今日のクエストは郊外の牧場の警備。牧羊犬的な仕事だが、これが結構実入りがいい。お金頂けるんだから犬でも構いません。ワンワ~ン。変なプレイじゃないよ。
勤務時間は、牧場主のおばあちゃんに挨拶してから、お夕飯を食べ終わるまで。こんな属人性の塊みたいな勤務時間のポスター、就職サポートセンターに置かれてたら即シュレッダー送りだと思う。しかし異世界なので許される。
しかも、このおばあちゃんの何が最高かっていうと、お昼ご飯とお夕飯を恵んでいただけるので飯代が2食分浮く。なんてありがたいんだろう。抱いてください。ちなみに御年82だそうです。やっぱ良いです。
この世界に転移する前に会った神様いわく、この世界は魔王に侵略されているらしい。つまるところ武力衝突中なわけだ。いかに魔王が恐ろしいかってことを力説した神様は、俺にチート魔法を授けてくれた。要するに、その魔法で魔王をぶちのめせってことだろう。
別に、英雄願望が無いってわけじゃない。それにハーレムとか作るなら、一番難易度低そうだし。よくあるじゃん、旅の途中で仲良くなっていって...みたいなやつ。
ただ、今やれと言われたらやれないと思う。ぶっちゃけ魔法がどんなものかの底が見えてない。泥だらけの水たまりを見ている気分だ。足を踏み入れたら、案外くるぶし辺りまでしかないかもしれないし、肩まで浸かってもまだ沈む底なし沼なのかもしれなかった。
しかも、恐ろしいことに、俺はこの世界に来て一度も魔王の存在を聞かされたことが無いのだ。
つまり。俺は不確定から逃げているのだ。消極的に。そして、今日も。
「いやぁ...静かだ」
「気持ちいい、ね」
色濃い青空をキャンバスに、のどかに流れていく雲。麦わらの匂いをたっぷり含んで、首筋を撫でつつ吹き抜けていく西風。緑の絨毯の上で踊るように細足を動かして、母について行く仔馬。肩にもたれ掛かってくるエイラ。何と平和で牧歌的なんだろう。詩とかの類は、こう言う景色を見て生まれたんだろうな。...ん?
「わああああっ!」
「わぁ、びっくり。どうかしたの?敵?」
「いや、味方。なんか...近くないですか」
いつの間にか。そうとしか言えない。いつの間にかエイラは、俺と互いに肩と肩が触れ合うくらいの距離にいて、こちらをジッと覗き込んでいた。
エイラとは、結構身長差がある。彼女の頭が大体、俺の鎖骨くらいに来る。つまるところ、彼女は俺と目線を合わせる時には自然と見上げる形になる。ちなみに、彼女のつむじは左向きである。
「ふふ、近付いてみたかったから」
鼓膜をしっとりノックするウィスパーボイス。服越しでも感じる薄くて柔らかい肩の肉と、その奥にある骨。綺麗に通った鼻。パッチリまつ毛。
もう無理。仔馬が歩いてる景色とか全然見てられません。鼻紙より薄っぺらい詩人気取りのバカのヴェールは、かくも容易く破かれる。
良いじゃん、親馬たちがヤることヤって出来た命なんだからなお前も。何が麦わらの匂いだ、2度と鼻に突っ込んでくるんじゃねえぞ。そんなのよりも遥かに良い匂いがする生命が隣にいるんだわ。
「いや、は、離れた方が...良いんじゃ、ないか...?」
「やだ。ここがいい」
まぁ悲しいかな、心の中ではやかましく騒ぎ立てても、現実で絞り出せる声は蚊の羽音くらいに細いもので。そして、そんな声に従うようなら最初から寄り付いてなんかいない訳で。
相変わらずエイラは、俺の方を見上げている。彼女の視線は、きっと真っすぐ俺の方を見ているんだろうけれど、こっちにそんな余裕はない。
ちょっと汗ばんでる首元とか、男と違って髭なんてない白い顎とか、日なたのカラスみたいに藍色がかった黒髪とか、そういうところに忙しなく目線を置く。そして、ずっと見てることがいやらしいように感じられて、また別の所に視線を外す。それの繰り返し。目潰した方が良いんじゃなかろうか。
「ね、ね。あの赤ちゃんのお馬さん可愛い。歩き方、かくかくしてる」
「えっ?あ、あぁ!うん!」
エイラが指さした、先ほどまで俺が見ていた仔馬。しかし、今はそっちを見る余裕なんて俺にはない。下手くそがやってる操り人形みたいに、ガクガク頭を縦に揺らす。すみません、この操り人形、糸が下半身についてるんですけれど。不良品ですか?
さすがに人としてどうかと思う。一応、俺も霊長類の端くれである自覚はある。こんな四六時中発情して、積み上げるべきコミュニケーションを捨ててしまうのは人間失格だ。そのうち異世界玉川上水とかで死んでしまう。
ちゃんと目を見て話そう!意を決して、俺は首の後ろの方に力を込めて、エイラの青くてキラキラした、南の海みたいな目を覗き込んだ。
「......えっと。赤ちゃんじゃなくて、ボクの方?」
「あっ」
こめかみのあたりに、冷たい汗が滲んだ。
「いや、あの...違うんだよ」
「違う、の?」
エイラは困ったように細い眉を軽くハの字に寄せて、じっとこちらを見上げてくる。半歩、距離が近まった。俺の感じる寒気も一段と強さを増した。少し目が細まって、意地悪そうに唇の端が歪む。この顔をされると、大体俺は何にも言えなくなる。
「......どっちも、可愛いと、思います」
「ふふふ、やった」
満足そうにエイラは笑みを深くした。そろそろ解放してくれないだろうか。20センチ先にいる女の子は、俺にとってゼロ距離のヒグマよりも圧倒的な存在感を持つ。
するりといった感じで、まるで猫か煙みたいにエイラは俺の懐から自然に抜け出すと、再びニコリと笑った。
「どっちの方が、かわいい?」
「もう、もう...許して...」
玉川上水どころかアマゾン川である。もはや堤防はぶち抜かれた。俺は人生において、可愛い女の子の「私可愛い?」みたいな類の問いに対して、適切な回答を用意する準備ができたことなど一度もなかった。多分、これからも無い。無条件降伏だ。そもそも近付かれただけで白旗をあげるんだから、エイラとの周囲30センチは、俺にとってヴェルサイユの鏡の間に等しい。
「ふふふ、意地悪だった。ごめんね」
「勘弁してよ...」
額にたっぷり浮かんだ滲むような汗を手の甲で拭って、麦わらの上に座り込んだ。空気をたっぷり含んだ即席の椅子は、思っていたよりも俺の体を沈み込ませる。細いトゲのように小さな麦わらのカケラたちが、俺の周囲にハラハラと舞う。俺とエイラの高低が逆転して、彼女が俺を見下ろす形になった。
「うわ、思ったより沈んだ......」
「引っ張ってあげる。こっち、掴んで」
「あ、ありがと」
青い空を背景に、こっちを見下ろしながら左手を差し出してくるエイラは、何だかちょっと神秘的だった。
そして、彼女は背負っている空にも負けないくらいに綺麗に笑った。
「いつか、僕の方が綺麗って、言わせてあげる」
魔王より勝てないと思うこれ。