忌譚百景   作:埴輪庭

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ヒツギノムラ②

 ◆

 

 朝六時、目覚ましが鳴る前に目が覚めた。

 

 カーテンを開けると予報通りの快晴だ。

 

 シャワーを浴びながら、今日の段取りを頭の中で確認する。

 

 十時に村の入り口で待ち合わせ。

 

 逆算すると七時には出発したい。

 

 朝食は軽めに済ませた。

 

 山道の運転で車酔いすることもある。

 

 機材を車に積み込み、最後の点検を行う。

 

 バッテリーの充電、メモリーカードの空き容量、レンズの汚れ──すべて問題なかった。

 

 高速道路は空いていた。

 

 平日の朝だから当然かもしれない。

 

 インターチェンジを降りると、景色が一変した。

 

 田園風景が広がり、遠くに山並みが見える。

 

 ナビゲーションの案内に従って県道を進む。

 

 次第に道幅が狭くなり、カーブが増えてきた。

 

 対向車とすれ違うたびに、ハンドルを左に切る。

 

 ガードレールの向こうは深い谷だった。

 

 九時半、「灯之村へようこそ」という看板。

 

 村の入り口には小さな駐車スペースがあり、軽トラックが一台停まっていた。

 

 車から降りると、ひんやりとした空気が肌を撫でた。

 

 標高が高いせいか、都会より気温が低い。

 

「SONOKO様ですね。お待ちしておりました」

 

 振り返ると、五十代くらいの女性が立っていた。

 

 紺色の事務服に、村の観光課と書かれた名札を付けている。

 

「初めまして、観光課の田中です。今日はよろしくお願いします」

 

 彼女は両手を前に差し出した。

 

 掌を上に向けて、まるで何かを差し上げるような仕草だ。

 

 握手かと思って右手を伸ばすと、田中さんはさっと両手を引っ込めた。

 

「あ、これが私たちの挨拶なんです。お客様にはこうやってご挨拶するのが村の習わしで」

 

 もう一度、両掌を上に向けて差し出す。

 

 今度は手を出さずに見ていると、数秒後に彼女は手を下ろした。

 

 満足そうな表情を浮かべている。

 

「変わった挨拶ですね」

 

「そうでしょう? でも村の人同士は普通に会釈するだけなんですよ。お客様だけ特別なんです」

 

 理由を聞こうとしたが、彼女はすでに歩き始めていた。

 

「まずは村長にご挨拶を。その後、診療所や学校を回りましょう」

 

 村の中心部は思っていたより整備されていた。

 

 アスファルトの道路、電柱、自動販売機。

 

 どこにでもある田舎の風景だ。

 

 すれ違う村人たちは、私たちに軽く会釈をする。

 

 田中さんには普通の挨拶なのに、私を見ると立ち止まって両手を差し出してくる。

 

 老人も、中年の主婦も、高校生らしき少年も。

 

 みんな同じ仕草で挨拶をした。

 

 掌を上に向けて、じっと差し出す。

 

 私が動かないでいると、やがて手を下ろして去っていく。

 

 三人目の村人に会ったとき、私も試しに同じ挨拶をしてみた。

 

 すると相手はなぜか慌て出した。

 

「駄目です!」

 

 田中さんが鋭い声で注意する。

 

「どうしてですか?」

 

「そういう決まりなんです。見ていただくだけで。外の人たちは駄目なんですよ、あの挨拶をしてもらっては」

 

「そう……ですか、すみません、わかりました」

 

いわゆる因習──いや、因習だと意味合いが違うか。

 

風習、慣例というやつだろうか。

 

納得したとは言い難いが、とにかくその場は納得して見せる。

 

 村長の家は、築百年は経っていそうな古民家だった。

 

 縁側に腰掛けた白髪の老人が、私たちを待っていた。

 

「ようこそ灯之村へ。村長の山田です」

 

 彼も立ち上がって、両手を差し出した。

 

 皺だらけの掌を、太陽に向けるように上向きにしている。

 

 じっと見ていると、老人は満足げに頷いた。

 

「良い気をお持ちですな」

 

 意味がわからず、曖昧に微笑むしかなかった。

 

 村長は淡々と村の歴史を語り始めた。

 

 開村は江戸時代中期、山間の隠れ里として始まったという。

 

 水が清らかで、土地が肥沃だったため、自給自足の生活が成り立った。

 

「長寿の秘密は何だと思われますか?」

 

 私の質問に、村長は少し考えてから答えた。

 

「特別なものは何もありませんよ。水、空気、そして助け合いの精神。それだけです」

 

「あの挨拶も、助け合いの精神の表れですか?」

 

「ええ、まあ、そんなところです」

 

 村長は言葉を濁した。

 

 少し気になるが、多分村長自身もあの挨拶の所以をよく知らないのだろう。

 

 診療所は村で一番新しい建物だった。

 

 白衣を着た医師が、健康診断のデータを見せてくれる。

 

「確かに住民の健康状態は良好です。生活習慣病の罹患率も全国平均を大きく下回っています」

 

 カメラを回しながら、具体的な数値を確認する。

 

 血圧、コレステロール値、血糖値。

 

 どれも理想的な数字だった。

 

「食生活に秘密があるのでしょうか?」

 

「それが不思議なんです。特別な食材があるわけでもない。普通の和食中心の食事です」

 

 医師も首をかしげていた。

 

 診察を終えて外に出ると、看護師が両手を差し出して挨拶をしてきた。

 

 白い制服の袖から伸びた腕が、宙に浮いているように見える。

 

 掌には何も乗っていない。

 

 ただ、上を向けて差し出されているだけだ。

 

 午後は村の各所を撮影して回った。

 

 棚田では稲穂が黄金色に輝いていた。

 

 農作業中の男性が手を止めて、泥だらけの両手を差し出してくる。

 

「いい天気ですな」

 

 土の匂いがかすかに漂ってきた。

 

 神社の境内では、老人たちが日向ぼっこをしている。

 

 私の姿を見つけると、全員が立ち上がった。

 

 一列に並んで、順番に両手を差し出してくる。

 

 まるで儀式のようだった。

 

 五人、六人と続くうちに、妙な感覚に襲われる。

 

 彼らは何かを差し出しているのか、それとも受け取っているのか。

 

 小学校では、十数人の子どもたちが元気に遊んでいた。

 

「お客さんだ!」

 

 子どもたちが駆け寄ってきて、小さな手を差し出す。

 

「先生が言ってた。お客さんにはこうするんだって」

 

 無邪気な笑顔だが、その仕草は大人たちと寸分違わない。

 

 掌を上に向けて、じっと差し出す。

 

 私が何もしないでいると、満足そうに手を下ろした。

 

 夕方、宿泊先の民宿に案内された。

 

 女将も玄関先で両手を差し出して迎えてくれる。

 

「お風呂は温泉ですよ。疲れを癒してくださいね」

 

 今日だけで何度この挨拶を受けただろうか。

 

 数えるのも馬鹿らしくなってきた。

 

 部屋に荷物を置いて、さっそく温泉に向かった。

 

 内湯だけの小さな浴場だったが、湯質は素晴らしかった。

 

 無色透明で、かすかに硫黄の香りがする。

 

 肌がつるつるになるような、とろみのある湯だった。

 

 湯船に浸かりながら、今日一日を振り返る。

 

 あの挨拶の意味がどうしてもわからない。

 

 何かを渡しているようで、何も渡していない。

 

 夕食は地元の食材を使った料理が並んだ。

 

 山菜の天ぷら、川魚の塩焼き、自家製の漬物。

 

 どれも素朴だが、味わい深い。

 

「この野菜、すごく甘いですね」

 

「うちの畑で採れたものです。土がいいんでしょうね」

 

 女将は嬉しそうに説明してくれた。

 

 食事中、思い切って聞いてみた。

 

「あの両手の挨拶は、いつから始まったんですか?」

 

 女将の手が一瞬止まった。

 

「さあ、いつからでしょう。私が生まれたときにはもう、そういう決まりでしたから」

 

「なぜ外部の人間が同じ挨拶を返してはいけないんですか?」

 

「さあ……私らもよくわからないんですよ、実は」

 

 村長もよくわかっていなさそうだったが、まあそういう由来不明の慣習は案外に多い。

 

 私が気にしすぎなのだろう。

 

 食後、部屋で今日撮影した映像を確認した。

 

 村の風景、人々の表情、健康データ。

 

 素材は十分に集まっている。

 

 ただ、何かが足りない気がした。

 

 長寿の決定的な理由が見つからない。

 

 水も空気も確かに良いが、それだけでは説明がつかない。

 

 ノートパソコンを開いて、メモを整理する。

 

「両手の挨拶・部外者限定・掌を上に向ける・ただしよそ者は駄目」

 

 キーボードを打ちながら、違和感の正体を探る。

 

 あの仕草は本当に挨拶なのだろうか。

 

 そんな事を考える。

 

 ──まあ、でも。挨拶って言っていたし

 

 私はそう結論づけて動画の編集を始めた。

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