ー天猫院宅前ー
「あ~やっぱり馴れない車は疲れるぅぅぅ……」
黒光りする天井の高い高級車から一人の女性が降り立ち、ぐぐっと天に向かって腕と体を伸ばす。
「ごめんね~普段は軽に乗ってるからさ、緊張しちゃって」
そう言って彼女が振り返ると、恐る恐るといった様子で助手席と後部座席からニコ研の面々が顔を出す。
「え゛っ、私の運転そんな荒かった……?」
彼女――天猫院恵は僅かに顔を青くさせ、驚いた様子で尋ねる 。
「いや……失礼ですけど、こんなCMでしか見れないような高級車に乗せられたら誰だって疲れると思いますよ……?
全然落ち着きませんでした……」
明彦がぐったりとした様子で応える。
「ざっ、座席がふかふか過ぎてそのまま呑み込まれるかと思った……」
奏が半分ぐらい魂の抜けたような声で呟く。
「あっあああっ、ぅっ、うう……」
美華はなにやら興奮した様子でなにかを伝えようとするも、言葉になる前に音が消えてしまう。
「先輩、落ち着いてください。
全然喋れてないです」
「……帰っていいか?」
「流石に怒りますよ?」
ツッコミを入れる明彦の声に紛れてぼそりと誠がぼやくと、彼は怒りと湿り気を帯びた視線を向ける。
「分かってるよ……
でも流石に休憩を挟みたいな……
このままだとモチベーションが……」
「やだなぁ、みんな大袈裟だよ。
この車そんな高くないし、結構みんな乗ってるよ?」
疲労感たっぷりに休息の申し出をする誠に、恵は笑いがら手を何度か前後に振っていう。
(ほんとかよ……)
明彦が疑念の眼差しを彼女に向けていると、不意に肩を軽くつつかれる。
なんだと思って振り返ると、酷くくたびれた様子の雪菜が居た。
髪は普段以上にボサボサで、普段でもあまり良くない目付きは、今はもう何人か人を殺していそうなものになっている。
そんな様子の雪菜に思わず声を失っていると、彼女はおもむろにスマートフォンの画面をこちらに見せてきた。
何かと思って画面を覗くと、どうやら自動車メーカーのサイトらしい。
その中に一つ、見覚えのある――っていうか自分達がたった今まで乗っていた車種が掲載されていた。
そこには簡単な説明や値段などの情報が載っていたのだが――
「えっ……?」
それを見た明彦は思わず間抜けた声を漏らしてしまう。
そのお値段、なんと約八百万円。
車の相場なんて彼には分からないが、それでも安いとは言い難い事ぐらいは分かった。
「ちょっ、会長のお姉さん……?
八百万って……」
「うん、“高級車の中だと”そんな高くないでしょ?
お父さんも安いと思ってつい買っちゃったんだって~」
明彦が尋ねる様に言うと、恵はニコニコしながら答えた。
(ああ、なんだ、そうゆうことか)
と一瞬納得仕掛けたが、結局高級車持っていることには変わりないし、そもそも周りの人も乗ってるってことは、そうゆう人達と交流が深いということだ。
「ここじゃあなんだし、中で休憩しましょうか。
ゆっくり案内するから、みんな付いてきてね」
やっぱりこの人は住む世界が違うんだなぁと明彦がしみじみと感じていると、恵が先導するように歩き出す。
そう、今日天猫院宅にニコ研のメンバーが終結したのは、何も恵の高級車を自慢される為ではない。
つい先日薫からの連絡を受け、不完全燃焼な気持ちを引き摺って帰路を歩いていると、誠の携帯に恵からの連絡が入ったのだ。
内容は彼女の母である楓との面談を設定することが出来たというものだった。
それも翌日直ぐにだ。
意図していたかは分からないが、丁度その日は土曜日で全員の都合も空いている。
世界に名を響かせる大企業の社長である楓からすれば、曜日などとるに足らない単位かもしれないが、学生である誠達にとっては願ってもない好条件であった。
無論その場で即決、快諾して今日現在に至っている訳である。
「ただいま」
「お帰りなさい」
玄関で待ち構えていた美麗は恵の言葉に応えると、彼女の後ろを除き混むように首を斜め上に伸ばす。
「そちらが……」
「そう、薫ちゃんの言ってたニコ研の部員さん達だよ」
恵が彼女からでも顔が見えるように体を移動させると、美麗は得心した様子で頷く。
「やっぱり。
じゃあ楓――じゃなくてお母様を呼んでくるわね」
「あっ、ちょっと待って」
そう言って玄関から続く廊下の奥の方へと向かおうとする美麗を恵が引き留める。
「先にこの子達を客室に連れていってくれるかな?
なんか馴れない車で疲れちゃったみたいで」
恵はニコ研の面子を一瞥すると、困ったような笑顔を見せる。
「母さんの所には私が行っとくから。
その子達に休んでもらっといて」
「そう、分かったわ。
後は私に任せて」
踵を返して美麗が言うと、恵は頷きでそれに応えてから廊下の奥へと歩いていく。
「それじゃあこちらに」
それをある程度まで見届けると、今度は美麗が彼女の変わりに彼等を先導していく。
「ここです」
そう言って美麗は自らが案内した部屋のドアを開ける。
部屋の中央には大きめの四角いテーブルが置いてあり、それを囲むように六、七人は優に座れそうな長いソファーが四つ置いてある。
の窓からは日光が射し込み、その前に高そうな椅子と木製のデスクもある。
部屋の端には観葉植物が設置され、壁には誰が描いたのかも分からない絵画が飾られている。
(なんだろう……一瞬ヤクザの事務所かと思った……)
そんな感想を心中に秘める明彦を他所に、美麗は説明を続ける。
「そこにあるソファーは自由に座ってくれて構いませんが、なるべく一つにまとまってください。
そちらの方がお話もしやすいでしょうしね」
彼女はそう言って中央にある四つのソファーを手で指し示す。
「あっ、はい。
分かりました」
たまたま美麗の近くにいた奏が、そう応えてから先頭をきって部屋に足を踏み入れる。
「それでは、私はお茶の用意をしますので、ごゆるりとおくつろぎください」
奏に続いて部員全員が部屋に入ると、彼女はそう言って廊下に出てドアを閉じた。
「すごくね?
あれ絶対メイドさんだよな!?」
部屋のドアが閉められ、幾ばくかの時間が過ぎたところで奏が興奮気味に、誰となく尋ねる。
「お前復活早いな……」
急に元気一杯になった彼女を見て、明彦が呆れ半分に呟く。
「気持ちも分からなくはないが、取り敢えず落ち着け。
向こうも暇じゃないだろうから、質問の最終確認するぞ。
全員そこのソファーに座ってくれて」
誠は身に付けていたボディーバッグからメモ帳とペンを取り出し、入り口から見て左側のソファーをペンで指し示す。
全員が各々の返事を返し、彼の指示に従って指定された席へと向かう。
が、全員が座ったところで問題が発生した。
「――んっ、ん?」
奏が何度も座り直してみたが、やはり勘違いではないようだ。
このソファー、かなりいいものなのかとてつもなく座り心地がいい。
それこそ魔術研究会の部室にあったおんぼろとは比較にもならないほどだ。
しかし、彼らは普段パイプ椅子を使用しており、何よりたった今まで高級酔いをしていた体にこれは堪えた。
「……なんか、落ち着かないな」
彼女の呟きに、全員が無言をもって同意を示すのであった。
「母さん、何回も言うけどもう逃げるのは無しだからね」
時を同じくして、リビングでは恵と楓が面と向かって対話をしていた。
「ええ、大丈夫。
分かってるわ。
薫がいないのなら大丈夫、ちゃんと思ったことを正直に――」
「それじゃダメじゃないの……」
彼女の言葉を最後まで聞くことなく、恵は頭を抱える。
「しかしまぁ、薫の友達にまで迷惑をかけることになるとはね……」
楓の隣に座る巧が物憂げに呟く。
「ほんとよ。
情けないとは思わないの?
家族の問題なのに、誰かの仲介がないと解決出来ないだなんて……
本当に頭がいたいわ」
「私には、耳が痛いわね……」
彼女の言葉に、楓は申し訳なさそうに目を伏せる。
「まぁまぁ、楓もこのままでいいとは思ってないわけだし、ね?
実際誰かの手を借りてでも、事を進めたいと思ったから今日も時間をとった訳だし」
責めるような口調の恵を宥めるように巧が言う。
「むぅ……まぁ、そうなんだけどさ……」
恵はそう言うとじとっと湿った視線を母に向ける。
「本当にもう逃げない?」
「ええ、もう腹は括ったわ。
三度も聞かなくても大丈夫よ」
そう答える楓に、彼女はより一層湿り気を帯びた疑いの眼差しを向ける。
「いくら自分に非があるとはいえ、実の娘にここまで信用されないというのもなかなか堪えるわね……
本当に嘆かわしいわ……」
「はいはい、そう思うんだったら今度こそ私の期待を裏切らないでよね」
「恵……」
辟易した様子で無造作に応える娘の姿に、楓は目尻に涙を浮かべる。
すると巧が少し斜めに座り直し、楓に向かってばっと両手を広げる。
「巧さん……」
そんな夫の胸に顔を埋める楓。
お~よしよしと頭を撫でる巧とそれに甘んずる彼女の姿に、苛立ちと呆れが入り交じったような表情を見せる恵。
美麗が入ってきたのは、丁度その頃だった。
「恵さん、皆さんにお茶を出し終えたわ。
そろそろいいんじゃない?」
「そう、分かったわ。
ありがとう藤田さん。
さぁ、母さん達も行くわよ」
恵はそう応えると、スッと立ち上がって両親に続くように促す。
「じゃぁ、行こうか」
「ええ」
頭を撫でながら優しく言う巧に、楓は彼に抱き付いたまま、凛とした声で応えるのであった。
ガチャリと音を立ててゆっくりとドアが開く。
まず恵が入り、続いて巧と楓が入室すると、今まで座っていニコ研の部員達が、背筋を伸ばして立ち上がる。
恵はドアに一番近いソファーに座り、それから少し遅れて、巧と楓がニコ研の部員達と対面するように反対側のソファーに座る。
「本日はわざわざ時間をいただき有難うございます」
誠がそう言ってお辞儀をすると、彼らは疎らに挨拶をしながらそれに倣う。
「いえいえ、こちらそこ下らない家族問題に巻き込んでしまって、なんとお詫びをすればいいものか……」
「ほんとよ、まったく……
あっ、気にせず座っていいよ」
恵は恨めしげな視線を母に送ると、誠達の方に顔を向けて朗らかに笑う。
恵の態度のギャップに戸惑いながらも、彼らはお互いに顔を見合せてから席に座る。
「本当にごめんなさいね。
ええと、私と薫の関係を戻すために色々としてくれているのよね?」
楓はもう一度謝罪をしてから小首を捻る。
「はい、恵さんからはそう依頼されました。
……といってもまだなにもできてないんですけどね」
誠が応えてから申し訳なさそうに続ける。
「いいえ、気にしないで。
恥ずかしい話、私は三年近くなにもできずにいる状態だから。
協力してくれるだけありがたいわ。
……じゃあそうね、何から話そうかしら」
楓はにっこりと微笑むと、思い当たるところが多すぎるのか、眉間を指で押さえながら記憶を探る。
「会長――薫先輩がどうして今みたいな性格になったのかを、教えてください」
予期しない雪菜の発言に部員達が驚いたような視線を彼女に注ぐが、事前に確認していた質問の内容と、その優先順位が一致していたので特におとがめはなかった。
そもそも彼らが用意した質問の半分以上が雪菜の提案したものであり、この質問も彼女が項目として挙げたものであった。
「ああ、そう。
そうね、まずそこ話さないといけないわ。
恵も、今回はちゃんとはぐらかさずに言うから、聞いていてね」
そう言うと、不貞腐れた子供のような表情だった恵の顔が一変して大人っぽい凛としたものになった。
楓はそれを見て頷くと、ゆっくりと口を開いた。
天猫院家が代々守り続けているアマネコグループは、百年近く続く老舗である。
時代に合わせたニーズや柔軟な発想で数々の企業と差を付け、様々な事業に手を伸ばしながら成長していった結果、今のような世界に名を轟かせる大企業となったのだ。
そんなアマネコグループを仕切る天猫院家には、普通とは少し違う伝統が一つだけあった。
それは、代々長女が家を継ぐという習わしである。
これは起業者である天猫院 幸(てんびょういん さち)が女性であったから、時代の流れに囚われない発想を生み出すためなど諸説あるが、今となってはその伝統だけが守られ、現代に息づいていた。
そんな中、天猫院楓はアマネコグループの正当な後継者にはなれなかった。
彼女には姉がいたのだ。
名前は天猫院 凪(てんびょういん なぎ)。
彼女もまた楓のように聡明で美しい女性であった。
しかし、彼女には一つの欠点があった。
それは体が非常に弱かったのだ。
その程度というのも、食生活が少しでも乱れると体調を崩し、季節の変わり目には100%と言っていいほどに風邪をひくという酷さであった。
そのくせ病院嫌いだったものだから、よく周りの人間を困らせてた。
彼女曰く、「学校を休んでいる間に他の人に置いていれたくない。病院なんていってる時間があるなら勉強する」とのことだ。
風邪をひいただけでも時たま入院していた彼女にとって、学校という場はとても重要な場所だったのであろう。
その結果親ではなく家庭教師が病院に付き添うという、あまりに謎過ぎる画が生まれたこともあったらしいが、今は関係のない話である。
そんなストイックな彼女の努力の賜物か、学校の成績は常に首席をキープし、果ては天猫院きっての秀才とまで言われるようになっていた。
彼女は名門大学を卒業後、誰もが納得する形でアマネコグループCEOに着任。
病欠がちではあったものの、それを上回るハイスペックな仕事ぶりで会社は例年以上の発展をみせた。
そんな中、楓はというと、姉である凪と同じく大学を出てアマネコグループに就職していた。
しかし、そのグレードは雲泥の差があった。
彼女は姉とは違い、そこそこ名のある大学を出て、一般社員として就職していた。
無論コネだとか裏口だとか、そういった小汚ない方法は使っていない。
だが、一般平均よりは優秀である楓は、特に努力をというものをすることなく毎日の通勤を繰り返していた。
そんな普通な人生を謳歌しながら、彼女は巧と出会い、二十六歳で結婚。
その二年後に恵を出産。
更にその五年後に薫を出産した。
育児や仕事に追われ、楓は慌ただしい日々をおくっていたが、薫が六歳になり、小学生になったことにより落ち着きを取り戻す。
二人の娘が家族に加わり、働く事に対する情熱が増し、これから頑張るぞと意気込んだ所で彼女に不幸が訪れる。
姉の凪が病死したのだ。
彼女は仕事人間であり、子供も夫も居なかった。
その結果、こともあろうか楓が会社を継ぐことになったのだ。
当然楓はそれを断った。
自分が力不足であることも知っていたし、お金も今の分で十分だった。
そして何より、自分がアマネコグループを継ぐということは、必然的に子供達にもその重荷を背負わせる事になる。
今まで普通の人生を歩んでいた彼女達にとって、それは耐え難い苦痛になるはずだ。
それにそれは楓や夫である巧にも言えることだった。
この案を受け入れた所で誰も幸せにはならない。
楓はそう思っていたのだが、彼女の母はそうではなかった。
今まで脈々と受け継がれてきた伝統が自分の代で途切れることを嫌い、恐れていた彼女は、楓に会社を継ぐことを強要した。
それでも渋る楓に対し、業を煮やした彼女の母は、ある案を思い付いた。
「貴女が継がないのなら、貴女の娘に継がせる。
今から教育を始めれば私が死ぬまでには立派な先導者として成長している筈だわ」
彼女は楓にそう告げたのだ。
彼女の中では最善の策だったのかもしれない。
しかし、楓にとっては子供を人質にとられたのも同然であった。
彼女はその案を頑として曲げず、泣く泣く楓は会社を継ぐ事になった。
しかし、当然直ぐに社長業務など出来るわけがなく、楓には三年間という時間と社長業務や心構えなどを学ぶ為の資料が与えられた。
それも、「その期間中に習得できなかったら貴女の娘を教育する」という脅し文句を添えて。
楓は必死に勉強した。
初めての努力を始めて二年。
「お母さんは社長になるために勉強してるの?」
突然恵がそんな事を訪ねてきた。
「ええ、そうよ?
それがどうしたの?」
「私もやる」
「え……?」
彼女の突然な申し出に、楓の頭は真っ白になる。
そんな彼女に対し、恵は更に続ける。
「さっきね、お婆ちゃんが言ってたの。
お母さん、社長になるために頑張ってるって、私も大きくなったらやるって。
それでね、私がやだって言ったら、そうなったら薫ちゃんが代わりにやることになるって……」
恵はそこで俯いていた顔を持ち上げる。
「お母さん、いっつも辛そう。
私、薫ちゃんにはそんな事させたくない。
それに、私が頑張ればお母さんも少しは楽になるでしょ?」
この時楓が母に抱いた感情は、恐らく今現在恵が抱いている気持ちと同じものだっただろう。
楓は、自らの母に煮えたぎるような恨みを抱いた。
「伝統なんて下らない」とまでは言わないが、それでも自分の娘には自由に生きて欲しかった。
彼女達が嫌だと言えば自分の代で伝統を終わらせる覚悟もあったし、そもそもそんな話をするつもりもなかった。
だが、それは意図せずに伝えられてしまった。
(できれば普通の人生を送って欲しかったけど……
まぁ、これも一つの道かしら……
それに、万が一に私のような事になっても苦しまないように、少しずつならマイナスにはならないわよね)
楓は不承不承ではあるものの、それを前向きに受け入れ、この考えに至った。
それに母が恵にその話をしたということは、今後もこちらに干渉してくる可能性がある。
下手に否定して圧力をかけられるよりは、少しずつ自分と同じ事を学び、視野を広げることの方が万倍良いだろう。
そんな思惑や考えもあり、恵は楓と共に勉学に励むこととなった。
しかし、その一方で薫はなにも知らずに日々を暮らしていた。
祖母からはなにも語られず。
自分の母や姉がどうゆう境遇に居るのかも知らず。
彼女だけが、普段となにも変わらない日常を送っていた。
当時の彼女は活発で、兎に角遊ぶことが大好きな元気な女の子であった。
いつもは姉や母、父を連れ回しては自分の考えた遊びをさせていたのだが、最近は断られることが多くなっていた。
前だったら少し駄々をこねれば強引に説得出来ていた筈なのだが、それすらも通用しなくなっていた。
父親は毎日遅くに帰宅し、母はいつも自分の部屋に籠ってなにかをしている。
彼女も前は父親のように会社にいっていたのだが、最近はずっとそうだ。
姉の恵も、学校から帰ってくると母の部屋に籠ってしまう。
そのくせ、自分が入ろうとすると止められてしまう。
誰も居ない時にこっそり入ろうともしたが、生憎母の部屋には鍵がかかっていた。
結果、薫は一人遊びを強いられることとなった。
そこで彼女は近所の林へと繰り出す事にした。
都内では珍しく、人の手の殆んど入っていない小さな林だ。
前から行きたがってはいたのだが、母親に止められていたのだ。
遊んでくれない母や姉に対する反抗心からか、彼女は念願かなって林の中に足を踏み入れた。
林の中に入って数秒。
薫の心は歓喜の声で渦巻いていた。
湿った土の香り、青臭い草の臭い、うっすらと地面を照らす木漏れ日。
それら全てが新鮮で、見るもの全てが新発見だった。
まるで自分が普段の世界とは乖離した別世界に来たような感覚に陥っていた。
彼女は好奇心の赴くままに探索を続け、あっという間に木々の迷宮へと呑み込まれてしまっていた。
日が暮れかけ、異変に気付いた美麗が林で薫を発見。
一時間とかからない捜索だったという。
大人の足ではその程度の小さな林であったが、この場所は薫にとってはあまりに大きすぎる宝箱であった。
美麗が発見した時の彼女は、自分が迷子になった事にも気付かず、両手一杯に花や木の実を持って笑っていたのだそうだ。
彼女が美麗と一緒に帰宅すると、楓は勝手に居なくなったことや言い付けを守らなかった事に対し薫を叱った。
しかし彼女が目を輝かせながら語る冒険譚に、楓はやがて怒ることも忘れて聞き入っていた。
当時はまだ、そんな反応が出来た。
大人の彼女からすればあまりに下らない、キラキラと輝くガラクタに価値を見出だし、笑えていた。
ところが楓が社長に就任するや否や、状況は一変した。
言うは易く行うは難し。
習うより慣れろ。
そんな諺を彷彿とさせるほどに学んだマニュアルやセオリーと、実際の業務とでは差があった。
勿論、努力した三年間が全て無駄だった訳ではない。
しかし、それでもやはりそこには埋められない溝があった。
経営は緩やかに傾き、世間の目や社員、母からの押し付けるような不信感。
窒息してしまいそうになるほどの重圧、圧迫が楓を休むことなく襲った。
母は早くも頭角を表し始める恵に目を付け、それを押さえ込むために更なる努力を強要させられる。
どんなに辛く、苦しくても休むことも止めることも許されない。
平和で楽しかった日常との乖離、「こんなことやりたくなかった」と叫び続ける弱い自分の心。
そんな現実が彼女の精神は容赦なく磨耗させ、いつしか彼女の瞳や表情からは輝きが失われてしまった。
そんな母を少しでも手助けしようと、恵は一層勉学に励んだ。
そんな妻を少しでも支えようと、巧は必死に彼女のサポートをした。
そんな母を救おうと、薫は――
薫は、なにもできなかった。
日に日に疲れ、窶れていく母にしてやれることなんて、彼女には一つもなかった。
薫はそれが耐えられなかった。
どうにかして母を労おうと考えた時、頭に浮かんだのはあの日の笑顔であった。
薫は直ぐにあの日以来入ることを禁じられていた林へと向かった。
また林に行けば、宝物をかき集めてくれば、きっと笑ってくれる。
彼女は前みたいに笑顔を取り戻してくれる。
そう思ったのだ。
数年ぶりに入った林は、あの日と変わらない神秘的な雰囲気を保っていた。
これならまた母の笑顔を見ることができる。
当時十歳になろうとしていた薫は意気揚々と探索を開始した。
無論、前回のような失態をおかさぬよう脱出経路は確保しつつ、より美しいもの、珍しいものを自分なりに厳選して宝物を収集した。
が、
「あなたは楽しそうでいいわね。
羨ましいわ」
それを見た楓は、あの時とは違う笑顔でそう言った。
薫が出来たことは、彼女の笑顔の影を濃くすることだけだった。
それでも薫にはこれ以外の方法が分からなかった。
もっと凄いものを、珍しいものを。
もっともっと喜んでもらえるものを。
薫は度々林に入っては、母を笑顔に出来るなにかを血眼になって探した。
しかし、いくら厳選に厳選を重ねても、見たこともないようななにかを見つけても、楓は喜んではくれなかった。
笑ってはくれなかった。
「最近よくあの林に出入りしているみたいだけど、前にもう入っちゃいけないって言ったわよね?
なにも言われないからって許されたと思ったの?」
そんなある日、楓は薫を見つけてそう言った。
「えっ、えと……いけないとは思ってたけど……
でも、お母さんにまた喜んで欲しくて……!」
素直にその気持ちは嬉しかったが、それ以上に幼い薫がだれの目の届かないところへ行っているという不安があった。
その気持ちを直接言えば良かった。
だが、彼女の気持ちは大きく湾曲した形で薫にぶつけられる。
「なに、言い訳?
あなたは約束を守れないどころか、あまつさえそれを私のせいにするつもりなの?
あんなゴミを見せられて私が一度でも喜んだかしら?」
日頃のストレス。
あらゆるのもにがんじがらめにされている自分との対比。
うっすらと見える自由だったあの頃の自分の面影。
こんな状況にあっても穢れを知らない純粋無垢な姿。
それら全てが楓を苛立たせた。
嫉妬、憧れ、自由への渇望、そんな負の感情によって研ぎ澄まされた言葉は、いとも容易く薫の心を切り裂いた。
自分には何も出来ない、何もない。
必死になにかをしようとしても、結果はゴミを集めただけ。
あの時の笑顔もきっと偽物だったのだ。
ガッカリさせないために気を使っていたのだ。
そんな事すら気付けない自分に、偽物を掴み取ろうと努力していた自分に、薫は失望した。
「ちっ、違うの……そんなことない……!
お母さんのせいにしたわけじゃないよ!?」
だから、そこだけは確りと否定したかった。
母疲れているのに自分が変なことに付き合わせてしまった。
ただそれだけだ。
楓は何も悪くはない。
例え自分の集めた宝物を“ゴミ”と言われようとも、薫はなんとも思わなかった。
彼女は楓を喜ばすために色々なものを集めた。
その役目を果たせないのであれば、それらは彼女のいうようにゴミに他ならない。
自分が何もないのが悪い、何も知らないのが悪いのだ。
「そうでしょ?
悪いのはあなた、薫でしょ?」
「うん」
「そう、いいこね。
今度からはちゃんということをきくのよ?」
「うん、分かった。
ごめんなさい。
もう林には行かない」
それ故に、薫が楓を否定することは一切なかった。
斯くして林への探索が禁止された薫は、今度は勉学に励むことで母に貢献しようとした。
その行為に特に理由はない。
ただ単に姉が母の為に勉強を頑張っていると聞いて、それを模倣しただけだ。
薫は自分だけなにもできていないという状況に焦りを感じていたのか、あらゆるものを捨て去り、ストイックに勉学に勤しんだ。
その結果、成績は鰻登り。
だが上には上がいるのが世の常であり、薫にとってそれは姉である恵であった。
彼女は毎回自分には理解すら出来ないような問題を解いては、優秀な成績を修めていた。
小学生の薫が中学生の恵に追い付けないのは当然の話ではあるが、彼女はそれでは満足することはできなかった。
彼女は独学で小学校で履修するべき範囲を全て終えると、更なる高みを目指して中学の分野にまで手をつけ始めた。
しかし、数年も経つと恵は高校に進学。
それまでとは比べ物にならないほど難解な科目は、全力疾走で距離を縮めようとしていた薫を、あっという間に置き去りにしてしまった。
それでも薫は諦めずに恵に食い下がった。
中学分の科目も独学で修得し、高校の科目に手をつけた。
それでも恵には手が届かない。
最早本来の目的を見失いつつあった彼女は、恵に追い付くためだけに学力を貪った。
楓が薫の異変に気付いたのはその頃であった。
いや、正確には彼女の異変に気付いたのは美麗だと言うべきだろう。
楓は日々積み重なる激務に追われ、娘に気を配ることすらできなくなっていたのだから。
「薫、最近勉強を頑張ってるみたいだけど……」
ある日楓は、時間をとって薫の様子を見てみることにした。
「うん、私お姉ちゃんみたいになれるように頑張ってるの」
そう言って向けた彼女の笑顔は、昔見たものとは明らかに劣化していた。
具体的にいうと、窶れていた。
目の下にはうっすらとくまができ、心なしかげっそりとして見える。
美麗から「何かにとり憑かれたみたいに勉強をしている」と報告を受けていた楓は、それが事実であると確認すると同時に、言い知れぬ不安と恐怖に駆られた。
「えと……今は何の勉強をしているの……?」
薫の体の影からちらりと覗く“数学”という文字に困惑しながらも、楓は尋ねた。
「あのね、“びぶん”と“せきぶん”してるの」
「え……?」
楓は耳を疑った。
それもその筈である。
当時小学五年生であった薫が、姉である恵と同じ高校一年生の勉強をしているのだから。
「薫……あなたはもう十分に頑張ったわ。
だから少し休みなさい、ね?」
「だめ……まだお姉ちゃんと同じになれてない。
お母さんも、お父さんも、お姉ちゃんも、みんな頑張ってるのに私だけ休めないよ」
「薫には関係のないことよ。
私も、お父さんも、仕事で忙しいだけ。
恵だって学校の勉強がちょっと忙しいだけよ。
だから薫が頑張る必要なんてないの」
「じゃあ私ももっと頑張らないとだね!」
にっこりと満面の笑みを浮かべる薫に対し、楓は話が噛み合わず困惑の表情を浮かべていた。
「えと……どうしてそうなるの……?」
「お姉ちゃんはお母さんの為に勉強を頑張っているんでしょ?
だから私も頑張るの。
まだまだお姉ちゃんには届かないけど、それでもいつかきっと追い付いて、お母さんを楽にさせてあげるからね」
その純粋無垢な笑顔は、楓の心を酷く掻き乱した。
やることなすこと全てが裏目に出る。
楓は自分の娘達に、こんな縛られた人生から少しでも 遠い道を歩いて欲しかった。
なのにどういうわけか、彼女達は自らの足でこちら側の世界に入り込んでくる。
(何で?
どうして?
なんでこうなるのよ……!
これも私が悪いの?
これも私のせいだっていうの……!?)
何とかしてここで道を正さなくてはいけない。
娘の自由は尊重したいが、今の彼女は明らかに正常じゃない。
「大丈夫。
薫はなにもしなくていいの。
普通に、自然に、他の友達と同じように暮らしてくれればそれでいいの。
無理して勉強なんてしなくていいのよ?」
「でっ、でも……それじゃあお母さんに――」
「また私のせいにするの……?」
自分に強い劣等感を持つ薫にとって、その言葉は呪いだった。
楓の考えや思いを理解できない自分が悪い。
なにもできない自分が悪い。
結局、全ての答えがそこに帰結してしまう。
楓もそれを分かってこの言葉を使っている。
内心尋常じゃない焦りを感じていた彼女は、最早相手の気持ちなど考えず、最も効率がいいと思われる言葉を選んで発言をしているのだ。
「お願いだから、もうこんなことはしないで。
薫はいいこだから私の言うこと聞いてくれるわよね?」
黙って俯く薫に、楓は畳み掛けるように言葉を続ける。
「じゃあ……どうすればいいの……?
私はなにをすればいいの?
どうすれば、お母さんの為になにかできるの……?」
楓の言葉が終わると、薫がぼそりと呟いた。
「私だってお母さんが辛い顔してるのはやだよ!
お母さんに笑っていてほしいよ!
でも……でも私、なにもしてあげられない……!
私だけなにもしないのはやだ、私だってお母さんの為に頑張りたいの!
だから林に入ったり、お姉ちゃんみたいになろうって……!
これはだめなの?
いけないことなの?」
顔をあげた薫の顔は涙でぐしゃぐしゃになっていた。
「ええ、いけないことよ」
そんな薫に対し、楓の返答は冷酷であった。
「なんで……?
どうして……?」
「薫、あなたは小学生でしょ?
小学生は高校生の勉強をしてはいけないの。
当然中学生の勉強もね」
「そうなの……?」
「ええ。
だから、勉強は学校で習った範囲で頑張りなさい。
いいわね?」
楓の言葉を疑っているのか、憮然とした様子で黙りこむ薫。
「お願いだから私の言うことをきいて……!
お母さんを、困らせないで……!」
我ながら卑怯な言葉だと思った。
薫はこう言えば言うことをきいてくれると分かっていた。
それでもこんなことを言ったのは、娘の将来の為、そして何より健康のためであった。
「うん……分かった……
もうやらない……」
薫は不承不承といった様子で頷き、それ以降無理な勉強はしなくなった。
楓も心を痛めつつも安堵することができた。
が、それは長くはもたなかった。
薫は早くも次なる行動に移ったのだ。
彼女はあろうことか、事の発端と言っても過言でない人物である、楓の母に相談してしまったのだ。
楓の母は楓や恵にプレッシャーをかけられると考えたのか、薫の相談に嬉々として乗じ、彼女を徐々に天猫院の跡取りとして染めていった。
薫も母の力になれると信じて疑わず、次々に祖母から提示される知識を取り込んでいった。
この頃からだろうか、薫に対して楓がきつく対応し始めたのは。
楓は天猫院の跡取りとして染められていく彼女を否定した。
何度も何度もそれは違うと言い、言うことをきくように言い聞かせた。
しかし、薫はその度に新な知識を覚えてしまうのだ。
母にはなにを言っても効果はなく、虚しい鼬ごっこが暫く続いた。
そんな中、楓は会社を立て直す重要な一手として、海外出張へ行くことになった。
正直自分のコンディションや薫の様子など、いろいろと不安な事はあったが、それでもこの時期を逃せば次のチャンスがいつになるかは分からない。
そんな事情も加わり、後ろ髪を引かれる思いで楓は日本をたった。
出張期間は三日間と短かったが、薫はその間にどうにか楓のためになにか出来ないかと考えていた。
楓の母からの助言は何故か楓には不評で、なにをしても喜ばれることがなかった。
そこで彼女は、自分でどうするべきかを考える。
自分になにができるのか、なにをするべきなのか。
しかし、いくら考えてもこれだという妙案は生まれない。
そもそも薫はどうして楓の生活環境が変わったか、その原因や理由を一切知らない。
そんな予備知識で言い考えが思い浮かぶと言う方がおかしな話である。
それでも薫は考えた。
諦めず考えて、考えて、考えて――
結局ただただ時間を浪費しただけだった。
楓の母からの助言はもう殆んど出し尽くされ、今となっては彼女自信が薫を疎ましく思い、少し距離をおくようになっていた。
その為、もう新しい知識を仕入れる事は難しい。
かといって自分になにかできるわけではない。
このままでは本当になにもできないまま終わってしまう。
それがとてつもなく恐ろしかった。
まるで自分だけが家族の和から零れ落ちてしまったようなご孤独と疎外感。
当時の彼女にはそれに耐えうる術は持っていなかった。
この言い知れぬ恐怖から逃れるため。
自分も家族の一員になるため。
薫は再び林に入ることを決意した。
なにもできないなら、せめてあの時の笑顔を取り戻したい。
いくら時間が経っても、否定されても、記憶から決して消えることのないあの日の笑顔。
薫は、最近全くと言っていいほどに笑わなくなった楓に、もう一度あの時のように笑ってほしかったのだ。
薫もバカではない。
これまでと同じようなものを見つけても無駄であることはしっかりと心得ている。
今度こそ本物の宝物を見つけなければならない。
審美眼の精度を最大限まで高め、今までの経験と比較して対象を選別する。
なかなか規定値をこえるものは見つからず、林の中を歩くこと数時間。
彼女はとうとうそれを見つけた。
楓の携帯電話が着信を知らせたのは、あと数時間で取引が始まろうとしていた時間だった。
前日の会談でほぼ契約確定と言っていいほどに話しが纏まり、いよいよ今日、契約成立となる流れだ。
そんな大事な時に何事だろうと液晶を見ると、そこには藤田美麗の文字があった。
(家から……?)
嫌な予感を感じながらも楓は電話に出る。
「もしもし?
どうかしたの?
悪いけどこれから会議の準備があるからまたか――」
「――たの……!」
荒い呼吸音に混じって美麗の声が聞こえる。
運動でもしていたのか、彼女の息は上がっている。
「え?
なに?」
「薫ちゃんが木から落ちたの……!
頭から落ちたみたいで、見つけたときは頭から血を流して気絶してて……!
今、病院に連れてきたんだけど、直ぐに手術することになって!
わっ、私、どうすればいいか全然分からなくて……!
大丈夫かな、薫ちゃん、死んじゃったりしないかな……!
ああっ、私なんてあの子に謝れば……!
私がちょっと目を離したばっかりに……」
「分かった、分かったから落ち着いて、美麗」
後半は殆んど涙声になっていた美麗を宥め、楓は続ける。
「今すぐそっちに戻る。
最悪の場合間に合わないかも知れないけれど……でも、一応なにか変化があったら逐一連絡して。
あと必要なものもなにか言われたら、それもお願い。
分かった?」
「でも、あんた今大事な商談なんじゃ……」
「はぁ……美麗、貴方は私をどうしたいの?
そんな話を聞いて商談なんてしていられる筈がないでしょ?」
呆れた様子でため息をつくと、美麗ははっとした様子で声を上げる。
「あっ、ごっ、ごめん……そうだよね……
私、動揺しちゃって……」
「謝る必要なんてないわ、寧ろ感謝している程よ。
兎に角、今戻ってるから、連絡よろしくね」
「うん、分かった……」
美麗は申し訳なさそうにそう言うと、静かに通話を終えた。
「楓、準備ができたよ」
「ありがとう、早く戻りましょう」
巧が声を掛けると、楓は震える腕をグッと抑えて応える。
口頭では冷静に振る舞ってはいたが、内心はとてつもなく動揺していた。
もしかしたらこのまま薫は死んでしまうのではないかと、怖くて怖くて仕方がなかった。
(あんなに尽くしてくれた薫に、私はまだなにも返せていない。
これから、これからなのに。
仕事が安定すればきっとまた前みたいに戻れる。
流石に“普通の”とはいかないが、それでもまた幸せな家庭が作れる。
そうしたらいっぱい我が儘を聞いてあげられる、いっぱいかまってあげられる。
今まで貰ってきたものを全部返してあげられる。
今まで寂しい思いをさせたり辛い思いをさせてきたことは分かってる。
本当に酷い母親だって自覚もある。
だから、だからお願い……貴女の人生を辛いままで、私を酷い母親のままで終わらせないで……!!)
思わず零れ落ちてしまいそうな涙をグッとこらえ、楓は自家用ジェット機に乗り込む。
「……!」
離陸してから約一時間後、楓の携帯電話が唸りを上げる。
慌てて携帯電話を開いて画面を見ると、そこにはやはり美麗の名前が表示されていた。
もしかして様態が悪化したのか。
そんな不安を抱えながら、彼女は電話に出る。
「楓、連絡遅くなってごめんね。
精密検査とか先生の話を聞いてたりとかで色々あって」
「うん。
それで、薫は……?」
開口一番に放たれた美麗の言葉に違和感を抱きつつ、楓は尋ねる。
「元気だよ。
手術が終わって少ししたら目が覚めて、さっきまで精密検査してもらってたの」
「結果は……?」
「安心して、全部正常。
後遺症の恐れもないってさ。
念のため数日入院する予定」
そこまで聞いて、漸く楓はホッと胸を撫で下ろす。
だが安心したのも束の間。
先程感じた違和感がじわりじわりと彼女を蝕む。
全てが丸く収まり、不安要素は全て消去された。
それはいい。
いいのだが……些か解決が早すぎないだろうか。
楓は機内にある時計をぼぅっと見つめながらそう思った。
たった一時間。
それだけの時間で全てが解決してしまった。
当然娘が無事だったことに関してはこれ以上ないほどに幸福と安堵を感じている。
いくら神にお礼を言っても尽きないほどだ。
しかし、言い方は悪いかもしれないが、楓にとってはその程度で済む怪我だと分かっていれば商談を優先していた。
それほどに今回の仕事は大きな意味を持つ重要なものだった。
彼女の今いる場所はアメリカ上空一万メートル。
出発して一時間経っているわけだから、今更進路の変更なんて出来ない。
向こうを出てからよりも、今いる場所から日本に着く時間の方が長い。
(まるでピエロね……)
何もかもを投げ捨てて娘の為に走った結果がこれだ。
周りからはさも滑稽に見えることだろう。
不運な舞台の上で面白おかしく躍り狂う道化。
楓は自分の事をそう揶揄しながら座席に深く沈み込む。
すると今まで燻っていた徒労感や喪失感、全ての事が上手くいかない憤りが、モヤモヤと黒い煙を吐き出し始める。
それから胸が気持ち悪くなり、イライラと落ち着かなくなっていった。
どうしてこうなった。
あのままいっていれば明日にでも自分の理想は叶った筈だ。
こうなったのは誰のせいか。
止めどなく溢れる黒い感情は、やがてそれをぶつけるべき相手を探してさ迷いだす。
(私がいけないの?
いいや、そんな事はない。
あんな知らせを受けて仕事を優先する人間なんて親じゃない。
じゃあ勘違いするような報告をした美麗に罪があるの?
彼女の仕事はあくまでもハウスキーパーで、薫の監視じゃない。
それに一人でほぼ全ての家事をこなしている訳だから、当然薫から目が離れる時間もあるでしょう。
電話の口ぶりからしてもかなり動揺していた様だし、誰だって頭から血を流した状態で失神している人を見たらそうなる筈。
それが責任感の強い美麗であれば尚更のことだわ。
じゃあ、誰?
だれが……)
楓の犯人探しは、日本に着くまで延々と繰り返された。
そして――
―翌日―
楓は昼頃に誰にも言わずに家を出た。
日本に到着した時にはもう日付は変わっていて、面会時間などとっくに過ぎていたのだ。
今日、彼女は誰とも言葉を交わしていない。
社長自らが仕事をドタキャン。
しかも会社の命運のかかった大事な商談だ。
当然周りからの反応がいい筈もない。
昨日、美麗からの報告を受けてから更に数時間後、薫の携帯電話はまるでホラー映画のように着信音がひっきりなしに鳴り続けていた。
精神的に疲れ果てていた彼女にとって、この追い打ちは痛すぎる打撃であった。
すっかり塞ぎ込んでしまった楓は外界からの連絡を全て遮断し、午前中はずっと部屋の中に閉じ籠っていた。
その為、彼女が外出した事に誰にも気づく事ができなかった。
楓は窶れた顔とボサボサの髪のまま病院に辿り着くと、病人と間違えられながらも受付で薫の部屋番号を尋ねる。
それから面会の許可が下りると、まるで幽鬼のような足取りで薫の部屋へと向かった。
頭を打って失神した薫への処置か、それともただ単に美麗がそうしたのかは分からないが、薫の部屋は個室であった。
「あっ、お母様……!」
楓が病室に入ると、恐らく病院の本棚に置いてあったのであろう“宇宙力学”とタイトルされた本を閉じて、薫が視線をこちらに向ける。
「来て……下さったんですね。
いつも看護師さんが藤田さんの事をお母様と間違えるので、気づきませんでした」
薫の声音からは、不安と喜びの二つの色が混じっていた。
彼女は突然の母の見舞にそわそわと視線を泳がせていたが、壁に掛かっているカレンダーを見つけると、その動きをピタリと止めた。
「あっ……あれ……?
お母様……まだ海外でお仕事の筈じゃ……」
薫は言いながらその理由を考えると、ぱぁっと表情を明るくさせて楓の方へと視線を向ける。
「もしかして早く終わったのですか?
ああ良かった。
これでまた前みたいに戻れるのですね……!」
薫は頬を紅潮させながら本当に嬉しそうに言う。
楓は出掛ける前に「この仕事が成功すればまた前みたいに戻れる」という旨を伝えていた。
その為、早く帰ってきた=仕事が成功したと思い、彼女はこんなにも喜んでいるのだ。
この状況も、楓の今の心境も知らずに……
「ああ、そうだ。
是非お母様に見ていただきたいものがあるのです!」
薫が枕元のスペースをごそごそと漁ると、なにかを掌に納めて楓に向かって差し出した。
それは、窓から差し込む陽射しを反射させ、碧色に輝く丸い石のようなものだった。
本物の宝石かどうかは分からないが、それと見紛う程の輝きを放っている。
「これっ、これです!」
薫は目を輝かせながら興奮気味に言う。
「昨日林で見つけたのです!
鳥がこれをくわえて飛んでいるのをたまたま見つけて、追い掛けたら巣にこれを置いたので――」
「登って取ったはいいけど木から落ちた」
弾むように語る薫とは対極的に、楓は無機質で抑揚のない言葉でそれを塞き止める。
たかが石一つで今までの努力の殆んどを無駄にされた。
たかが石一つで手に入りかけていた希望を踏みにじられた。
今回の原因のあまりの小ささに、楓は完全に頭に来ていた。
そしてそれは、半分ほど決まっていた黒い感情の行方を決定付けた。
たった今、楓の中で渦巻く負の感情は、親愛という最後の砦を破壊して薫に襲い掛かる。
「――っ……はい……すいません……
でっ、でも、綺麗ですよね、これ!」
薫は取り繕うように笑い、石乗せた両手を持ち上げる。
その手を楓は無慈悲にも叩き飛ばす。
手から溢れた石が音を立てて床に落ち、滑っていく。
「おかあ……様……?」
突然の予期せぬ出来事に、薫の表情は驚愕の色に染まる。
「仕事は……失敗したのよ……」
「へ……?」
「貴方が木から落ちたって聞いたから……
貴方が頭から血を流して意識を無くしてるって聞いたから……!
だから……仕事の途中で慌てて……
なのに……なのに貴方は……っ!!」
憮然とした怒りを露にさせながら、彼女の言葉は徐々に熱を帯びていく。
「貴方は……っ!!
あんな下らない石ころ一つで何もかもを台無しにしたのよ!?
分かってるの!?
なんで……!?
なんで貴方は私の気持ちをこれっぽっちも分かってくれないの!?
なんで貴方は私のしてほしくないことばっかりするの!?
なんで私の言うことをちゃんと聞いてくれないの!?
……私に……私に恨みでもあるの……?」
感情がピークにまで高ぶり、楓の目から溢れ出た涙が頬を伝う。
「ごめん……なさい……
ごめんなさい……ごめんなさい……」
あまりにも鬼気迫る母の表情に、薫は恐怖に顔を歪めながら呪文のように謝罪を繰り返す。
「……なに謝ってるのよ……
もう遅いの……!
貴方が全部壊したの……!
全部全部貴方が悪いのよ?
貴方が私の言うことを聞かないから……
貴方が言い付けもろくに守れない悪い子だから!
ねぇ、返してよ……今までの母さんの頑張りを返してよ!!」
楓は薫の両肩を持ち、激しく体を揺する。
「ごめん……なさい……
私、知らなくて……でも、お母様に笑っていただきたくて……だから……」
とうとう薫まで泣き出し、嗚咽の混じった声で必死に弁解する。
「またそれ!?
どうして貴方はいつも――」
「頑張りたかったんです……!
私も、お父様やお姉様みたいに……頑張りたかったんです……!
それで、お母様のやくに、支えに……なりたかったんです……!」
このままだとまたなにも言えずに終わってしまう。
そう考えた薫は母の言葉を遮り、今の自分の気持ちを叫んだ。
ずっとずっとなにも出来ない自分が辛かった。
ずっとずっと母を支えたいと思っていた。
彼女の中にあったのは、純粋に母を思い、愛する気持ち。
ただそれだけだった。
きっともっと早くから素直な気持ちをぶつけ合うべきだったのだ。
全てはあまりにも遅すぎた。
漸く放たれた薫の本気の言葉は、もう歪みきった楓の心に収まることはなかった。
「それに一体何の価値があるのよ……
他人のために動けば何だって許されると思ってるの!?
私のため、私のためって言うけど、結局貴方が私に何をしたの!?
全部全部私のしてほしくないことばっかりじゃないの……!
貴方の優しさは迷惑なのよ!
貴方の思い遣りはお節介なのよ!
そんな自分勝手な優しさに何の価値があるの!?
そんなものに何の価値があるのよ!!」
楓は自分の中の全てを吐き出すように薫に言葉を叩き付けると、ゆっくりと膝から崩れ、薫の太股の上に顔を落とし本格的に泣き出す。
「お願いだから、もうなにもしないで……
ちゃんと、言うことを聞いて……」
彼女の言葉を聞いて、薫は絶望した。
今までの自分の行動が、言葉が、これ程までに彼女の心を苦しめていたのだ。
彼女を喜ばせようとしていたものは全て意味はなく、寧ろその相手を苦しめる独善的で身勝手な優しさだった。
(あはは……そうか……
私は、なにもしちゃいけないんだ……
なにも出来ない私が、なにかをしようなんて考えたことが間違いだったんだ……
ごめんなさい、お母様。
こんな間抜けで、馬鹿で、使い物にならない娘で……
お母様はこんなにも苦しめて……
もう、私はなにもしません。
言うことをちゃんと聞きます。
だから――)