか……!」
これは恵のついた嘘だ。
あまりに楓との喧嘩が多かった恵は薫に心配をかけまいとして、そんな嘘をついたのだ。
だから、彼女はおかしくない。
おかしいのはいつも周りで、彼女はそれに振り回される被害者なのだ。
そう考えると、自分はあまりに幼稚ではないか。
所詮自分も自分の都合で、感情で彼女を振り回す加害者なのだ。
その思考に行き着いた恵は謝罪の言葉を告げようと口を開く。
が、そこで思考が待ったを掛ける。
本当にそれだけだろうか。
一つ、解せない部分があるのではないのかと。
結局、彼女の口から謝罪の言葉が放たれることはなかった。
「薫ちゃんは……どうしてお母さんを庇えるの……?
どうして可哀想だなんておもえるの……?」
すると薫は、涙を流しながらボケッと呆けた表情を浮かべて首を傾げる。
「言っている意味がよく分からないのですが……」
まただ。
彼女はまるでその時の記憶がすっぽりと抜け落ちたような反応を見せる。
恵はそこだけがずっと引っ掛かっていた。
覚えていないのか、それとも原因は母親ではないのだろうか。
いや、それはない。
恵は自分の耳で楓が「自分のせいで薫が壊れてしまった」という言葉を聞いたのだ。
それに彼女が壊れたのは一つの出来事が原因ではない。
もっと長い期間を経てじわりじわりと彼女の心を砕いたのだ。
しかし、だとしたら彼女の反応は一体なんなのだろうか。
「私の方が薫ちゃんの言ってる意味が分からないよ……」
恵は額に手を当てて溜め息混じりに言う。
そして、真っ直ぐに薫の目を見て話を続ける。
「忘れたなんて言わせないわよ。
お母さんが幼い貴女にどんなことをしたのか。
あんな仕打ちを受けてたのに、その相手を庇うなんてどう考えてもおかしいわよ?」
「ええ、確かにお母様は厳しいお方でしたし、時には体罰を受けることもありました。
しかし、それは全て私が至らなかったからです。
私がお母様の期待に応えることが出来なかったからです」
その言葉を聞いて、恵は漸く薫との認識の差を理解した。
薫は初めから楓の事を悪とは認識していなかったのだ。
故に二人の意見はここまでかけ離れたものになってしまった。
恵は暫くなにかを言おうと何回か口を開くが、結局憮然とした表情を浮かべて溜め息をついた。
釈然とはしないが、彼女自身が母親を悪として認識していないのであれば恵はなにも言うことはできない。
母親は悪だ、だから憎め。
今更そんな事を言ったところで誰が喜ぶのだろうか。
それこそ自分の感情の押し付けである。
「お姉様……
私がニコ研で過ごしてきた約二年間に意味なんてあったのでしょうか……」
ふと、思い出したような声で薫が呟くように問う。
色々なことが起きて混乱していた脳が漸く落ち着いたのだろう、彼女の表情からは先程までの感情的な一面はすっかり消えていた。
少し驚いたような表情を見せつつゆっくりと恵が顔を上げると、瞳にまだ少し涙の溜まった目で続ける。
「そんなものに一体なんの価値があるのかと言われてしまいました。
それに、それは私に必要なのかとも……
私は……私は、二年間もの間一体何をしていたのでしょうか……」
彼女の表情が徐々に曇っていく。
頭が冷静になったおかげで今更になって、漸く母親の言葉が彼女の心を蝕み始めたのだ。
「薫ちゃん……?」
せっかく泣き止んだのに、もう今にも泣きそうになっている妹に恵がおろおろと声を掛ける。
「ええ、お母様がなにを言わんとしているかは分かっています。
私が愚かだったのです、私が馬鹿だったのです。
やはり、私はなにをしたって間違えてしまうのですね……」
恵には彼女がなにを思ってこんな発言をしているかは分からない。
しかし、彼女の中の大切な何かが壊れてしまったということは分かった。
そして、それは恐らくそれはニコ研とそれに所属している部員達の事だろう。
あれほどはっきり好きだと明言したものを否定されたのだから、そうなってしまうのも頷ける。
(まただ……
またあの人は薫ちゃんの大切なものを奪っていく……!)
「お姉様……私、先に車に戻っていてもいいでしょうか?」
グッと奥歯を噛み締めると、薫が申し訳なさそうに言う。
その声から哀愁の色が消えることはない。
「あっ……ああ、うんいいよ」
薄く微笑んで恵がキーを渡すと、薫は礼を告げてからそのまま廊下を進んでいく。
彼女がすれ違った瞬間、恵の目付きが鋭くなる。
そして薫とは逆方向に進んでいく。
再炎上した怒りの炎は自然鎮火などする筈もなく、彼女はその全てを母親である楓にぶつけようとしていた。
もう薫はいない。
誰にも止められずに母を罵ることができる。
自分勝手と言われようがエゴイストと言われようが彼女には関係なかった。
ただひたすらに許せなかったのだ。
大切な妹をなんの罪悪感もなく壊し続ける彼女の事が。
本人に否定されないことをいいことに、のうのうと母親面を見せる彼女の事が。
妹の為といえば少し偽善めいてしまうが、それでも恵は彼女を責めずにはいられなかった。
恵はそんな心境を覆い隠すようにそっとドアノブに手を掛ける。
そこからは母親の啜り泣く声が僅かに聞こえてきた。
思わず恵の手がピクリと跳ねて動かなくなる。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
そして、その声に混じってそんな台詞がうっすらと聞こえた。
その瞬間恵の瞳がきゅっと小さくなる。
今まで散々喧嘩を繰り返してきたが、彼女の口から謝罪の言葉を聞いたのは初めてだった。
恵は止まった手を静かに再起動させ、なるべく音がでないようにゆっくりとドアを押し開ける。
盗み聞きという行為に対しては僅かながらの罪悪感があったが、それ以上に母親の本音を聞きたいという思いが強かった。
数cmだけ開いた隙間から中を見ると、顔を両手で覆った楓が巧に背中を擦られていた。
「私……薫になにもしてあげられなかった……
恵には怒鳴られるし、もう母親失格よ……」
「そこまで自分を責めることはないさ。
でも、恵が怒った理由ぐらいは分かるよね?」
「ええ、私だって本当は、あんなこと言うつもりじゃなかった……
でも、あの子を見たら……私、私の罪の重さで押し潰されそうで……
三年もあの子を放置しといて……帰ってきたら昔のあの子に戻ってるんじゃないかって勝手に期待して……
そんな事ある筈もないのに……私が壊してしまったあの子を見て動揺して……」
楓は涙を手の甲で拭いながら応える。
「恵が怒るのも当然よね……
だって、全部あの子の言う通りなんですもの。
私は今まで自分の罪から逃げて、贖罪もなく今日まで隠れ住んできた……」
「でも、今回の帰宅でその連鎖を終わらせるんだろ?
恵も言っていたが、今回はその為に帰って来た筈だ」
「……でも、私はどうすればいいの?
今更になってあの子になにをしてあげられるの?
なんて謝ればいいの?」
「それは……」
巧が言葉を濁らせる。
「ちゃんと薫と向き合ってよ」
その続きを言い放ったのは恵だった。
「恵……どうしてここに……」
父に驚いた様子で問われ、恵はばつが悪そうに後頭部に手をやりつつ視線を斜め下に向ける。
「ちょっと色々あってもう一回文句言いに来たんどけど……ちょっと勝手が違っちゃってさ……」
拗ねたようなその言葉には、先程まではなかった優しさが僅かに含まれていた。
「私、なんか母さんの事誤解してたかも……」
「恵……」
恥ずかしそうに上目使いで見つめられ、思わず楓が涙ぐむ。
「ああでも勘違いしないでよ。
べつに母さんの事許したわけじゃないし、誤解してたかもって言っても超超超超超最低から超最低になっただけだから」
「恵……」
冷静で冷酷な娘の言葉に、楓が滝のように落涙する。
「でも、悔しいけど薫は母さんを必要としてる。
本当は私があの子を養って一生母さんに近づかせたくないところなんだけど、あの子はそれを望まない。
だからちゃんと薫と向き合ってよ。
母さんの罪悪感とか後悔とか、そんな下らないことはあの子には関係ないの。
っていうか、そもそも母さんがそんな事思ってるなんて知らないのよ」
「……?
どうゆうこと?」
楓はすっと表情を引き締めて尋ねる。
「薫は全部自分が悪いと思ってるのよ。
母さんに暴力をふるわれてた事も……あの日の事も、全部……」
「そんな……
そんなわけないじゃない!
あの子はなにも悪くない!
悪いのは私!」
「だからっ!」
まだ続きそうな言葉を遮るように恵が大声を上げる。
「だから、ちゃんとあの子と向き合って……
それで、今の言葉をちゃんと伝えて上げて。
ね?」
まるで幼い子供を言い聞かせるように、恵は微笑みながら小首を捻る。
「……そう、ね。
がんばってみるわ。
その為に来たんですもの」
それに対し、楓は少し自身の無さそうな笑顔を浮かべて応えた。
「こるぁぁぁぁぁっ、楓ぇぇぇぇぇ!!」
その次の瞬間、嵐のような怒声と共に勢いよくドアが開け放たれた。
そこから表れたのはエプロンを外し、セーターとスキニージーンズというラフな格好をした藤田さんであった。
「あんた薫ちゃんになに言ったの!?」
彼女は普段の大人っぽい雰囲気などかなぐり捨て、まるで子犬が吠えてかかるように楓を怒鳴る。
「あの子泣いてた――
って、あれ?
恵ちゃん……いたの……?」
が、リビングにいる恵を見た瞬間、その勢いは一瞬にして萎んでしまう。
変わりに、物凄い剣幕だった彼女の顔は、恥ずかしさと困惑が入り交じったようなものになっていた。
「うん、ちょっとね~」
一方で恵はさっきまでの凛としたものではなく、いつもの緩い口調で応えた。
「あっ、ああそうだったの……
ごめんね、ビックリさせて」
藤田さんは何度か目を泳がすと、誤魔化すように笑う。
「うん、確かにビックリしたけど、口調の事だったら気にしなくていいよ?
私知ってたし」
「え……え?」
緊張感のない笑いを浮かべる恵に対し、藤田さんが困惑に目をしばたたかせる。
「じゃあ、私はもう行くから。
また来るよ」
「ええ、分かったわ」
そう言った恵に楓が返す。
その二人の言葉の間には、一体どれ程の意味のやり取りがあったのだろうか。
無論、そんなこと知るよしもない藤田さんは、意味深気に言葉を交わす二人を呆けながら見ていることしか出来なかった。
「藤田さんもバイバイ」
「ええ、また今度……」
そして、彼女はそのまま微笑みを浮かべながら部屋を後にする恵を、ただただ見送る事しか出来なかった。
「私も前から思っていたけれど、美麗にその口調は似合わないと思うわ。
その、何て言うか少し気持ち悪いし……
誰かの真似なの?」
ばたりとドアが閉められてから暫くがたち、一段落ついたとなんとなく脳が認識した辺りで楓が言う。
藤田さん――ともい美麗の頭の中には、言いたいことや訊きたい事がぐちゃぐちゃと散乱していた。
それを一旦溜め息として吐き出すと、彼女は憂鬱そうに手を顔に当て、この言葉だけを告げた。
「あんたの真似してんのよ……バーカ」
「お待たせ~薫ちゃん。
待った?」
恵が運転席に入って後ろを覗き込むと、後部座席の上で膝を抱えていた薫がむくりと顔を上げる。
彼女の瞼はほんのりと朱が滲み、顔は涙でグシャグシャになっている。
頻りに鼻を啜ったりしゃくり上げているところを見ると、今の今まで泣いていたのだろう。
「すいません……時間を見る、ほどの余裕がありませんでした。
それほど時間が、経って、いたのですか?」
「いや……そうゆう訳じゃないけど……
大丈夫?」
恵が心配そうに首を傾げる。
「ええ、グスッ、問題ありません」
薫は涙を拭いながら息を整えると、すっと握り拳を恵に向かって伸ばす。
「これ、車のキーです」
掌を上に向けて指を開くと、先程渡した簡素なキーホルダーの付いた鍵がその姿を表した。
「ああ、うん、ありがと」
恵は少し戸惑いながらそれを摘まみ上げると、体を正面に向けて座席に座りシートベルトを着ける。
それを見た薫も足場に置いていた靴を履き直し、シートベルトを着ける。
「ねえ、薫ちゃん」
差し込んだキーを回してエンジンを掛けると、恵がハンドルを握りながら尋ねる。
「はい……?」
恵は正面を向いたままだったため表情が分からず、彼女はどこか怪訝そうに応える。
「今、楽しい?」
「今は、少し――いいえ、すいません。
とても悲しい気持ちです」
平静を装おうとするも、恵の声音から今は繕うべきではないと考え、直ぐに正直な気持ちを吐露する。
「そう……じゃあ、今まではどう?
今日までの毎日は楽しかった?」
「はい、とても楽しかったです。
とりわけ今年度は特に。
広瀬くんが入部してくれてからの毎日は、忘れられないくらいに楽しかったです。
でも――」
「じゃあその気持ちを大切にしな。
その気持ちはきっと誰のものでもない、薫ちゃん自身のものだと思うから」
彼女は薫の言葉を遮るようにそう言うと、ゆっくりと車を発進させた。