忌譚百景   作:埴輪庭

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蟲毒のハコ②

 ◆

 

 マリスネスト四番館。

 

 その名前が小島の脳裏にこびりついて数日が経過していた。

 

 彼のオンライン上のテリトリーである「こじてる」のサーバー領域には、既にそのマンションに関する膨大なデータが蓄積されつつある。

 

 新聞記事のデータベースの過去の死亡記事。

 

 SNSの過去ログの時に断片的ながらも生々しい個人の叫び。

 

 匿名掲示板のアーカイブには真偽不明の噂話と共に、無視できない細部が散りばめられている。

 

 小島はまず、三年前にそのマンションの一室で首を吊ったとされる三十代の男──Aの痕跡を追うことから始める。

 

 Aの古いSNSアカウントは、鍵もかからずに放置されていた。

 

 そこには日々の金の算段、友人たちとの他愛ないやり取り、そして徐々に、しかし確実に破滅へと向かう男の精神状態がありのままに刻まれていた。

 

 §

 

 A@人生ハードモード @Null_Re_start

 マジで金が尽きた。財布の中、小銭のみ。笑うしかないな、これ #リアル貧困

 

 A@人生ハードモード @Null_Re_start

 もう疲れた。何もかも。考える気力も残ってない

 

 A@人生ハードモード @Null_Re_start

 結局、誰も助けてなんてくれないんだよな。分かってたけど。俺が悪いんだし

 

 A@人生ハードモード @Null_Re_start

 区役所行ったけど、生活保護とか無理ゲーだった。どう生きろと? もういいか……。 #絶望 #孤独死

 

 §

 

 最後の投稿は自殺が発見される三日前のものだった。

 

 小島はAの数少ないオンライン上の繋がりから、遠縁の親戚だという人物に接触を試みた。

 

 最初は渋られたが、謝礼金をチラつかせて承諾を得る。

 

 数度のメールのやり取りの後、ビデオ通話に応じたその中年の女性は疲れた顔で画面越しに語った。

 

「あの子は……昔からお金にだらしなくてね。消費者金融にも手を出して、家族とはほとんど絶縁状態でした。だから、あんな都心に近いマンションにどうやって入れたのか、私たちも不思議だったんです。保証人なんて立てられるあてもなかったはずなのに」

 

 その言葉は、小島がネットの片隅で見つけた「審査が異常に緩い」という噂を裏付けるものだった。

 

 次に小島が注目したのは、一年前に同じマリスネスト四番館で孤独死として処理された五十代の女性、Bだ。

 

 Bに関する情報はAよりも乏しかったが、元同僚だという人物へのオンライン取材で、彼女が生前、失業と持病の悪化で生活に困窮し、精神的にも追い詰められていた状況が明らかになった。

 

 そして彼女もまた、通常では考えられないような低いハードルであのマンションへの入居を果たしていた。

 

 金銭的困窮。

 

 社会的孤立。

 

 そして、それに伴う精神的な不安定さ。

 

 マリスネスト四番館で命を落とした複数の住人たちには、まるで判で押したようにこれらの共通点が浮かび上がってくる。

 

 そして、その誰もがまるでセーフティネットの網の目をすり抜けるように、「異様に緩い入居審査」というブラックボックスを通って、あの場所へと流れ着いていたのだ。

 

 ──このマンションは、一体何なのだ

 

 小島は法務局のオンラインサービスを利用して、マリスネスト四番館の登記情報を取得した。

 

 そこに記載されていた所有者名は、「合同会社アーバンネスト・ホールディングス」

 

 いかにも実体のなさそうな、ありふれた法人名だった。

 

 代表社員として記載されている名前も、検索エンジンでは何の具体的な情報もヒットしない。

 

 だが不可解なことに、過去数年で所有者名義が二度も変更されている。

 

 そのいずれもが、似たような実態不明の合同会社。

 

 ペーパーカンパニーを使い、所有者の実像を巧妙に隠蔽しているとしか思えなかった。

 

 小島の眉間の皺が、また一段と深くなる。

 

 調査を進める中で、彼は幸運にも短期間だけマリスネスト四番館に住んでいたというCという二十代後半の女性と、ビデオ通話で話す機会を得た。

 

 現在はこの街を離れ地方で暮らしているという彼女は、画面の向こうで当時を思い出すかのように何度か言葉を詰まらせた。

 

「とにかく……息が詰まるような部屋でした。家賃が安いことだけが取り柄で……でも、それだけでした」

 

 声は微かに震えている。

 

「夜中に隣の部屋から、誰かが呻いているような声が聞こえるんです。でも、不動産屋に確認したら、隣は空室のはずだって……。壁も薄かったですけど、そういうのとは違う、もっと……気味の悪い響きで」

 

 小島は黙って彼女の言葉に耳を傾ける。

 

「あと……虫です。小さな、黒い虫が、壁とか床とか、気がつくと這っているんです。いくら殺虫剤を撒いても、どこからともなく湧いてきて……。でも、友人が部屋に来た時は、一匹もいないって言うんです。当時は私もちょっとおかしかったから、なんていうか、その、病んでて──そのせいかも」

 

 Cはそこで一度言葉を切り、深呼吸した。

 

「でももう耐えられなくて。違約金を払ってすぐに引っ越しました。あの部屋にいるとなんかもう気が滅入ってしまって。まるで悪い気を集めて、そこで濃縮しているっていうか……」

 

 言葉の端々から滲み出る、あのマンションに巣食う負の感情の濃密さが小島の肌を粟立たせた。

 

 ビデオ通話を終えた後、Cの言葉が小島の頭の中で何度も反響した。

 

 ──生ける蟲毒の壺

 

 小島はマリスネスト四番館を、そう形容するのが最も的確だと感じた。

 

 これは単なる不幸の連鎖などではない。

 

 もっと作為的な、人為的な何かがあの場所に渦巻いている。

 

 そうでなければ、この異常なまでの負の集積は説明がつかない。

 

 ──調査の焦点を物件そのものから、この不可解な状況を意図的に作り出しているであろう「オーナー」へと移すべきだ。

 

 小島はそう結論付けた。

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