あんなに鬱陶しく、俺たちの頭をジリジリと照らして焦がしてイジメ抜いた盛日もすっかり衰えて、西の空へと暮れかかった帰り道。
一段と濃くて甘いオレンジを、さらに絞って濃くしたジュースみたいな色に染まりながら、数歩だけ先を歩いていたエイラは、突然くるりとバレリーナみたいにこちらを振り返った。
「ね、ショーマ。今日は、シちゃう?」
「あぁー......じゃあ、お願いしちゃおうかな」
鳥とも蝙蝠ともつかない影が数匹、梢から飛び立っていく。少しあって、金曜日の日没を知らせる教会の鐘が町の方から、腹の底を痺れさせるように響いた。
───────
「『そして2人は幸せに暮らしました。めでたし、めでたし』......終わり」
「わーパチパチパチ。......なんか全部聞き覚えあるんだよなぁ、この世界の昔話」
エイラによる絵本の朗読。それが金曜日の夜の習慣になっている。何らかの倒錯したプレイというわけではなく、これはれっきとした社会勉強である。あと俺はカプなら左側が良いです。
もちろん、この世界では日本語が話されているわけでも、書かれているわけでもない。しかしこの世界に転移される前に神様から気前よくサービスしてくれたのは、話されている言葉が翻訳されるというものだった。リスニング試験の時とかにくれたら便利だったのになぁ。
もちろん、そんな便利機能が無料で貰えただけ贅沢は言っちゃいけないのだが、足るを知れば欲が出るのが人間というもので。
この能力、話してる言葉は自動で翻訳してくれるが、文字に関しては全くの範囲外なのだ。つまり文字が書いてあっても、それが何なのかは声に出して読んでもらわないと分からない。
日本の識字率は99.8%だそうだが、まさか0.2%側の人間の気持ちを理解できる日が来ようとは、まさか思ってもいなかった。受験とか結構頑張ったのに。ちくしょう。
とにかく、俺はこの世界では文盲ということになった。つまり、クエストが書かれた紙が張り出されていても、それが一体どういう内容なのか分からない。
例えば迷子犬探しみたいにご近所さんの人助けくらいだと思って気軽に受けても、それが超絶最強アルティメット・ドラゴンをぶっ殺せ!みたいな世界的任務だったりするかもしれないのだ。
そういうことを回避するための勉強会である。決しておしゃぶり咥えながら膝枕してもらって、バブバブ言ってるわけではないのだ。大体そんな高度なプレイできるわけないじゃない。
「ショーマ。これは?」
「超絶最強アルティメット・ドラゴン」
「よくできました。えらいえらい」
「頭を撫でないでくれ......」
「このドラゴンは特に凶暴だからね。人を見つけ次第尻尾で潰そうとしてきちゃうから、ショーマも気をつけてね」
「こんな名前つけられたら、そうもなるだろうなぁ」
森だか洞窟だか砂漠だか、どこに居るんだか分からないが、その残念なネーミングセンスの人間と遭遇してしまった不幸なアルティメット・ドラゴンに涙が止まらない。
「じゃ、次。書いてみよっか。ペン出して」
「あ、うん」
促されるままに机から鉛筆を取り出した。前の世界みたいに上等なもんじゃなくて、芯にそのまま凧糸をグルグル巻きつけただけの、粗末な棒。
「最初は手伝ってあげる」
「あ、うん......はい」
何の躊躇いもなく、鉛筆を握る俺の手に、エイラは自分の手を重ねて動かし始めた。柔らかくって、ヒンヤリしている女の子の手。あぁもう最悪。こんなことならムダ毛剃っておけば良かったと思うが、もう遅い。今から全身禿げないかなもう。嘘です。頭だけはやめてください。
「ふふ、上手に書けた。じゃあ、はい。書いてみて?」
「う、うん...」
最近ようやく見慣れてきた形の文字を、ゆっくりと模写していく。出来る限り慎重に。この世界の鉛筆は、折れやすいくせに割と高価だから困る。
「ふふふっ。上手。よくできました」
「なぁ、これなんて読むの?」
「エイラ・リリー。ボクの...名前」
「あ?あ、あぁ、あー...あぁ。なるほど。なるほどね。エイラ・リリーね。ここがエイラの部分ね」
びっくりした。口から夕飯のパンが出て来るかと思った。あれか。例えば俺が迷子になったりしても、紙にこの文字を書けば、少なくとも根無し草ではないって分かるとか、そういうことか。
「うん。お役所に名前を書きに行くときとか、書けた方が便利」
「うん...うん?いや、役所に名前書くなら...自分でやらないと」
いつの間にか近くに...いや、近くないか?お風呂上がりのエイラ。女の子座りで俺のベッドの上に座りこんでいて、手元を覗き込んでいる。俺の視線に気が付くと、こっちを見て、なんだか甘ったるく笑った。
その甘さも白砂糖みたいにサラサラしてるもんじゃない。タールみたいにドロッとした糖蜜とかのそれ。海賊のラム酒作りとか、沖縄のサトウキビ畑の脇で作ってるやつ。あんな感じの、なんだか粘っこい笑い方。
「ふふ。でも、書けておいた方が、良いでしょ?」
「まぁ、そりゃね」
「やった」
なにがやったなんだろうか。
だが文句は言えない。俺はこの場では生徒だし、何より隣の先生からめちゃくちゃいい匂いがする。なんか果物とか、そっち系の匂いだと思う。香水だとは思うのだが、大変悲しいことに、そういうものに触れたことが無いので全く分からない。
あと彼女の寝間着は、暑苦しい夏用だからか半袖に短パンである。つまり、割と足の露出が多い。素肌で俺のベッドに乗っているわけだ。夜に。2人しかいない家で。女が男のベッドに乗っている。
やばいどうしよう緊張してきた。これもう入ってるよね。いや、入ってると言えば家どころかベッドにも入ってるんですけれども。そっちの方には入ってないと言いますか。まだこう、清いお付き合いから始めたいと言いますか。全然!全然そういう行為が汚いって言いたいわけじゃないんだけれども!むしろ誘ってくれるならウェルカムなんだけれど!
よし、落ち着こう。一時の気の迷いで理性を失って、右も左も分からない異世界で、半年間もコツコツ積み重ねてきた信頼をドブに捨てるのなんて馬鹿なことだ。俺は理性ある、社会性を備えた、先を見据えて行動できる人間様なんだ。野蛮なモンスター共とは違うんだ。
「ごめん、俺ちょっと水飲んでくるね...」
「ん、いってらっしゃい」
首を傾げて、俺のベッドに座りながら控えめにひらひらと軽く手を振って俺を見送るエイラ。そうだ...落ち着け。確かに暴力的なまでにあの所作は可愛らしいが、見るがいいあの手から伸びる腕の細さを。俺が握ったら、多分中指と親指でグルッと一周できるくらいの細さだ。しかも、年齢も俺より5つ下だ。俺が小学校卒業してる頃、エイラはまだ幼稚園の記憶ばかりの頃なんだ。そんな年下に発情したらダメだろ!
うん、そうだ、あれがいい。やっぱり女の子だったら、年上の方がいい。そうしよう。あの子は長期休暇中に時々遊びに来る、レゴとか絵本で一緒に遊んでほしい親戚の子供みたいなあれだ!俺の膝の上でおしっこ漏らしたリっちゃんとか、回転寿司で俺の寿司を食って、ワサビにむせび泣いたミイちゃんとかと同じ区分だ!
「じゃあ、今日はボクもここで寝よっかな」
お父ちゃん。おれ、異世界で男になります。