私はの二年間は一体なんだのだろうか。
人の言うことをちゃんと聞いていれば誉められると思った。
上手くいくと思った。
でも、それは大きな間違いだった。
なぜ私は間違えてしまったのだろうか。
どこから間違えてしまったのだろうか。
楽しさにかまけて、気づかぬ内に自分を高める努力を怠っていたのだろうか。
だとしたら、私は……
私は、もう……
そんな独白めいた思いを胸に秘めつつ、彼女、薫は部室のドアを開く。
「あっ、会長、おはようございます。
今日は遅かったですね」
母親との対談の翌日。
憂鬱な気分を引き摺りながら部室の中に入ると、明彦が意外そうにそう言った。
ふと部室の中を見回すと、薫が最後の一人だということが分かった。
殆んどの場合において一番最初に部室にいたのは
彼女であったから、明彦のような疑問が浮かぶのも頷ける。
「ああ、うん、まぁ……」
「薫ちゃん、どうかしたの?」
聞いているのかいないのか分からないような歯切れの悪い彼女の返事に、美華が心配そうに尋ねる。
「ああ、すまない……少し考え事をしていてな。
みんなは気にしないでいつも通りにしていてくれ」
彼女はいつもよりも沈んだ声音で応えると、疲れきった様子で自分の定位置に座る。
「ほんとに大丈夫?
邪魔じゃなかったら話聞くよ?」
彼女の反応に美華の心配は輪を掛けて大きくなる。
「ああ、大丈夫だ。
大丈夫だから、もう少し一人だけで考えさせてくれ……」
薫はそう言うとどこぞのお偉いさんのように、机の上に肘をおいて組んだ手を口元に当てる。
「そう……なら、いいんだけど……」
美華はどこか憮然そうに応える。
彼女の様子を見る限りだと、大丈夫だとは到底思うことは出来なかった。
それはなにも美華だけの思いではない。
今、部室の面々全員が心配そうに彼女のことを見つめていた。
しかしそれと同時に、今の薫は本気で思い悩み、思い詰めているようにも見えた。
不用意に触れてしまえばたちまち壊れてしまうような、そんな危うさ故に美華はこれ以上の言及をすることが出来なかった。
いつも通りにしていてくれとは言われたものの、いつも通りでないものがいるなかでそんな事ができるわけもなく、部員達の会話はどこか不自然でぎくしゃくとしたものになってしまっていた。
「あの……その、みんなに一つ言いたいことがあるのだが……いいかな?」
そろそろ下校時刻になろうかという時間で、薫が呟くように言った。
その声はどこか申し訳なさそうで、この後彼女が悪い報せを口にするのではないかと、部員達を不安にさせた。
「……どうしたの?」
コクりと喉を動かしてから美華が尋ねる。
「ああ。
私は、その……この部を止めようと思うのだ……」
彼等の想像など優に上回る彼女の発言は、この部室に流れる時間を淀ませた。
「へ……?
薫ちゃん、今なんて……?」
まるで時が止まったかのような沈黙の後、美華が震える声で尋ねる。
「すまない、聞こえなかったか。
私はこの部を、ニコ研を辞めたいと言ったんだ」
「おいおい……いくらなんでも春先取りしすぎだろ。
エイプリルフールまでどんだけあると思ってんだ」
誠が冗談めかして言うと、今にも泣きそうだった美華の表情が僅かに綻ぶ。
「あ、あははは、なんだ、冗談かぁ驚いたぁ。
もぉ、薫ちゃんの冗談はいっつも笑えないよ」
二人の反応は、無理矢理としか思えない程不自然なものだった。
恐らく美華も、誠も、分かっていたのだ。
彼女が冗談でこんな事を言う人物では無いことを。
そしてそれは、部に入って一年にも満たない一年生全員でも分かることだった。
「嘘でも冗談でもない……!!
私は、本気だ……!!」
彼女が静かに叫ぶと僅かに残されていたなごやかさが消え、部室の雰囲気がガラリと変わる。
分かっていても、覚悟をしていても、やはりそれは彼等にとって受け入れ難い事だった。
「お前、なに考えてんだ……?
なにもしなくてもあと四ヶ月、長期休暇を除けば三ヶ月かそこらで俺達は形式上引退だ。
この時期にわざわざやめる理由がまるで見えねぇんだが」
お忘れかもしれないが、あくまでもこの自由ヶ原高校は進学校である。
受験に向けて三年時に部活動は引退となるのだ。
ただ卒業までは部の一員として扱われるし、例によって引退後の部活動参加も自由なので誠は形式上という言葉を選んだのだ。
「そっ、そうだよ薫ちゃん!
もうちょっとなんだから最後まで頑張ろうよ!」
誠に便乗するように、美華がグッと拳を握って彼女の説得を試みる。
「そうですよ会長。
いきなり辞めるだなんて……」
「そうです。
会長がいなくなったら完全に無法地帯になりますよここ」
「そうそう、やっぱり会長がいないとしまらないですよ」
それに続いて一年生達も、なんとか彼女を引き留めようと言葉を掛ける。
「みんなの言っていることは尤もだ。
しかし、私も引くことは出来ない」
「どうして……?」
美華が尋ねると、彼女は言うか言うまいか暫し考えるような間をとって口を開く。
「お母様の――いいや、私のためだ」
最初こそ絞り出したような声であったが、それは直ぐにいつも通りのの凛としたものに戻っていた。
「私は、変わりたい。
みんなをみていて私もそう思った。
それに変わった私こそが、私の求めるものなのではないかとも思った。
だが、なにが間違っているのかすらも分からない私には、その思考に至るまでの時間が遅すぎた。
もう、今更何をやっても変わらないだろう。
だから、辞める。
私はこのままではきっと、自分の理想とする私にはなれない」
「そんなの辞めたって辞めなくたってかわんねぇだろ。
なんでわざわざ辞める必要があるんだ?」
誠が尋ねる。
「それは……お母様が……」
「辞めろって、言ったのか……?」
言いずらそうに薫が応えると、僅かに怒りを孕んだ声音で再び誠が問う。
「いっ、いや、そんな事はない!
そんなことは……ない、のだが……」
その怒りが母親に向けられるものなのではないかと悟った彼女は慌てて否定するが、その言葉も結局は自身の無さそうなか弱い声になってしまう。
直接そう言われた訳ではないが、彼女が部を去ろうとしている理由は母親にある。
嘘をつく事を知らない彼女にとって、その事実は言葉を濁らせるには十分だった。
「じゃあなんなんだ。
俺の納得できる答えを教えてくれよ」
煮え切らない回答を受けて黙っている訳もなく、誠は更に言及する。
「それは……」
薫が言い淀むと、部室の空気がピンと張りつめる。
その間に薫の脳は母親のことを言うべきか否かを算出する。
しかし、頭に浮かぶのは怒りに燃える恵の姿ばかりであった。
今この話をすればここにいる全員が姉のようになってしまうのではないだろうか。
「別に、私が辞めたいから辞めるのだ。
それになにか問題はあるのか?」
故に彼女はその事を秘匿した。
慣れないが故にハリボテのようにあからさまな嘘をついて。
「あるから言ってんだろうがばーか。
一応俺が副会長なんだ。
退部の理由が明確じゃねぇと、先生にどう報告すればいいかわかんねぇだろ」
そういった業務的な話に薫は弱い。
かといって、ここまで来て母親の事を吐露するわけにもいかない。
だから彼女は再び嘘をつく。
それは、不器用な彼女の精一杯の大嘘。
「私はもう、ここにはいたくないんだ。
君達には正直劣等感しか感じてない。
広瀬君が入部してから、みんなが次々と変わっていった、成長していった。
それに比べ、私はどうだろうか。
この二年間でなにか変われただろうか、成長しただろうか、みんなになにか手助けができただろうか。
なにもできていないんだ、私は……
だから酷く焦る。
私も変わらなければいけないのだという妙なプレッシャーが背中を叩く。
でもなにも見えない、なにも思いつかない自分に腹が立つ。
焦りを感じているのに、みんなの成長を見て成長した気になってしまう自分に腹が立つ。
嫌気がさす。
もう、嫌なんだ……見えないなにかに焦らされるのは。
自分の無能さを呪うのは。
仲間の姿を見て苛立つのは。
醜い自分の感情と向き合うことが、嫌なんだ、疲れたんだ……」
長々と語られた彼女の嘘。
その中にどれくらいの嘘が入っているのだろうか。
どれくらいの本当が入っているのだろうか。
その答えは誰も分からない。
嘘をついた彼女でさえも。
「そうか、分かった。
わざわざ言わせて悪かったな。
増田先生にはそれっぽく伝えとく」
誠はノートパソコンに視線を戻すと、どこか憮然とした声音で応えた。
「えっ、えと草薙君!?
そっ、それでいいの!?」
想像以上にあっさりと話を切り上げた誠に、美華が驚きの声を上げる。
「いいもなにも、こいつがそう言ってんだからこれ以上止める理由はないだろ。
そもそも俺は最初から引き留めるつもりなんてなかったしな」
「そんな……」
冷淡な反応を見せる誠に、美華は絶望にも似た声を溢す。
「そう言ってくれると少しだけ気が軽くなる、ありがとう。
今日だけは君のひねくれた性格に感謝しないといけないな」
薫の皮肉めいた言葉に、今日だけは誠はなにも返さない。
「薫ちゃん……!」
代わりに口を開いたのは美華だった。
ぎこちない笑みを浮かべていた薫は、表情を真剣なものに塗り替えて顔を向ける。
「薫ちゃん、嘘ついてるよね?
本当の事、話してくれないの?」
「嘘などついていないさ。
なんの根拠があってそんな事を――」
「さっきから何回も“お母様”っつっといて今更よくそんなしらを切れるな」
彼女の言葉を遮るように誠が鋭い言葉を飛ばす。
「言えない……んだよね……
薫ちゃんが嘘つくなんて、よっぽどだもんね。
でももし、言えるなら……言ってほしいな……」
彼の言葉にグッと唇を引き結ぶ薫に、美華が優しく言う。
「嘘でも……冗談でも、ない……
これが私の本心だ……」
「ほんとに本当?
私、信じるよ……?」
その問いは、まるで“部を去る最後の言葉がそれでいいの?”と言っているようでもあった。
「ああ、本当だ……」
そう答えた薫の表情は今にも泣きそうなものであった。
嘘をついたこと、少なからずこの部を貶めたこと、部員達の期待を裏切ってしまったこと。
そしてなにより、この部を去らなければならないこと。
それらがきりきりと薫の心を締め上げる。
「薫ちゃんの、バカ……」
美華は涙が一杯に貯まった瞳で薫を見つめると、消え入りそうな声で呟きながら、ゆっくりとうつ向いた。
「今まで……世話になったな……
君達なら私など居なくてもやっていけると確信している」
たった一年程度の時間ではあったが、それてもこの場所は彼女にとってかけがえのない場所になっていた。
自分の居場所となってしまっていた。
無論、彼女の場合友達がいないわけではない。
それでも、この部での一時は他のどの時間にも勝るものだった。
そんな場所を簡単に捨てられる筈がない。
離れられる筈がない。
「すまないが、私はもう帰らせてもらうよ。
あまり、気分が優れないのでな……」
だから、そう言った彼女の足は思うように動いてはくれなかった。
「そう……気を、付けてね……」
それはまるで家を追い出される娘を見送る母親のような、そんな声音であった。
「ああ、ありがとう」
それに応える薫の声も、どこかよそよそしい。
「なあ天猫院……」
「なんだい?」
いつものなん倍もの時間をかけて漸くドアの前までまでたどり着いた彼女に、彼は静かに口を開いた。
薫は振り返らない。
誠は自分を引き留めるような人間ではない。
そう分かっていても、ここで振り替えればもう足が動かなくなるような気がした。
「正直に言う。
俺はお前の退部届けを出すつもりはないし、先生に報告もしない」
「なっ――」
「いいから黙って聞いとけ」
思わず振り返りそうになった彼女を止めたのは、図らずとも誠の言葉であった。
「お前が来たくなきゃ来なくていい。
この学校の校風や顧問を忘れた訳じゃないだろ?
無断で部活休んだぐらいじゃおとがめなんてない」
いつも通りの物言いに、薫は内心ほっとするのと同時に誠のサバザバとした性格に感謝した。
が、今日の彼はいつもと違っていた。
いつもならここまで終わっていた言葉に、彼はゆっくりと息を吸って二の句を継いだ。
「でも、お前が来たいと思ったらちゃんと来い。
お前にとってこの部がどれくらいの価値あるものかは知らねぇが、それでもこの場所もお前の居場所のうちの一つだ。
だから、どうゆう理由かは知らないし詮索もしないが、そんな簡単に居場所を捨てるな。
俺らなら、俺らだから、分かる筈だ。
自分の居場所がどれほど大切か……」
ふわりと空気に溶け込むような言葉尻に、部室の中はどこかむず痒い沈黙に満たされる。
「どうして……どうして、今日に限ってそんな事を言うんだ……」
薫は振り返らない。
しかし、その震えた声からは彼女の感情が丸見えであった。
「バーカ、今日だから言ってんだ。
普段からこんなこと言ってたまるかよ。
うすら寒くて風邪引くわ」
そう言って誠は自傷気味に笑う。
「どうして……?」
「困るんだよ、勝手に約束だけして先に退場されると」
目は合っていない筈なのに、彼は気恥ずかしそうに視線を落とす。
「約……束……?」
困惑したような声を聞いて、誠はやれやれと言わんばかりに溜め息をつく。
「ったく……忘れてんじゃねぇよ。
もっとちゃんと話したいって、お前から言ったんじゃねぇか。
まぁそりゃ、約束って程の事じゃないかもしれねぇけど……」
僅かに頬を朱に染めながら、彼は不貞腐れたように言う。
「ああ、すまない……確かに、言ったな。
でも安心してくれ、約束は守るよ。
“いつか”必ず……な」
彼女は静かにそう言うと、おもむろに扉を開いた。
「またな」
掛けられた誠の言葉に返事はない。
「まっ、またねっ、薫ちゃん!」
それから少し遅れて美華が慌てて別れの言葉を口にしたところで、ゆっくりと部室のドアが閉まる。
広がる静寂の波。
二年生の二人はすっと視線を落とし、一年の三人は困惑した様子で互いに視線を飛ばし合う。
そんな中、誠がすっとイヤホンを耳に着ける。
が、数分としない内に乱暴にそれを外し、ノートパソコンを畳む。
「だぁもう、こんな雰囲気で部活なんて出来るか!
やめだやめ、お前らもう帰っていいぞ」
がたりと立ち上がっていそいそと帰り支度を調える。
そして周りの反応など歯牙にも掛けずに部室を後にする。
――先輩、それ部活と関係なくないですか……?
普段ならこんなツッコミの一つも出るのだが、状況が状況であるために、彼は呆然としたままドアを見つめる事しか出来ずにいた。
「じゃっ、じゃあ……また、明日ね……」
美華は申し訳なさそうに、しかしどこか急くように立ち上がる。
「ああ、はい。
また明日」
明彦が応える。
それはいつも通り、なんの変哲もない日常会話の一分だった筈だ。
しかし今の彼には、それがとても重く特別な事のように思えた。
「また、明日です」
「さようなら……です」
彼と似たような事を思っていたのか、雪菜と奏の返事もほの暗くなっていた。
―翌日―
ニコ研の部室はいつにも増して静かだった。
特に薫が煩かった訳でもないし、彼女が積極的に話題を振っていた訳でもない。
それでもいつまで経っても埋まらない彼女の定位置が、彼女によって開けられた心の風穴が、彼らに何かが足りないと思わせる。
何をしても、何を話しても、そのもの寂しさは消えてはくれない。
そんな、みんながみんなそわそわとぎこちない空気を醸し出している中に、彼女は現れた。
「やっほ~薫ちゃ~ん。
仕事が一段落ついたから遊びにきたよ~」
天猫院恵はじめじめした雰囲気に似合わない、明るい声を放ちながら部室に踏み入る。
が、直ぐに自分との違和感に気づき、不安そうに部室内を見回す。
「えと……なにか、あったの……?
薫ちゃんもいないみたいだし……」
「あいつは――妹さんは、もう来ませんよ」
オロオロと訊ねる恵に対し、誠はぶっきらぼうに応えた。
「えっ?
なんで?」
彼女ははてと首を傾げてはいるものの、その瞳や声音には何かに感づき、恐れているような色が込められていた。
「あいつは、この部を辞めました」
その言葉を聞いた瞬間、恵の顔から明るさが消える。
「それ、ほんと……?」
「ええ」
「誰から聞いたの?」
「天猫院本人からです」
彼女は幾つかの質問をすると、落胆した様子で手で顔を覆いつつ天を仰ぎ、かと思えば内からたぎる怒りを押さえ込むかのように、顔を落としてグッと拳に力を込める。
「ねえ……」
「はっ、はい……なんでしょう……」
まるで先程までとは別人のような彼女の様子に、明彦がおっかなびっくりに応える。
「このニコ研っていう部は、良好な人間関係を築き、スムーズなコミュニケーションを得るためにどのようなことをすれば良いのかを研究し、分析し、理解する部活動なんでしょ?」
突然何をいうのかと思うと、恵は過去に薫から聞いた説明を丸暗記したかのような、そんなかたっくるしい説明を口にする。
「ええ、まぁ……そうですね」
が、当に部員である明彦も実際にどんな部活なのかはざっくりとしか分かっておらず、曖昧さの残る返事になった。
「だったら、薫ちゃんに良好な人間関係の作り方を教えてあげて」
「えっ、でも……会長はもう……」
突然な依頼に、明彦が戸惑いながら応える。
「会長は二年近くこの部に居ました。
そして、“なにも成長できなかった”と言ってこの部を去りました。
冷たいかもしれませんが、本人がそう言っている以上、たとえ急繕いだとしても良好な人間関係の形成は難しいと思います」
彼の言葉を補うように雪菜が意見する。
「ああ、やっぱり……
あの子そんな事言ってたの?」
それを聞くと、彼女は頭痛でもするのか指先を額に当て、本日何回目かの溜め息をつく。
「きっと、それはあの子の勘違いよ。
あの子はちゃんと成長してる。
それは姉である私が保証するわ」
「保証って……
そもそも勘違いってどうゆう事ですか?」
明彦は一瞬表情を引き攣らせると、不思議そうに訊ねた。
「あの子は、母さんの為に部活をやめようとしてるの」
すると、恵が訥々と話始める。
「やっぱり母親か……
一体なにを言われたんですか?」
誠は悔しそうに呟くと、うっすらと怒気が透けて見えるような声音で訊ねる。
「ああ、勘違いしないで。
母さんが直接止めろだの何だのって言った訳じゃないの。
ちょっとしたすれ違いっていうか……事故っていうか……
確かに悪いのは母さんなんだけど、悪気があった訳じゃないと思うの。
あの人も多分、そんなつもりで言ったんじゃないだろうし」
「ああ、そうですか……
すいません、つい感情的になってしまいました」
なんの確証もないし、事情もよく知らないにも関わらず、つい頭に血が昇ってしまった。
俺らしくもないなと思いつつ、自責の念に駆られた彼は素直に頭を下げる。
「いいっていいって、それくらい薫ちゃんの事を大切に思ってくれてるなら私も嬉しいから。
それにきっと、それは薫ちゃんにとっても嬉しい事だと思う」
「でも、結局お母さんの言葉が切っ掛けなんですよね?
だったら薫ちゃんは、どんな言葉に影響を受けたんですか?」
落ち込む誠を恵が慰めていると、美華がひょっこりと顔を覗かせて訊ねる。
「ああ、うん。
ごめん、ちょっと順を追って説明するね――」
恵はそう切り出してから、かくかくしかじかと薫と楓の会話をざっくりと説明する。
「――それで、どうやら薫ちゃんは“そんな事になんの意味があるの?”って辺りの言葉にやられちゃってるみたいなんだよね」
「まぁ、今の話を聞く限りだと間違いなくそうでしょうね」
明彦がうんうんと頷きながら肯定する。
「って言うかこれ普通に会長の母ちゃんが悪くね?」
「おい、少しは言葉を選べ馬鹿。
本人目の前に居るんだぞ」
明彦に指摘され、奏がハッとした表情で口を手で覆う。
「あっ、えっ、ええと、ごめんなさい。
そっ、そんなつもりじゃ……」
そしてわちゃわちゃと視線や指を動かしながら、慌てて謝罪をする。
「別にいいわよ。
私も母さんが悪いって思ってるから」
恵は優しい微笑みを見せると、ふぅと物憂げな溜め息をつく。
「だだ、母さんがそうゆう事を言っちゃうのには訳があるのよ。
あの人は薫ちゃんが嫌いって訳じゃないの。
寧ろ大好きな筈なのよ。
でもあの人は弱くて不器用だから、それを上手に伝えられない。
まぁ、自分の罪の重さに耐えきれないっていうのが、一番大きな理由でもあるんだろうけど……
兎に角、あの人は根っ子からの悪意でそうゆう事を言う人じゃないのよ。
……少なくとも、私はそう思ってる」
「自分の罪……ですか?」
聞き捨てならない単語に、美華が恐る恐る訊ねる。
「そう、罪。
薫ちゃんは、昔はあんな性格じゃなかったのよ。
そうね……この中だとちょうど貴女みたいな感じだったわ」
「えっ、俺!?」
恵に視線を向けられ、奏が驚きの声を上げる。
「ええ、貴女みたいに元気で活発な子だったわ。
でも、それを母さんが変えてしまった」
どこかデジャビュを感じ、明彦と雪菜が顔を見合わせる。
「変えてしまったっていうと……?」
誠が詳細説明を促すように訊ねる。
「母さんとかの話からすると、決定打になった何かがあったらしいんだけど……私はその事については殆んど知らないのよ。
でも、普段から薫ちゃんには辛く当たってたから、それが積み重なった結果だと思う」
「これやっぱり会長の母ちゃんが悪くね……?」
奏が雪菜にだけ聞こえるように呟く。
「奏ちゃん……」
それに対し、雪菜は呆れた様な反応を見せる。
しかし、彼女の言葉のお陰で雪菜の脳内に一つの疑問が浮かぶ。
「そういえば、会長はどう思ってるんですか?
あの時はなにも――っていうかあえてその事を隠しているようにも見えましたけど……」
「うん、実はあの子自身は何とも思ってない……っていう訳じゃないんだけど、でも自分が悪いから母さんが怒るんだと思ってるみたいね。
だから特に母さんに対してマイナスな感情は持ってない筈よ」
「結局、会長のお母さんは会長――その、薫さんと仲良くしようという気持ちはあるんですよね?」
明彦はうむむと暫しの思考時間の後にそう訊ねた。
「うん、少なくとも私はそう解釈してる」
「だったらもう問題なんて無くないですか?
お互い仲良くしようと思ってるんですから、後はなるようになる気がするんですけど……」
恵の返答に、明彦は首を傾げながらどこか申し訳なさそうに言う。
「そうなってたらわざわざあなた達にこんな事頼まないわ。
あの二人にはお互い後ろめたさがあるのよ。
母さんも、薫ちゃんも、自分が悪いと思い込んでる。
まぁ母さんは本当に悪いんだけど……
だから遠慮しあって微妙な距離感をずっと埋められないままなの」
「成る程、お互いの誤解。
特に会長の方のそれを何とかしないといけないって訳か」
奏がぼそりと纏めるような事を呟くと、部室内が水を打ったように静まり返る。
「――ん?
どうした?」
それに気づいた奏はふと顔を上げ、自分の感じた違和感を口にする。
「いや……奏が急にまともなことを言い出したから……」
明彦が呆けた様子で応える。
「おい、馬鹿にしてんのか……?」
じとっとした視線を向ける奏に対し、彼は無言のまますっと目を伏せる。
「なんだその反応!
お前やっぱり俺の事馬鹿だと思ってんだろ!
俺だってまともなことの一つや二つ普通に言うぞ、馬鹿にすんな!
っていうか成績的にはお前の方が馬鹿だからなバーカ!!」
「依頼内容は概ね把握しました。
しかし、話を聞く限りだと非常に難儀しそうです。
ですから、できればもう少し情報がほしいところです」
ムキーと心外そうに反論する奏の後ろで、誠が自分の脳内を整理しつつ話を進める。
「う~ん……どこまで言ったかな……
多分私の言えることは全部言ったと思うけど……」
恵は腕を組んで考えるような仕草をしながら応える。
「この状況でやるしかねぇってことか……」
「でもどうするの?
今すぐ薫ちゃんを説得するって訳にもいかないだろうし……
薫ちゃんああ見えて頑固だよ?」
難しそうに眉根を寄せる誠に、美華が心配そうに言う。
「ああ、作戦ってほど立派じゃねぇが、それなりに考えて行動しないと事態を悪化させかねないしな……」
「広瀬君、出番だよ!」
「いや、ほら……俺は基本的にノープランだから……」
キラキラと目を輝かせる雪菜の瞳から逃れるように、明彦が視線を反らす。
今までの明彦はトライアンドエラーが基本スタイルであった。
幾つかの失敗を元に、それらしい真実を見出だしていく方法だ。
これはコミュニケーションがおろそかでも、彼女達の求める解を見つけられるという利点がある。
しかし、その反面失敗を繰り返す度に相手に多大な傷を負わせる事になる。
所謂荒療治というやつだ。
明彦はこのやり方にもう嫌気が差していた。
無責任な優しさで無遠慮に人を傷つけるこのやり方に。
美華や雪菜は偶然上手くいったからいいものの、次も上手くいくという保証はない。
もしも人の心を踏みにじるだけ踏みにじってなにも成せなかったらどうする。
そんな恐ろしさが彼の心を縛り付けていた。
「そうなの?」
「うん……」
可愛らしく首を傾げる雪菜を一瞥して明彦が答える。
「それに、会長がどう思ってるかなんて分からないだろ?」
その言葉を聞いた瞬間、この部室にいる全員の視線が集まる。
「どうゆう……事……?」
雪菜が動揺した様子で訊ねる。
「会長がそうなることを望んでるのかって事だよ。
もしかしたら、会長はこのままでいることを望んでるかも知れないだろ……?」
「そんなわけない。
今の状況はどう考えても薫ちゃんが望んでいるものじゃない」
恵が声に僅かな怒気を滲ませて応える。
「あっ……ああ、そうですよね……
すいません……
あはは、なにいってんだろうな俺……」
明彦はハッとした様な顔を見せると、取り繕うように笑う。
「ほんとだよ、明彦らしくない。
無遠慮な優しさがお前の売りだろ?」
「うっ……うん、そうだよね」
笑顔を浮かべていた奏だったが、明彦のいつもとは違う反応に怪訝そうな表情を浮かべる。
「で、だ。
押し付けるようで悪いんだが、本当になにもないか?
情けないが俺達は今まで自分の事でいっぱいいっぱいで、他人を気にかける余裕なんてなかったからな……
こうゆうときどうすればいいかがまるで分からないから、お前に頼るしかないんだ。
本当にすまない……
でも、気になったこととか思ったことを言ってくれるだけでもいいんだ。
俺達にとってはそれも大きなヒントだからな。
……やっぱりダメか?」
明彦は困ったように視線を泳がせていたが、それは徐々に重力に引かれて地に落ちていく。
「えっええ……そうですね……
今回は特殊なケースですし、情報量も少ないので何とも……」
その様子に雪菜が密かに訝しい視線を向ける。
「そうか……ありがとな。
今後も何かあったら遠慮なく言ってくれ」
「ええ、はい。
善処します」
明彦は視線を元の高さまで上げると、疲れたような不完全な笑みを浮かべる。
「情報量が足りないなら、母さんに直接訊く?」
しかし恵が重要な提案をしたがために、その事について突っ込むものはいなかった。
「出来るんですか?」
「流石に今すぐっていうのは無理だけど、母さんも薫ちゃんの為だって言えば時間を作ってくれると思う」
「本当ですか?
では、是非ともお願いします」
「うん、分かった。
直ぐに連絡するよ」
誠と恵の業務的な会話が漸く終わると、はからず全員がふぅと一息つく。
「取り敢えず今日は解散にしとくか」
「そうですね」
それからもう一呼吸置いてから誠が言うと、雪菜がそう応えた。
「今話し合っても不毛なだけだろうからな。
一旦持ち帰って、各自案を練ってから明日話し合おう」
彼が言葉を続け、部員達は無言のまま首肯する。
それを見ると、今度は視線を恵の方へと向ける。
「恵さんも、面会の件よろしくお願いします」
「うん、任せて」
「よし、じゃあ解散っ!」
誠は彼女の返事に頷きで応えると、胸の前でパンと手を打ち鳴らす。
それを合図にして部員達は帰り仕度を始めるのであった。
「広瀬君」
「なに?
どうしたの?」
持ち物を一通りリュックサックに詰めた所で、明彦は雪菜に呼ばれる。
「今日、一緒に帰ってくれない?」
僅かにかおを傾け、上目使いで雪菜は訊ねる。
「えっ……あっ、ああ、うん……」
驚きのあまり、彼の口からは直ぐに言葉が出てこなかった。
突然誘われたこともそうであるが、彼は雪菜が堂々と、しかも人に聞こえるような場所と声でこんな事を言った事に驚いていた。
明彦が恥ずかしそうに周囲に視線を向けるのに対し、雪菜はじっと彼の顔を見続けていた。
「うん、いいよ」
明彦は気を落ち着かせるように息を吐くと、照れ臭そうに頬を指先で掻きながら答える。
「えへへ、ありがと。
じゃあ外で待ってるね」
自分のバッグを持って立ち上がろうとする雪菜を、明彦が引き留める。
「あっちょっと待って。
俺ももう準備終わったから」
彼はいそいそとリュックサックのチャックを閉めると、立ち上がって雪菜の横に並ぶ。
「じゃ、行こっか」
「うん」
二人は互いに言葉を交わすとそのまま部室を後にした。
突然の慣れない雰囲気に唖然とする恵達。
「なっ、なんだったんだ……?
今の……」
困惑からくる沈黙の中で、奏の呟きが静かに広がった。