慣れない雰囲気に困惑しているのは、部室にいる彼女達だけではなかった。
雪菜の隣を歩く明彦も今だ嘗てない展開にどぎまぎとしていた。
そのせいか、折角彼女と一緒に帰っているにも関わらず、気の効いた話題が一切頭に浮かばない。
(ヤバい……どうしよう……
なんかちょっと気まずくなってる気がする……
っていうかどうしてこんな急に積極的に……?
まさか、そうゆうことなのか!?
ついに正式にお付き合いを――)
「広瀬君」
「はっ、はいっ!?」
悶々と思考を巡らせている中で声を掛けられ、思わず声が僅かに裏返ってしまう。
「えっ、えと……なに?」
慌てて取り繕うように笑う明彦を、雪菜は不思議そうに数秒此方を見つめ、「まっいいか」と言わんばかりの表情を見せてから本題に入る。
「広瀬君、嘘ついてたでしょ」
「なっ、何の話……?」
「会長の話。
なにも思い付かないとか言ってたやつ」
今だ慌てた様子の取れない明彦に対し、雪菜は冷静に言葉を続ける。
その瞬間浮かれきっていた彼の脳みそが、まるで冷水に潜らされたようにきゅっと引き締まる。
「なに言ってんだよ、あんなところで嘘ついたってしょうがないだろ?」
明彦は笑顔を浮かべながらそう答えたが、雪菜は疑るような視線を外してはくれない。
「そう……
じゃあ、会長を部に戻そうとしてる先輩達に、協力する気ある?」
「なっ、そっ、そんなの当たり前だろ?」
まるで自分の心の中を覗かれたような質問に、明彦は隠しきれない動揺を露にする。
「ほんとに?」
雪菜が更なる疑りの眼差しを向ける。
その時彼女が一歩隣に間合いを詰めたせいで、思わず明彦の足が止まってしまう。
「ほっ、ほんとだよ……」
嘘をついてしまった事の後ろめたさか、それとも目と鼻の先で雪菜に見つめられた恥ずかしさからか、明彦は彼女から視線をそらしてしまう。
その行為に不信感を募らせたのか、雪菜は威圧するようにじとっとした視線を向け続ける。
「ふっ、冬野、近いよ……」
明彦がそう言うと、彼女はハッとした様子で目を見開き、頬を朱に染めて先まさっきまでの進行方向へ顔を向ける。
雪菜が距離を取ってくれた事により、明彦は二重の意味で安堵の溜め息をつく。
「まっ、まぁ広瀬君がそう言うならいいんだけど。
……それに、辛いことだったら強要しようなんて思わないし」
雪菜は大きめの袖口を弄ると、心配そうに明彦の方に顔を向ける。
「でも、あの時の広瀬君はなんだか悩んでるみたいだったから。
辛そうだったから……
だから、私が少しでも力になれればなぁ、なんて思っててさ。
あははは、私なんかじゃ全然頼りないよね」
そう言いながら彼女が見せた微笑みは、今まで見た笑顔の中で一番悲しい色を帯びていた。
「そっ、そんな事ない!
そんな事ないよ!」
彼の中で溢れだした否定の意志が、考える間もなく彼女の手を掴ませた。
「ひっ、広瀬君!?」
突然の出来事に雪菜が驚きの声を上げ、明彦が慌ててその手を放す。
「あっ、ごめん……
でもその気持ちは凄く嬉しいよ。
ただ……これは言ってもどうしようもないことだから……」
「へぇ、やっぱり嘘ついてたんだ」
「いや、それは、その……
はぁ、悪かったよ。
俺がなにもしなければすむ話だったし」
嗜虐的な彼女の言葉に、明彦は諦めたように溜め息をついて謝罪する。
「別にいいよ、怒ってないし。
ちょっとからかってみただけ。
……それで、話してくれるの?」
雪菜は楽しそうな口調でそう言ってから、ちらりと明彦を一瞥する。
「流石にここまできて話さないわけにもいかないだろ……
ここで終わったらお互い気持ち悪いだろうし」
「それもそうか……
なんかごめんね、無理やり言わせるみたいで……」
「いいって。
純粋に冬野の気持ちが嬉しかったから、それに応えたいだけだし」
「そう?
だったらいいんだけど……」
彼は不安そうな視線を向けてくる雪菜に首肯で応えると、すっと口を開いて自分の今の気持ちを吐露した。
自分のやり方は正しくない。
人を傷つけるのが恐い。
今度もまた奇跡が起きるとは限らない。
失敗した時のリスクが大きすぎる。
洗いざらい全部、明彦は彼女に伝えた。
「そう……やっぱり、広瀬君は優しいね」
「……そんな事ないよ。
俺はこんな事を思いながら、それでもまだ何か力になれないかなんて思うんだ。
偽善だって分かってても、ありがた迷惑でしかないと分かってても、俺は傲慢にも誰かの救いになれるんじゃないかなんて考えちゃうんだ。
ほんとは、そんな力なんてないのに。
無責任な優しさを振りかざして、多くの人に迷惑を掛けたこと、大切な人を傷つけたこと、わすれたわけじゃないんだけどね……」
「そんな事ない……!!」
悲しげで、どこか自虐的な笑みを浮かべる明彦に、雪菜は力強く彼の意見を否定して見せた。
「私は、広瀬君に救われた。
それに奏ちゃんも、みんなも、広瀬君のおかげで――」
「運が良かったんだ」
続く彼女の言葉は、絞り出した様な明彦の言葉によって呆気なく掻き消されてしまう。
「え……?」
「冬野の時は、運が良かったんだ……
たまたま俺の事を好きになってくれたから……
それに、立花先輩の時は何となく言った一言が原因だったみたいだし、奏に至っては冬野がいなかったら話もできなかった。
結局、俺はなにもできちゃいない」
「それでもいい。
たとえそうだったとしても、私は広瀬君に救われたって胸を張って言える」
頑なに自分を卑下する彼に負けじと彼女は応える。
「そんなの結果論じゃないか……!
俺はあんなにも冬野を傷つけて、苦しめて……
もしもほんとに冬野が俺の事嫌いだったらどうなってたと思う?
俺は人の心を散々踏みにじった挙げ句、冬野の傷を余計に深くしてた筈だ。
俺は、そんな風にはなりたくない……!
遅すぎるけど、俺は漸く自分の頭の悪さに、思慮の浅さに気づいたんだ……!」
明彦は苦しそうに胸元の服を掴みながら反論を続ける。
「さっきも言ったけど、私は無理やり広瀬君にそうゆうことやらせようとは思ってないよ。
ただ、少し悲しいの。
……悔しいの」
「悔しい……?」
「うん。
私はね、本当に救われたんだよ?
私はずっと独りだった。
凄く寂しかったけど、また壊れちゃうくらいならなにも要らないって思ってた。
でも、広瀬君がそんな私のルールを無理やり壊してくれた。
壊れないものをくれた。
だから、お門違いかもしれないけど悔しい。
私はこんなにも感謝してるのに、広瀬君はそれを罪だと、重荷だと思っていることが。
凄く悔しい」
「……」
自分自身に対する罪悪感と、今の雪菜に対する申し訳なさが相成って、明彦はどんな言葉を口にすればいいのか分からず、グッと口を紡ぐ。
「ねえ、広瀬君」
なんとも言い切れない感情を抱える明彦に先んじて、雪菜が言葉を接いだ。
「私ね、広瀬君の優しさは悪いものじゃないと思うの。
だからあまり自分を責めないで。
……ってやっぱり全然力になれてないね……ごめん」
雪菜はまたも、「そんな事ないよ」そう言おうと口を開いた明彦よりも早く二の句を継ぐ。
「でも、安心して。
会長の事は私達が何とかするから。
広瀬君に辛い思いなんてさせない」
雪菜は自分の強い意思を示すかの様に、止まっていた脚を再び前に送る。
「あっ、ああ、うん……ありがとう」
彼女から少し遅れて明彦も歩みを進める。
ただ、少しだけ進むことを躊躇ってしまった。
雪菜にこの事を言ったことは正しかったのだろうか。
自分は、このままでいいのだろうか。
いや、いいに決まっている。
誰かを傷つけるくいならこのままなにもしない方がいいに決まってる。
確かに薫の事は心配だし、出来ることならなんとか
したい。
しかし、取り返しのつかないことになるくらいならば、そんな中途半端な優しさなんて要らない。
どちらにせよ、こんなのただの我が儘だ。
ならばより危険度の低い方法をとるのは当然の結論だと言える。
明彦はもやもやした気持ちを無理やり納得させると、数歩離れてしまった雪菜との差を埋めるために歩みを早める。
「よし、集まったな」
翌日。
誠は部室に集まった面々をざっと見るとそう言った。
「宣言通り一晩開けた訳だが……
みんな、なにかいいアイデアは浮かんだか?」
誠がそう二の句を継ぐと、部室内の空気が一気に重くなる。
「お前らなぁ……」
「思い付いてない」と口にするよりも明らかなこの状況に、誠は額に手を当てて溜め息をつく。
「どうすんだよ、俺もなにも思い付いてねぇぞ」
「いや、今俺だけはちゃんと考えてきたみたいなオーラ出してたじゃないですか……
一瞬だけですけど……」
「いや、これが考えてもさっぱりわかんねぇんだ。
お前、やっぱりすごいな」
控え目のツッコミに真面目な言葉を返され、思わず乾いた笑みが溢れてしまう。
「で、どうするよ?
なんかいい感じに意気込んではみたものの、そっこうで手詰まりなんだが……
なぁ広瀬、やっぱなんもでないか?」
「すいません……」
普段よりも数段トーンダウンした誠の声に明彦が応えると、部室の雰囲気が輪を掛けて重苦しくなる。
「とっ、取り敢えず会長に話を聞いてみるっていうのはどうでしょうか……」
そんな中雪菜がおずおずと、控え目に手を上げる。
「この前広瀬君も情報が足りないって言ってましたし、もしかしたらなにかわかるかもしれません」
審議をするような部員の反応に、彼女は行動の意図を示す。
「なるほどな……
でも……何を訊きゃいいんだ……?」
誠はそう言って溜め息をつくと、自棄になったように天井を仰ぎ見る。
「ほんっと、俺達は今まで何をやってたんだ?
結局なんもかんも広瀬やあいつのおかげで、俺達はなにもしてなかったんじゃねぇか。
助けてもらってばっかりで、いざ俺達がそっち側にいったら無能ときたもんだ……
ああもう、情けねぇな……」
苛立ちを孕んだ自虐の言葉に思い当たる節があるのか、他の部員達もすっと目を伏せる。
「提案しといてあれなんですけど、私も何を訊けばいいのかなんて全然分かりません。
ですから取り敢えず、会長は現状をよしとしているのか、本当に助けを必要としているのかを確認しましょう。
会長が望んでないことをいくら他人が推し進めても意味ありませんから」
「おっおう……そうだな……」
自信のない声音とは裏腹に、その言葉にはここにいる全員を納得させるほどの説得力があった。
ただ、普段そこまで積極的に意見を出してこない彼女が、突然なが台詞を語り出した事に驚きを隠すことができなかった。
「うん……うん。
立花、天猫院の都合の良さそうな時間とか分かるか?」
誠は心を落ち着かせつつ、彼女の言葉を確りと内に納めると、視線を美華の方へと向けた。
「さっ、流石にそこまでは分からない、けど……
でも、多分放課後は部屋で勉強とかしてるんじゃないかな……?
薫ちゃん真面目だからああ言った手前、友達と遊んでるなんてないだろうし」
美華は目を宙にさ迷わせ、時折考えるような間を置いて応える。
「そうか、じゃあいつ行ってもいいってことだな」
「えっ、えと、そうゆう意味で言った訳じゃ……」
にやりと悪い笑みを浮かべる誠に対し、美華は僅かに顔を青くさせる。
(はわわわ、ごめん、薫ちゃん。
凄く迷惑掛けるかも……)
他の意見や反対意見も特になく、彼等ニコ研一同は揃って薫の部屋へと向かうことになった。
「あっ、あったあった。
ここだよ」
そう言って彼女が指し示したのは、部屋番号753の部屋であった。
当然ではあるが見た目は他と一緒で、特に特徴などない。
強いて言えばエレベーターの位置が近いことだろうか。
「よし、呼び鈴をならすぞ」
緊張しているせいか、多少堅苦しい言い方をして誠がインターフォンのボタンを押す。
ピンポーンとテンプレートの様な音が鳴り、水面にできる波紋のように消えていく。
「いっ、いないのかな……?」
美華が不安そうに呟くと、誠が再びボタンを押す。
しかし、二度目も不発。
三度目、四度目も反応はなく、誠はダメだと言わんばかりに肩を竦める。
「会長、どこ行っちゃったんだろう……
あのタイミングで先輩が嘘つくとも思えないし……」
「まさか、影の國へといってしまったとでも言うのか……」
心配そうに呟く雪菜に便乗するかのごとく、奏が中二病を炸裂させる。
「こんな時にふざけんな」
が、すぐに明彦のチョップを脳天にくらい、彼女は「あだっ」と声を漏らすのであった。
(薫ちゃん、どこにいるんだろ……
職員室かな、図書室かな……?
私がたまに遊びに来たときは、どんな時でも一回呼び鈴鳴らしただけであけてくらたから、寝てるんじゃなさそうだし……
まさか……)
「もっ、もしかしてなにか事件に巻き込まれたりとか……」
ぼそりと呟いた彼女の言葉に、部員達の視線が一気に集まる。
「お前、無理に便乗しなくてもいいんだぞ?」
「そうですよ、確かにちょっと空気重かったですけど。
そもそもこいつのボケも面白くなかったですし」
同情の眼差しを向けられ、美華の脳内は一瞬真っ白になる。
「なっ、俺は真面目にだな……!」
「余計たち悪いわ」
「あだっ」
(あれ……?
もしかして、私ふざけたと思われた……?)
またも奏の脳天に手刀を入れる明彦を見ながら、美華はぼんやりと今の状況を理解した。
しかしここで騒ぎ立てても恐らく信じてくれはしないだろう。
(とっ、取り敢えずL○NEしとこう……)
美華は不安に駆られる心を押さえつつ、そっとスマートフォンをタップするのであった。
一方、その頃薫は薄暗く、染み付いた血の臭いが僅かに香る部屋にいた。
「どうしますかねぇこれ……」
紺色のマントで身を包んだ少女がハの字に眉を寄せて呟く。
藍色かがったポニーテールとくりくりとした丸い瞳。
今日はデッサンで使うような牛の頭蓋の様なものを被っていない魔術研究会の会長。
簡単に言うと城井杏佳である。
彼女は突如部室に訪れた訪問者に頭を悩ませていた。
「そこをなんとか……
ニコ研を飛び出した以上、こんなことを訊けるのは君達だけなのだ。
人助けだと思って、どうか協力してはくれないか」
「そんな事言いましてもねぇ……?」
杏佳はそう言いながらソファーの後ろに控えている花音と茜に目をやる。
「さっきから出てきてるお姉さまだとかお母様に訊けばいいんじゃないですか?」
「それはダメだ。
また、がっかりさせてしまうに違いない」
薫はゆっくりと首を横に振ると、悲しそうにそのまま視線を地に落とす。
「いや、そうはいってもですねぇ。
貴女が成長するために何をすればいいのかとか、私達が分かると思います?
こっちとしても恩がないわけじゃないですから、出来れば協力したいんですけど……」
「ん?
すまない、なんて言ってたんだ?」
杏佳が心苦しそうに言うと、彼女はキョトンとした表情で視線を上げた。
その手にはスマートフォンが握られていた。
「いやそっちから来たんですから、せめて話ぐらいはちゃんと聞いてくださいよ!」
「すまない、急にL○NEが来たのでな」
「私の話よりもLI○Eですか!?
バカにしてるんですか!?
って言うかやる気あんですか!?」
けろりとした表情の薫に対し、杏佳は押さえきれない怒りをその顔に露にさせる。
「本当にすまない……
マナーモードにしていたのでな、電話かと思ったのだ……」
「貴女いっつもワンコールで電話に出てるんですか……?」
しゅんと項垂れる薫に、杏佳が呆れた様子で言う。
「で、まぁ話を戻しますけど、私達はハロワの職員じゃないんです。
今自分が何をすべきか分からないだとか、自分が成長するために何をすればいいのかとか、そんな哲学めいた質問をされても困るんですよ」
「しっしかし、私にはもう……」
彼女が呆れた表情のまま仕切り直す様に言うと、薫は下に向けていた顔を慌てて持ち上げる。
「っていうか私的にはどうしてあの部を辞めたのかの方が万倍気になるんですけど……
なにかあったんですか?」
その質問に、彼女はまた目を伏せてしまう。
「まぁ……言いづらいことなら別に言わなくてもいいですけど……
自分が何をすべきか分からないってのは、目標がないからなんじゃないですかね?
例えば志望校に受かるために猛勉強とか。
私はがらじゃないんで絶対やりませんけど」
杏佳は気まずそうに言うと、控え目に自分の意見を述べる。
「目標はちゃんとある。
……ただ、些か具体性に欠けるかもしれないが……」
「なんですかそれ。
あれをしたいとかこれになりたいとか大それた夢は沢山ありますが、それでもよく見ればそんなに悩む程朧気になる事なんてないと思うんですけど……」
相談者の意図が汲み取れず、彼女はうむむと眉根を寄せる。
「きっと、やり残したことがあるんじゃないですか?」
そろそろ空気が凝り固まってきたその時、正太郎がそっと緑茶の入った湯飲みを差し出す。
「やり残した……事……?」
不思議そうに薫に見つめられ、正太郎は「ええ」と答えながらソファーに挟まれた背の低いテーブルに湯飲みを置く。
「貴女はきっと、まだあそこをやめるべきじゃなかったんですよ。
ゲームだってそうでしょ?
やるべき事をすっ飛ばしてその先のステージには行けないんです」
「流石白井君!
惚れ直しました!
結婚してください!」
にっこりと微笑む正太郎に、杏佳が黄色い声を上げる。
「ちょっ、からかわないでくださいよ!」
「おっ、俺も……」
「秀信君……?」
頬を朱に染める秀信に、正太郎が困惑した様子で応える。
「しかし、お母様が……」
そんな魔術研の面々に構うことなく、薫が悩ましげに呟く。
「それはきっと見謝ったんですよ」
正太郎が少し声のボリュームを落として言う。
「はっ、あっ、いや……聞こえてしまっていたか……
すまない、忘れてくれ」
「大丈夫ですよ、多分みんなには聞こえてませんから。
僕も誰にも言うつもりありませんし」
慌てる薫に、彼は優しくそう言った。
まるで聖母のごとく穢れのない彼の言葉は、不思議と真実以外には聞こえなかった。
故に、彼女は彼を信用して先程からずっと胸にあった疑念を口にする。
「お母様が間違いを犯すなんて……そんな事はあり得ない……」
「誰だって、人で――いえ、生物である以上間違いは誰にだってあります」
「しかし、少なくとも私なんかよりは遥かにお母様はた正しい筈だ。
なのに……」
「貴女がそういうのならそうなのかもしれません。
でも、残念ながら他人の事を完璧に理解出来る人なんていないんです。
恋人だろうと、家族だろうと。
それこそニュータイプにでもならないと、私達人類は永久に分かり合うなんて出来ないんですよ」
「そう、なのか……」
突然現れたら聞き慣れないワードに、薫は困惑気味に応える。
「だから、結局は自分の事は自分が一番よく分かっているし、自分以外にはその断片程度しか理解できません」
「しかし……私はなにも分からない……
だからこそこうやって君達に相談しているのだ」
また普通の会話に戻った事に内心安堵しつつ、彼女は見えない自分の心に対する不安を吐露する。
「胸に手を当てて、ゆっくりと考えてみてください。
答えは必ずどこかにある筈です」
「ううむ、そうゆうものか……」
いまいち納得のいっていない様子の薫に、正太郎は更に言葉を付け足す。
「それでも分からなかったら、取り敢えず自分のしたいことをしてみてはどうですか?
それだったら案外早く見つかると思いますよ」
顎に指を当て、うむむと考える様な間を取ってから、彼はにっこりと笑ってそう言った。
それは自由で、幸福で、ジレンマなど一切ない様な爽やかな笑顔だった。
自分は今、そんな風に笑えるだろうか。
いや、今まで何回あんな風に笑えていただろうか。
彼の笑顔は、彼女にそんな疑問を浮かび上がらせた。
「し・ら・い・く~ん。
さっきからなにを話してるんですかぁ~」
「ひやぁっ!?」
突然杏佳の艶かしい声が聞こえたかと思えば、正太郎がまるで女の子のような短い悲鳴を上げた。
彼女は正太郎の脇腹にあてがった手を官能的に動かしながら、まるで吐息を吐きかけるように言葉を首筋から耳へと這わせる。
「私、さっきから蚊帳の外で寂しかったんですよ?」
「ちょっ、やっ、止めてください……」
彼の制止の言葉には熱が籠り、その表情は苦悶に歪みなからも徐々に蕩けていく。
「成る程、これがやりたいことをやるということか……」
そんな様子を、まじまじと真剣な眼差しで見つめていた薫が呟く。
「ちっ、違いますよ……っ!?」
快楽の坩堝に呑み込まれそうになりながらも驚きの声を上げるという、訳の分からない状態の正太郎がツッコミを入れる。
「そうですよ。
こんなの普通にやったら犯罪です」
それに続いて杏佳が言うと、漸くその手を彼の脇腹から放す。
「じゃあなんでこんなことするんですか!?
僕だって怒りますからね!?」
「私は信じてるんですよ。
白井君の事を」
正太郎が真っ赤な顔と涙を貯めた目で睨むと、彼女は彼に優しく微笑みながらそう言った。
「へ……?」
予想外の反応に彼はキョトンと目を丸くさせる。
「白井君ならたとえ大喧嘩したとしても、最終的にはまた仲直り出来るって。
だからこうゆういたずらが出来るんですよ」
「会長……
ってそれだったらやらないでくださいよ!
ぼっ、僕だって会長と喧嘩なんてしたくないですし……」
少しばかり感動したような表情を見せていた正太郎であったが、直ぐにハッとした様子で不満げに反論する。
「ぬっふふふ、そうゆう可愛い反応するから、またいたずらしたくなるんですよ」
下卑た笑みを浮かべながら、指先をまるで別の生き物のように動かす杏佳。
「かっ、可愛くなんてないです!
っていうか本当に怒りますよ!?」
そんな彼女に、正太郎は本気の怒りを滲ませた視線を向ける。
「分かってます、分かってますからそんな怒らないでくださいよ。
冗談ですから。
私だって退き時ぐらい弁えてますよ、もうしませんってば」
それに対し、少し焦った様な笑みを浮かべながら、杏佳はヒラヒラと両方の掌を向ける。
「それで、本当になんの話をしてたんですか?
まぁ今の相談や私に関係の無いことだったら、全然どうでもいいんですけど」
「本当ですか?」と不信げに呟く正太郎に、乾いた笑みを返すと彼女は薫に問い掛けた。
「……?
私の顔になにかついてますか?」
が、彼女があまりにも不思議そうな顔をこちらに向けていたため、思わず違う質問を続けて問い掛ける。
「いや、とくにそういった類いのものはついていない。
ただ一つ、疑問に思ってな……」
「今更なんですか、まどろっこしいですね。
質問があるなさくっと言っちゃってください」
考え込むように視線を落とし、顎に指を当てる彼女を見て、杏佳が肩をすくめる。
「なぜ、城井君は白井君の事を信じられるのだ?
結果なんて分からないじゃないか。
もしそれで本当に大喧嘩して、それでもとの関係に戻れなかったら……なんて考えないのか?
そう、思ったことはないのか……?」
「全然思いませんね」
重々しく尋ねる薫に対し、杏佳はさも当然の事を語るように答える。
「なぜ、なぜなんだ!?
それは彼がどうでもいいからなのか!?
それとも、私が想像し得ないような裏があるのか!?」
そんな彼女に、薫はガバッと顔を上げて更に尋ねる。
その言葉は強く、叩きつけるような怒りが潜んでいた。
それはまるで自分の不安を、恐怖を、過去を押し付けるかのようでもあった。
「いえいえ、その真逆ですよ」
それでも杏佳は笑顔を浮かべながら答えた。
「彼のことが大好きだから。
大切だから。
離れたくないんです」
「へっ、かっ、会長!?」
誰も予測していなかった言葉に、魔術研究会の部員達が僅かにざわめく。
「だからもし彼が絶交すると言うなら、私は全力でそれを阻止します。
それこそ人の尊厳なんて捨て去ってでも許しを乞います。
私にはその覚悟があります。」
「会長は僕をなんだと思ってるんですか!?
っていうか毎回そんな壮大な覚悟を背負っていたずらしてるんですか!?」
先程まで顔を真っ赤にさせていた正太郎が驚きと呆れを織り混ぜたようなツッコミを入れる。
「勿論です!」
そんな彼にグッと親指を立ててみせる杏佳。
「なにいい顔でサムズアップしてるんですか!?
そんな覚悟要らないですし、そんな事考えるくらいならやらないでくださいよ……!」
正太郎は呆れた様子で、嘆息と共に言葉を吐く。
「いえいえ、白井君の美貌はそれほどの価値があります。
国宝級です、傾国です」
「……ほんと怒りますよ……?」
「ごっ、ごめんなさい……」
まるで獲物を射殺すような眼力に、顔を青くさせながら謝罪の言葉を口にする杏佳。
そんなちょっとした光景が、薫には不思議でしょうがなかった。
「なぜ城井君は、白井君が怒るのを分かっていてそう言った事がいえるのだ……?
いくら君が物凄い覚悟を背負っていたとしても、それではいつかきっと――」
「それはきっと私の甘えですかね……?」
「私のように」と言おうとして、結局言い淀んでしまった薫に変わって杏佳が台詞を廻す。
薫が顔を向けると、彼女は申し訳なさと恥ずかしさを混ぜこぜにしたような表情を浮かべていた。
「最初にも言いましたけど、結局は理屈抜きに白井君の事を信じてるんですよ。
ほら、彼優しいですから。
超いい子ですから。
だから、なにしても許してくれるんじゃないかって、勝手な妄想を押し付けてるんです。
まぁ、最低ですよね。
でも彼はそんな私の期待に応えてくれるんです。
だからつい、無条件に彼の事を信じちゃうんですよ。
白井君なら私のバカなおふざけ程度だったら許してくれるって」
僅かに反省の色を見せた彼女に、薫は困惑の表情を見せる。
「ちょっ、ちょっと待ってくれ。
それじゃぁ結局何も解決していないじゃないか。
そもそも最低なことをしてみたり、怒らせたり、君は一体何がしたいんだ……?」
「だって、信じるしかないじゃないですか。
私はエスパーや能力者じゃないんで、人の心なんて分かりません。
だからその人がどう思ってるかなんて、自分に対するリアクションを見るまで分かりません。
だったら、後はとことん自分の信じるその人の事を信じるだけじゃないですか」
「でも、それでだめだったら……もし失敗したらどうするのだ?」
「その時は素直に謝ればいいんです。
世の中なんでもトライアンドラーですよ。
誰でも失敗を繰り返しながら軌道修正をしていくんです。
故に、失敗なくして成功はないとも言えます」
「会長は全然軌道修正してくれませんけどね……」
ぼそりと呟く正太郎の言葉に苦笑いを浮かべながら、杏佳は更に言葉を続ける。
「それに、私は面倒くさがりなんです。
だから嫌なんですよ。
裏の顔とか、本音とか、そうゆうしち面倒くさい事。
探るのもかったるいですし、向こうがわざわざ隠してるものを掘り返すのも野暮ってもんでしょう?
だから私は一々自分を偽らないで行動するんです。
大切な人に余計な心配をしてほしくないから、余計な事を考えてほしくないから。
そんな事しなくても、私を見れば直ぐに分かってくれるように。
それに、やっぱりありのままの自分を好きになってほしいですからね」
「信じる事……ありのままの自分……か……」
薫は難しそうな表情を浮かべ、考え込むように口元に手を当てる。
彼女も人の事を信じていない訳ではないし、ありのままの自分を隠していたい訳ではない。
――少なくともあの当時は。
だが、やはり不安なのだ。
自分がどう思われているのか、今見ている相手は本当に自分の思っているような人間なのか。
そんな疑問が頭の片隅にこびりついて離れないのだ。
たとえそれがどんな人であっても、真意は違うのではないかと疑ってしまう。
見えないからこそ、分からないからこそ、深淵に沈むような不安は再現なく増殖してしまうのだ。
恐らく杏佳はそれを面倒臭いと言っていたのだろう。
彼女のようになれればどれ程楽だろうか。
しかし、薫はどうやってもその思考には至らなかった。
「なんかスッゴい横道にそれた気がしますけど、見つかりましたか?
自分のやるべきこととやらは」
「会長、かなり適当ですね……」
「いや、さっきまで変なテンションになってたせいで急に疲れか……
白井君が私を狂わせるからいけないんです」
「どう考えてもまだ変なテンションですよね!?」
そんな二人の会話を聞きながら、薫は今一度頭の中を整理する。
私のしたいこと、やりたいことと……
当然お母様に贖罪し、認めて貰うことだ。
なんだ、今までもそうやって生きてきたじゃないか。
やりたいように、したいように生きてきたじゃないか……
でも、私はまた失敗してしまった。
そうか、だからか……
やはり私は自分で事を決めてはいけないのだ。
私が、私の意思で動くから……だから失敗するのだ。
なにを意固地になっていたのだろうか。
彼等も言っていたじゃないか。
“他人の心は決して分からない”と……
「ありがとう。
漸く自分の事が良くわかった気がするよ」
「……?
あっ、ああ、そうですか……」
突然悟りを開いたかのように立ち上がる薫に、杏佳はボケッとした様子で応える。
「うむ、本当にありがとう。
私はなんて愚かだったんだ……
いや、迷惑を掛けたな、失礼するよ」
「はっ、はぁ……」
そう言って部室のドアへと向かう彼女を、杏佳は間抜けた声を溢しながら見送る。
「なっ、なんだったんですか……?」
バタリと閉められたドアを見つめながら、杏佳が困惑の表情をみせる。
「な~んか自殺を決意した人みたいな顔してたけど、大丈夫かな?
あの子」
「せっ、先輩、変な喩えしないでほしいっす!
っていうか見たことあるんすか!?」
花音の呟きに茜が戦慄きながら応える。
「ん~?
見たことないよ?
でもドラマとかだと見れるじゃん、そうゆう演技」
「ああ、確かに見たことあるっす」
花音の言葉に納得したような声を返す茜。
「会長、どうしますか?
なんだかスタート地点よりも後退しちゃった感が否めないんですが……」
そのやり取りを尻目で見ると、正太郎が困惑の表情を杏佳に向ける。
「……はぁ、普段の行いのつけでも廻ってきたんですかねぇ。
でもまぁ片足突っ込んじまったもんはしょうがないです。
最後までやりとげますよ」
杏佳はやれやれと溜め息をつくも、頼もしい視線部室のドアへと注ぐ。
「それって……」
「ええ」
言い淀む正太郎の言葉を拾って、彼女は口を開く。
「ニコ研に報告してきます」
その言葉を聞いた瞬間、正太郎の重心ががくりと崩れる。
「いや、あれ?
さっき最後までなんとかっていってませんでした?」
「ええ、しっかりとやりとげます。
ニコ研の人が相談に来て、なんか拗れて帰ったっぽい。
そう伝えて、私達魔術研究会の仕事は終わりです」
呆れと驚きを混ぜ合わせたような表情の正太郎に、杏佳が無駄に意思の籠った声音で応える。
「まぁ、そうかも知れないですけど……
いいんですか?」
「何がです?」
意味深げに尋ねる彼に、杏佳はキョトンとした顔を見せる。
「今言った通りに伝えたら冬野さん――会長のいうところのライオンさんが、滅茶苦茶怒りそうなんですけど……」
「あっ、あー……」
今まで彼女の存在を忘れていたのか、正太郎につられるように杏佳の顔から血の気が引いていく。
「じゃぁ……別に言わなくてもいいですかね……?」
「会長……」
検討違いな使命感ですら、簡単に投げ出してしまう我らが魔術研究会会長に、正太郎がじとっとした視線を向ける。