確か中学2年生の時だったから、今から5年ほど前だ。国語の授業で村上春樹さんが書いた猫の詩を読まされたことがある。そこで彼は、猫の毛並みの暖かさは太陽のようだとか書いていた。
あぁ...この人は頭がおかしくなっちまったんだ。そう思った。きっと彼は東京ヤクルトスワローズの先発ローテと、ノーベル文学賞授賞式の日程しか考えられない体にされてしまったんだと。あの時の俺は本気でそう思った。
そして今、5年の歳月と世界そのものを飛び超えて、太陽が君臨した。俺のタオルケットの上から、鋭利な爪を突き立てて。
「痛い!」
二の腕に突き刺さる痛みに飛び上がり、逃げ出そうとしやがった害獣を魔法で拘束する。このバカが!チートってのは、こういう時に使いこなすものなんだよ!
「どしたの...」
「エイラ、この猫無理だ!せめて外で飼おう!」
重たそうな瞼を擦りつつ、トボトボと歩いてきた寝巻き姿のエイラに、拘束魔法を解いて、前足の付け根あたりに手を突っ込んで寝込み狙いの卑劣な獣を高々と掲げてみせる。逃げようとしても無駄だ阿呆め!絶対に離さんぞ。
「かわいそうだよ...ほら、こっちちょうだい」
「ひ、引っかかれるなよ...?」
「大丈夫だよ。ほら、怖くないよ〜......ふふふ、ね?」
俺が恐る恐る渡した毛玉を、エイラは愛おしいものでも受け取る様に両腕で優しく受け止めると、そのまま今朝の俺にやったみたいに、手のひらで頭を撫でる。そうすると、そいつは満足げに小さくニャアンとだけ鳴いたあと、すぐにコロコロと寝てしまった。エイラがそっとタオルケットの上に乗せても、もう爪は出さない。完璧に眠ってしまった。
「寝た...」
「ほら、ちゃんと寝るよ。もう引っかかれないでしょ?」
「......なぁ、本当にありがたいんだけど......俺はどこで寝れば良いんだ?」
「............あ」
我が物かのように、虎縞模様の毛皮がタオルケットの上でゴロンと寝返りを打った。腹立つわぁ......。
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「......まさか、狙った?」
「ち、ちが、違うのっ!だってあそこくらいしか寝かせてあげる場所がなくって、だから...違うの...」
「分かってるよ。早く寝ちゃおう。明日もどうせ早いし」
嘘です!全然分かってないです!初めて女の子の部屋に来てクッソ緊張しているし恥ずかしいし怖いです!存在そのものが粗相とかになったりはしないでしょうか!
「......うん」
「とりあえず、もう寝ようぜ」
「ごめん、なさい」
「良いよ、別に。君が一緒の布団で寝たくないなら話は違うけど...」
「そういう、わけじゃ...」
「でしょ?じゃ、おやすみ」
ベッドの端に体を追いやって、エイラを迎え入れる。この抱き抱える様な姿勢自体は割と数を重ねてきたが、実はエイラのベッドの方で寝るのは初めてだ。というより、彼女の部屋には滅多に来ない。もっぱら、彼女の方から俺の部屋に来る。
「うん...ごめん、なしゃい...」
最後はほとんど溶けてしまっている舌っ足らずな声で、別に必要も無い謝罪だけを残すと、そのままエイラは寝息を立て始めた。すうすうと小さな呼吸音が、俺の胸のすぐ近くから聞こえてくる。
ふう。
耐えたあああああああ!!!!!
心の中でガッツポーズ、そして自分自身とハイタッチ。なんて俺は素晴らしく完成された人間なのだろう、今死んだら確実に天国行き、阿弥陀如来のお墨付き間違いなしである。へい仏陀、輪廻転生から解脱への黄金ルート空いてる?切符もう切っといてちょうだいな。まぁ俺、転生というより転移してきてる男の中の男なんですけどね!
落ち着こう。
そんなことよりも。女の子の部屋だ。良い匂いがする。盛んに咲いている花の蜜のように甘い匂い。意味が分からない。俺の部屋はこんな匂いしない。無臭である。それどころか、若干枕が臭くなってきている気がする。同じ家に住んでいる、同じ種類の生物であるはずなのに、この差はなんだろう。なんかこの部屋だけめちゃくちゃ風水とかが良かったりするんだろうか。それとも、乙女と童貞は別生物だとでも言うのだろうか。
しかし、もしかしたら俺が勝手にエイラを人間だと認識しているだけで、実際はもっと清潔で高貴な上位存在とかだったりするかもしれない。
部屋中の空気よりも濃く感じる彼女からの甘い匂いとか、お風呂上がりでしっとりと温かみのある湿気を孕んでいる髪の毛とか、一緒に選んだパジャマの柔らかな布地とか、その布の奥に感じるほっそりした肩の骨の硬いけれど頼りなさそうな感触だとか、そういう俺の人生にはおよそ存在しなかったものがダイレクトに直撃してくる。
それを意識しすぎると、我が股間のダイオウ愚息ムシが暴れ始めてしまいそうなので、エイラの頭を胸のあたりで抱いてやりながらも、現状俺は大変情けないへっぴり腰。すごく弱そう。事実弱い。少なくとも、この家の中で現状のパワーランクを付けるとするならば、エイラ>毛玉畜生>俺である。
...そう考えると、なんだかちょっと腹が立ってきたな。エイラは別に構わないというか大歓迎なのだが、あんな食っちゃ寝の無愛想な、ほとんどニートと同意義の動物に負けているのは納得できない。
よし。俺は覚悟を決めた。ここは一つ、壁越しでアホくさいが、どちらが真のご主人様か分からせてやらねばなるまい。
そっと慎重を期して、自由に動かせる右手をエイラの頭の方へ動かす。そして、エイラがアレやおれにしたように、そっと手のひらで撫でてみる。正直、もうここしばらくの間、人に撫でてもらったことが無かったせいで感覚を思い出せずにいたものだから、果たしてこれが正解なのかは分からない。
「うっわ...」
我ながら大変気持ち悪い事に、思わず声が漏れた。しっとりした彼女の髪は少しばかり中に空気を孕んでいて、毛並みに沿って手を動かすと、それが抜けていって頭骨の滑らかな曲線がクッキリと分かる。
せっかく風呂に入った後だというのに、背中から冷たい嫌な汗が滲み出て来る。しかし、エイラは変わらない調子で寝息を立て続けている。それに安堵して汗が少し引っ込んだ自分が嫌になる。
「本当は、起きてるときにしたいんだけどなぁ...」
何だか申し訳なくなってきて、エイラの頭をそっと抱き寄せて、おれも寄っていく。
細くて薄い身体。寝ているからか、少し熱い体温。立ち振る舞いなんかは大人びていて、時々彼女は俺より年上なんじゃないかと思わせる時もあるが、やはりまだまだ年下なのだ。
「んぅっ...」
少しばかり息苦しかったのか、エイラは小さく呻くと、弱々しく体をフルフルと震わせた。
「えっ可愛い」
......もうちょっとこのままでいいか。今日は色々あったし、これくらいの役得は許されるだろ。...多分、知らないけど。