『術式ナシ』
『雑魚』
『落ちこぼれ』
禪院に対してそんな罵詈雑言が投げつけられるのは、決して珍しいことではなかった。
術式至上主義を掲げる禪院家において、術式を持たない真幌は常に嘲笑と侮蔑の的だった。
廊下を歩けば陰湿な囁きが耳元を掠め、蔑む視線が絶えず背中に突き刺さる。
それが真幌の日常だった。
だが、直哉だけは知っていた。
誰よりも強く、誰よりも尊い真幌の――兄の真実の姿を。
術式を持たないという一点だけで兄を見下す禪院家の者たちが、どれほど愚かで浅はかなのかを。
禪院家は直哉にとって愚者の巣窟だった。
兄の真価を見抜けない馬鹿ども。
兄の偉大さに気付けない盲目の愚鈍ども。
なかでも、あの日――真幌が十歳の誕生日を迎えたあの夜に出くわした者たちは、直哉にとって特別な愚か者たちだった。
その日、直哉は生まれて初めて、自分の小遣いをすべて使って兄への贈り物を用意していた。
真幌の十歳という特別な節目の誕生日。
街の店を何軒も巡り、直哉が選んだのは銀色の小ぶりなピアスだった。
一セットしか買えなかったが、それを二人で半分ずつ分けてお揃いにしたいと考えた。
誕生日の当日を迎えるその日まで、直哉は小さな箱を何度も手のひらの中で確かめながら、膨らむ期待を抑えきれずにいた。
箱を開ける瞬間、兄がどんな顔をするのだろうと考えると、胸が高鳴って仕方がなかった。
誕生日当日の夕食後、直哉は逸る気持ちを抑えきれずに真幌の手を握りしめて廊下を駆け出した。
自室には用意しておいた宝物が待っている。
磨き上げられた木目調の床が、急ぎ足で走る二人の足音を響かせた。
「兄ちゃん、早よ!急がな、プレゼント待っとんねん!」
「わかったわかった。直哉はほんまにせっかちやなぁ」
真幌はくすりと微笑んで、急かす弟に手を引かれるまま、軽やかな足音を響かせて廊下を進んでいた。
その柔らかな表情を盗み見て、直哉の期待はますます大きくなる一方だ。
二人が廊下の突き当たりを曲がった時、前方にぼんやりといくつかの影が現れた。
弱く揺れる灯りの下、その輪郭が徐々にはっきりしていく。
禪院家の大人たち――酒気を帯びた濁った視線が、ふらりと揺れてこちらを捉えた。
直哉は反射的に真幌の手をきつく握り直し、自然と歩調を緩めながら廊下の右端へと寄った。
礼儀正しく会釈を交え、無難にすれ違おうとした、その時だった。
鈍い衝撃が繋いだ手を通して伝わり、背後の真幌が壁にぶつかる音がした。
「はっ、術式なしが。廊下のど真ん中なんざ歩いてんじゃねぇよ、邪魔くせぇ」
続けて嘲笑を浮かべる男が乱暴に足を振り上げ、真幌の脛すねを蹴り飛ばす。
真幌は僅かに眉をひそめ、痛みを堪えるように息をついた。
苦痛に耐える兄の表情を目にした瞬間、直哉の腹の底から沸々と煮え滾る怒りが込み上げてくる。
許せなかった。兄を傷つける者を、直哉は決して許せなかった。
「直哉、ちょ、落ち着きや?俺は大丈夫。こいつら酒のせいで少しタチ悪なっとるだけやから」
焦りを含んだ声で真幌が慌てて耳打ちするが、直哉の怒りはもう止められない。
「はぁあ?! どこに目ぇつけて歩いとんねんド底辺のカスどもが! 兄ちゃんは廊下の端歩いとったんや! わざとぶつかって来よったんはお前やろうが!五秒以内に土下座するか、潔く死にさらせやボケェ!!」
「えっ!ちょ、直哉、お前殺意速すぎん!?」
驚く真幌をよそに、直哉の罵声は加速していく。
「兄ちゃんの才能も美貌も理解できん猿人類が!息吸うだけで地球資源の無駄遣いや!」
「分かった。分かったから、直哉。な?いっぺん落ち着こ?ほら、深呼吸や深呼吸」
「胎児から出直して脳みそ丸ごと入れ替え直せや愚民!!」
「あかん、全然聞いてへん。お前の語彙はどうなっとるねん。ほんまに九歳か?」
真幌が苦笑を浮かべて頭を掻いている最中、直哉の煽りに憤った一人の男が、怒りのままに直哉に向かって手を伸ばそうとした。刹那、真幌の表情から瞬時に温度が消え、冷たい眼光を宿して男の手首を強く掴む。
「……お前、今何しようとした?まさか、まさかやけど……俺の可愛い弟に手ぇ上げようとしたんとちゃうやろな?」
明らかな敵意を飛ばし、態度を豹変させた真幌。
周囲の男たちもそれまでの余裕な表情から一転して苛立ちを浮かべ、真幌に視線を集中させた。
それでもなお、真幌の冷徹な眼差しは揺らがない。
「次に直哉に何かしたら、お前ら全員確実に息の根止めたるで。身の程知りぃや、ドブカス共」
見下していた少年の口から紡がれた罵りの言葉に、怒りを抑えきれなくなった別の男が咆哮し、勢いよく真幌に掴み掛かろうと迫ってきた。
対する真幌は鋭敏な反射で男の動きを捉え、お返しとばかりにその脛に強烈な蹴りを叩き込む。
骨が軋む不快な音と共に呻きを漏らして崩れ落ち、男は無様に転がった。
予想外の真幌の反撃に、一瞬、場が凍りついたように静まり返る。
その隙に、真幌は素早く直哉の手を掴むと、挑発的な笑顔で叫んだ。
「走れ、直哉!ずらかるで!」
痛快とばかりに笑いながら駆けだしたその背中を、直哉は尊敬に満ちた眼差しで見つめながら追いかけた。
月明かりが差し込む廊下を、二つの足音が軽快に駆け抜けていく。
ようやく辿り着いた自室の扉を勢いよく開けると、二人は転がり込むようにして中へ入った。
真幌は笑いを堪え切れない様子で扉を閉め、部屋に戻ってきた安堵感から大きく息を吐く。
直哉の部屋の窓際には、磨き抜かれた木刀や鉄製の錘具が整然と並んでいる。
壁一面を覆う書棚には、高度な術式の研究書が内容ごとに分類されており、直哉の探究心と飽くなき向上心が透けて見える。
洗練され、秩序立ったこの空間は、才能の上に胡坐をかくことなく高みを目指す彼の精神性をくっきりと映し出していた。
「兄ちゃん、なんであんな奴ら放っとくんや。実際に戦ったら兄ちゃんは秒殺できるくせに」
息を整えながら、直哉は改めて兄を見上げた。
「直哉、ええか? 喧嘩は同じレベルの奴らの間でしか起こらん。あんな奴らにどう思われても俺は構わんし、嫌いな奴に脳みそ使う時間が勿体ないわ」
真幌は視線を少し落とし、直哉の瞳をじっと見つめる。
「俺の視界には、好きな奴しか入れへん。俺の目にはいつもお前だけが映っとるよ」
その言葉に直哉の頬がじわじと赤く染まり、喜びを抑え切れずに口元が緩んでいく。
照れ隠しのように兄にクルリと背中を向けると、書棚の陰から小さな箱を大事そうに取り出し、真幌へと差し出した。
「……兄ちゃん、十歳の誕生日おめでとう。一個しか買えんかったけど、半分こしてお揃いにしよ」
小さな箱を開けて見せると、真幌の目は大きく見開かれ、次第にその瞳が喜びに満ちていった。
真幌はピアスを指でそっと撫でると、愛おしげに直哉を見つめて柔らかく微笑む。
「直哉……ほんまにこれ、俺のために?めちゃくちゃ嬉しいわ。ありがとうな。俺、世界一の幸せもんや」
真幌の声音はひどく温かで、嬉しさが隠しきれないように震えていた。
その優しい言葉に直哉の頬がさらに赤くなり、恥ずかしさと喜びが混ざり合って胸がきゅっと締め付けられる。
「ほんでな、直哉は世界一可愛い俺の自慢の弟や!」
言いながら、真幌は直哉の両肩に手をかけ、そのまま自分の方に抱き寄せた。
まるで宝物を抱くかのようにぎゅっと強く抱きしめたかと思えば、直哉の手を取ってその場でくるりと一回転。
そのまま小躍りするように部屋をぐるぐると回り始めた。
真幌の笑顔はひときわ明るく、その眩しさにつられるように、直哉の頬にも自然と笑みが広がっていく。
窓から差し込む月明かりが兄弟の絆を照らし出したその夜、二人の少年は、言葉にできないほど満ち足りた気持ちに包まれていた。