エイラが息を吹きかけて、ろうそくの明かりはすっかり消えてしまった。光に慣れていた目は真っ暗闇に混乱していて、一寸先ですら何も見えない。
とりあえず、傾けた弁当のおかず並みにベッドの一番端っこに寄っておくことにした。
俺はハンバーグの下の素パスタ。チャーハンの脇の紅ショウガ。彩りとかいうフワフワとした抽象的な加点を審査するヤツにだけ配慮された、刻みキャベツの脇のしみったれたプチトマト。
ベッドと壁の間にゴリゴリと無理やり体を挟み込んで、エイラが入るであろう場所に背を向けた。
いや、話は単純なのは分かってるんだ。今ここで背中を向けながら
「エイラ、一緒のベッドで眠るなんて、やっぱり不健全極まりないよ。早く自分のベッドに帰って寝ておいで。それで、また明日から善き仲間として頑張ろう」
これくらいの言葉を言ってやって、ロウソク持たせて廊下に出せばいいんだ。そうするのが一番健全なのは分かっている。分かってはいるのだが。
「おじゃましまーす......ふふ、なんだ。そっち、向いちゃってるの?」
うん、ダメだな!諦めよう!ほらもう布団まで来ちゃったし。こんな暗い夜に、家の中とは言え歩かせるのって、なんか可哀そうだし。
決して!決して良い匂いがするからとかじゃないんだからね!
「うひゃあ」
「あれ、背中。そっち、向いてるの?」
変な声を出してしまった。変な声が出た。背中の、腰にあたりを唐突に触られたからだ。あと5センチほど下だったら危なかった。痴漢と一つ屋根の下だ。何で俺が揉まれる側なんですか?別に痴漢になりたいわけでは無いけれども。
「いや、そっち見るのは...なんかこう、ダメだろ...色々と...」
「こんな暗いのに?」
そうじゃん。こんな一寸先は暗黒、自分の手すら見えないような暗闇で、エイラのあんなところやこんなところが見えたりするわけない。
......そう考えると、やっぱり若干損してる気がしてきたぞ。ちょっとこう、チラッとだけで良いんで、見せてくれたりとか......いや、やっぱ良いです。怖いから。
「あ、あぁ...そうね...。んじゃ寝るよ俺」
「うん。おやすみ」
俺のパニックなんて知ったこっちゃないんですよエイラって子は。こっちだけバカみたいに内心でギャースカ喚き散らかしてね、スッと寝ちゃうんだからもうこの子は。健康優良児でよろしい。寝る子は育つから。ちゃんと寝なさいよ、もう。できれば来週からは自分の部屋でね。お兄さんぶっ壊れちゃう。
エイラの声は結構ハスキーというか、か細い。その声を聞くと、何かしらのレスポンスを返さないといけない気分にさせられる。
クラスの女の子から来たLINEを、自分の既読スルーでは終わらせたくない時のアレだ。明らかに返さなくても良い、他愛もない内容なのに、相手の返事がトークルームの1番最後を飾っているとムズムズして申し訳ない気持ちになるアレ。大抵の場合、最後は「ありがとう!」みたいな、得体の知れない犬畜生のデザインされた、クッソダサい無料スタンプを恐る恐る押して終わる。そして5分くらい煩悶とする。
結局、俺は今回もエイラの声を既読スルーできなかった。既聞スルーと言っても良いかもしれない。ただのスルーじゃないかこれ?
「ショーマ、ショーマ。こっち向いて」
「はい」
ここまで来たら、どっちが胸でどっちが背中とか、どうでも良いわ!あんまり舐めちゃあいかんぜよエイラの嬢ちゃん、男はイケメンだろうとブサイクだろうと、アソコの一皮剥いたらみんな獣ってこと、教えこんだる!
覚悟を決めた。ぐるりと寝返りを打って、エイラの方へと向かい直す。彼女の弱々しい鼻息が、心なしか少しクリアに聞こえた。
......いや、なんかやけに近くないか?
そう思った瞬間、なにか素晴らしく良い匂いのする、硬くて丸くて、そしてサラサラしてるものが俺の胸に飛び込んできた。
「ふふ、落ち着く......。おやすみ」
「わひゃあ......」
獣は獣でも、ハムスターとかそっちの愛玩動物みたいな声が出た。
何度目かの敗北だった。
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ドクドクと、心臓が動いてるのを感じる。耳の辺りでも大袈裟なくらいに脈拍がうるさくって。それがまるで、僕がどれだけ掻き乱されているのかを示しているみたいで。
2人で一緒に選んだ、お揃いのタオルケット。だけれど今日は、好きな人の匂いがする。肌触りがサラサラしててボクとしてはお気に入りなんだけれど、太ももの方まで撫でられると、流石に心許なくって心がザワザワする。
せっかくこっちを向いてくれたのに、この人ときたら全く寄って来てくれない。両手でぎゅっと抱きしめて、そのまま抱き枕みたいにしてくれても、ボクは全然怒らないのにね。
でも、そこまでするショーマはなんか変かもしれない。こういうところでテレて動けなくなっちゃうのも可愛いし、ショーマらしいと思う。
彼の胸のあたりまで鼻を近付ける。ショーマの体はいつもポカポカしていて、お風呂上りには石鹸の匂いがする。だから胸の方まで頭を埋めてみると、お布団に包まれてるみたいに幸せになる。ボクと違って分厚い体と、遠慮しがちに回してくる太い腕。
最初はガチガチに固まっていても、そのうち我慢できなくなって、少し震えながら降りてくる。まるで砂で出来た像とか、ガラスの彫刻を触るみたいに。このただ軽く触れられてるだけの状態でも幸せで、愛されてるなぁとか勘違いしてしまいそうになっちゃう。
でも、そのままずっと動かないでいると、最初はただ触ってるだけだったのに、だんだんと力が抜け始めて彼の腕の重みが直に感じられるようになる。そうすると、まるで冬のお布団に優しく押し付けられてるみたいになって、浮ついていた心を優しく包んでくれるみたいになって気持ちいい。
ちょっとずつ彼の鼻息が弱くなり始めた。彼もちょっとずつ眠くなってきたんだろう。それはちょっとずつ一定になり始めた。きっともう、彼は夢の世界だろう。
どういう夢を見てるんだろう?やっぱり、ハーレムなのかな?ボクとの夢、見たことはある?
少しずつ暗闇にも目が慣れてきた。ぼんやりと白っぽく、彼の輪郭が浮かんで見える。
少しだけ近付いた。ほんの少し、あともうちょっとで唇が触れてしまいそうなほど近くまで。多分泣きそうな顔をしていると思う。拒絶されるのが怖いから。だから、返事も返ってこない寝ている君にしか、こうやって言えない。
「ね......ボクのこと、好き?」
もちろん返事はない。何処かから虫の声が、幽かに窓から染み入ってくるだけだった。
「おやすみ」
それにも返事はなかった。変わらない寝息だけが続いていた。今度こそボクも目を閉じた。