廊下を気怠げに進む五条悟の表情には、どこか皮肉めいた微笑が浮かんでいた。
その頭の中では、『禪院家の落ちこぼれ』という言葉がぐるりと巡り続けている。
その響きは悟にとって、興味よりも冷笑を誘うものだった。
禪院家――御三家の一角を占める名門にして術式至上主義を貫く厳格な家柄だ。
その禪院家で『落ちこぼれ』と評される人物がどれほど惨めで滑稽な存在なのか、想像するだけで思わず口元が緩んでしまう。
術式もまともに扱えない禪院の人間ほど、無駄に高いプライドを振りかざしていることを悟はよく知っていた。
恐らく、目も当てられないほど面倒くさい相手に違いない。
心の中に沸き起こるのは警戒心ばかりだ。
加えて、禪院家特有の息苦しいまでの抑圧感が悟はひどく苦手だった。
あの家に生まれた人間は皆、堅物で融通が利かず、退屈なやりとりしかできないことを経験的に知っている。
わざわざ禪院の人間を相手にしなければならないと思うと、悟は自然に気が滅入った。
同級生などどうでもいいとさえ思えてくる。
何かを期待する余地などどこにもなく、ただただ早く顔合わせを済ませたいという気持ちだけが募っていった。
そうした諦めに似た感情を抱きながら、悟は教室の扉の前で足を止めた。
スライド式の扉に手をかけると、何の感慨もなくそれを開ける。
「――一緒に入ろう。店に寄ってたら遅れちゃうだろ?」
しかし次の瞬間、悟の視界には予想を完全に覆すような光景が飛び込んできた。
教室の中央では、金髪の少女が何故か傘を広げて立ち、その腕の中に黒髪の少女を抱き寄せている。
「……いや、いいよ。こういうのは男の私に任せて欲しい」
金髪がきりりと顔を引き締めて囁くと、黒髪の少女は何故か突然、声を出して笑い始めた。
その笑いに釣られたように、金髪の少女も大口をあけて明るい声を上げている。
その傍らでは特徴的な前髪の青年が額に青筋を浮かべ、拳を握りしめながら激昂していた。
「いい加減にしろ!一体いつまでそのふざけた真似を続ける気だ!」
「ええやん、そんなカリカリせんといてや。ちょっとした可愛い冗談やん」
金髪の少女は反省のない顔で傘をくるりと回してみせる。
そうして再び表情を引き締め、黒髪の少女の手をそっと取り、真剣な声音で口を開いた。
「……さあ、共に行こう。君を濡らすわけにはいかへんのや」
「そんな台詞は言ってないだろ!捏造するのは流石にやめろ!!」
その芝居がかった口調と大真面目な表情に、黒髪の少女は再び腹を抱えて大笑いしている。
「あはははッ!不意打ちはずるいって、その表情もずる過ぎ!」
「見てみ、傑。女の子あんなに笑顔にできてんねやで。お前の黒歴史も浮かばれるってもんやろ」
「君が勝手に浮かばせるな!むしろ沈めてくれ!!」
青年の叫びに金髪の少女が朗らかに手を叩く。
その自由奔放で開放的な笑顔は、朝の雨雲を吹き飛ばすような明るさに満ちていた。
その輝きに、悟は思わず釘付けになった。
悟にとって、目の前の光景は初めて触れる世界だった。
冗談を言い合い、飾らず自然に笑い合う――そんな経験は、悟の育った厳格な環境では許されるはずもないものだった。
目の前少年少女の無邪気なやり取りが胸の奥に入り込み、自覚すらなかった憧れと羨望を呼び覚ましていく。
予期せぬ感情に戸惑いながら、悟は動けずにその場に立ち尽くしていた。
しばらくして、ふいに金髪の少女がこちらの存在に気づき、ぱっと華やぐような笑顔を向けてきた。
「お、ラスト一人来とるやん。おはよーさん、待っとったで」
その言葉に悟はようやく我に返り、軽く動揺して瞳を伏せた。
「こっちおいでーや。君、五条さんところの悟くんやろ?お噂はかねがねや」
唐突に自分の名前を呼ばれ、悟は思わず眉をひそめる。
だが、教室内の和やかな雰囲気に引っ張られるように一歩踏み出し、控えめに自己紹介をした。
「……五条悟だ」
「家入硝子。よろしく」
「夏油傑だ。騒がしくてすまないな」
最後に、金髪が高々と手を挙げる。
「禪院真幌!好きなものは弟、嫌いなものは実家。術式なしのフリースタイル、特技は傑をおちょくること、趣味は傑の黒歴史コレクション。どうぞよろしゅうな!」
「即席の特技と趣味に私を巻き込むんじゃない!」
傑がすかさず声を荒げると、真幌は屈託なく笑った。
その様子を見ていた悟は、驚きで一瞬目を見張った。
禪院家の『落ちこぼれ』と聞いていた人物が、まさかこんな陽気な少女だったとは想像もしていなかったからだ。
面食らっている悟に追い打ちをかけるように、硝子が情報を付け加える。
「ちなみに禪院、男だから。みんな最初は勘違いするけど」
「えっ、男?」
悟が思わず声を漏らすと、傑は苦々しい顔で頷いた。
「私もさっきまで完全に騙されていたよ」
「騙してへんよ?君らが勝手に誤解しただけやろ」
真幌は涼しげな表情で肩をすくめ、傑はため息をつきながらこめかみを揉んでいる。
そんなやり取りを見守っていた悟が、不意に思い出したように問いかけた。
「さっきの……あの傘の芝居、あれって一体何やってたんだ?」
その言葉に、真幌は待ちかねていたように笑みを深めた。
「ああ、あれな!傑が雨ん中、俺を口説こうとしてきたときの再現!」
「ちょっと待て!!」
傑が激しく狼狽え真幌を睨みつける。
だが真幌はそんな反応さえ面白がり、茶化すような態度で眉を跳ね上げた。
「再現じゃなくてフィクションだろう!完全に誇張してたじゃないか!」
「なにお前、初日から女口説いてたの?」
「だから男だって言っただろう!」
「それはそれでヤバくね?」
悟の問いに傑が慌てふためく姿を見て、硝子は口元を押さえて笑いをこらえている。
今日が四人初対面とは思えないほど賑やかな空気が流れる中、真幌はふと悟の顔を見つめ、好奇心に満ちた瞳で首を傾げた。
「そう言えば君、室内やのに何でサングラスかけとんの?外したらええのに」
言うが早いか、悟のサングラスをさっと取り上げた。
突然視界が明るくなり、悟は驚いて動きを止めるが、すぐに小さく舌打ちをして手を伸ばす。
「俺は目が良すぎて疲れちまうんだよ。返せって」
拗ねた口調で文句を言いながら手を伸ばした悟だったが、その動きが不自然に空中で止まった。
視界に真幌をはっきりと捉えた瞬間、青い瞳孔が微かに揺れる。
悟の表情が硬直し、静かな緊張が場を包んだ。
「……お前、なんで――」
問いかけの声が漏れかけたその時、真幌は穏やかに口角を持ち上げ、人差し指を口元に添えて悟を制した。
「しーっ」
悪戯めいた表情で悟を見つめ、身体を斜めに傾けながら声をひそめる。
「怖いなぁ、君。噂には聞いとったけど、ほんまに視えるんや」
真幌はゆったりとした動作で悟の顔にサングラスを掛け直してやった。
細い指先が悟の頬を掠め、微かなぬくもりが触れ合った。
「内緒にしといてな?」
可愛らしく小首を傾げて悟の顔を覗き込む真幌。
その言葉に、悟は興味深そうに口の端を持ち上げた。
その瞳には、まるで新しい玩具を見つけた子供のような純粋な興味が煌めいている。
「……はは、聞いてたよりもっと面倒臭そうじゃん」
二人だけに通じるような共犯めいた雰囲気がその場をそっと支配した。
かと思えば、その静寂を打ち砕くように、廊下から重厚で規則正しい足音が近づいてくる。
それは徐々に音量を増し、ついに勢いよく教室の扉が開かれた。
「お前ら、さっさと席につけ!早速授業を始めるぞ!」
現れたのは、体格の良い強面の大男だった。
男はがっしりとした腕を組みながら、堂々とした足取りで教室の中央へと踏み出した。
威厳に満ちたその姿は一見すると近寄りがたい印象を与えるが、同時にどこか温かく安心感のある雰囲気を漂わせている。
その存在感に自然と引き込まれ、生徒たちの視線が一斉に彼へと集まった。
「夜蛾正道だ。今日から一年間、お前たちの担任を務めることになった。よろしく頼む」
低い声で挨拶を終えると、夜蛾はぐるりと教室を見回す。
その眼差しには厳格さだけでなく、生徒たち一人ひとりへの期待が込められているようだった。
教室内の緊張はゆるやかにほぐれ、生徒たちの胸には新たな日々への淡い期待が芽生えていた。