※幼少期にマトモな人間が側にいた直哉少年はかなりマトモですが、マトモな人間が居なくなってからは必ずしもそうとは限りません(原作に寄っていく)
午後の日差しが柔らかく障子越しに差し込み、直哉の部屋をぼんやりと照らし出していた。
広大な禪院家の屋敷は、昼間でもどこか静けさをまとっている。
机に向かい参考書を開く直哉の耳に届くのは、壁掛け時計の乾いた秒針の音ばかりだった。
焦りが指先を鈍らせ、ページを繰る動きが幾度も止まる。
そのたびに視線はちらちらと時計に向き、胸の奥に絡まり合う期待と苛立ちが、集中力を奪っていた。
兄の真幌が呪術高専に入学して三ヶ月が過ぎた。
月に一度、近況を知らせる手紙を送る――兄と交わしたその約束の日が、まさに今日なのだ。
「遅いな……そろそろ届く頃やのに」
直哉は禪院家次期当主の有力候補として、周囲からの大きな期待を背負っている。
そんな直哉が術式を持たない落ちこぼれの兄を慕うことを、父・直毘人はよく思っておらず、その負感情は年々露骨に増大していた。
直毘人は二人の親密さを引き裂こうと画策し、直哉は携帯電話を持つことすら許されず、三カ月前、真幌との自由な連絡手段を完全に奪われてしまっていた。
頼みの綱は、直毘人の目をかいくぐって月に一度届けられる、この手紙だけなのだ。
「あかん、勉強どころやない……」
切実な呻きを漏らしたその時、扉の外から控えめな声が静寂を破った。
「直哉様、失礼いたします」
その声に直哉の表情が一気に明るくなり、急ぎ足で戸口へ向かって戸を開く。
そこには深々と頭を下げた女中が、白い封筒を手に待機していた。
「今回も匿名でお預かりしました。くれぐれもお気をつけください」
「待っとったで!……父さんには見つかっとらんか?」
直哉の問いに、女中は安心させるような笑みを浮かべた。
「ご安心くださいませ。直毘人様には気づかれておりません。いつも気を張っておりますから」
落ち着いたその声が、直哉の張り詰めていた心を僅かに和らげる。
毎月こうして兄からの手紙を受け取るのは、実のところ容易なことではない。
この女中は、少なからず危険を冒しているのだと、直哉もちゃんと理解していた。
「毎回ほんまに苦労かけるな。危ない橋渡らせて……」
直哉が眉間に力を込めると、女中の表情はふわりと緩む。
「いいえ。真幌様には私ども皆、ずっと救われておりましたから」
落ち着いた口調の中に秘められた思いの深さを、直哉はよく知っていた。
禪院家の男たちは、伝統的に女性を下に見る傾向が強い。
だが真幌はそんな禪院家の在り方に反発し、理不尽に扱われる女中たちを進んで庇い、時には自ら矢面に立つことすらあった。
それ故に、真幌が屋敷を去った後も、彼を密かに慕う女中は多かった。
兄をずっと近くで見てきた直哉も、自然と屋敷の女性たちには丁寧に接する癖がついており、真幌が残した温かな影響は、こうして今も彼女たちの中で息づいている。
「兄ちゃんがおった頃は、もう少しこの家もマシやったんやけどな……」
ぽつりと呟く直哉に、女中は頷いてみせる。
「真幌様と直哉様が少しでも心穏やかに過ごされるよう、私どももできる限りのお手伝いをさせていただきます」
「ほんまに助かっとるよ。ありがとうな」
直哉が感謝を込めて肩を叩くと、女中は静かに一礼し、足音を立てぬように去っていった。
封筒を手に机へ戻った直哉は、胸の高鳴りを抑えながら慎重に封を切った。
中を覗けば、折り畳まれた手紙と金属製の栞が入っている。
「兄ちゃん、また贈り物入れてくれたんか……わざわざええのに」
繊細に作られた栞を指先で撫で、その美しさに思わず微笑む。
先月にも贈り物を入れてくれていたことを思い出し、兄のさりげない心遣いに胸が温かくなった。
『直哉、元気にしとるか?俺、高専で友達ができたんや。みんなええ奴ばかりで、毎日楽しくやっとるよ。こないだは皆で東京の渋谷ってところに出かけて――』
やや丸みを帯びた字で記された兄の言葉は、朗らかで飾り気のない真幌の口調そのままだった。
その文面には家にいた頃の息苦しさは微塵もなく、純粋な楽しさが伝わってくる。
それが直哉には痛いほど嬉しく、それと同時に切なかった。
真幌は禪院家現当主、禪院直毘人の長男でありながら、術式をその身に宿すことなく生まれ落ちたため、『失敗作』と後ろ指を指され続けて生きてきた。
そんな禪院家特有の束縛や息苦しさを嫌っていた真幌は、直毘人に呪術高専への入学を命じられた時、それを自由を得る絶好の機会として喜んで受け入れた。
真幌本人は気にしていないようだったが、それは露骨な厄介払いだった。
直哉は兄を取り巻く粗雑な扱いを憎み、真幌を守り抜くことができない自分自身に苛立った。
けれど今、手紙から伝わる充実した日々を送る真幌の様子に、彼を送り出した選択は間違っていなかったのだと安堵する。
「兄ちゃん、ほんまに楽しそうやな……」
真幌がこの家の重圧から逃れ、外の世界でのびのびと過ごしていることが喜ばしい。
その一方で、兄の隣に自分以外の誰かがいる――その事実が、耐え難いほどに辛かった。
直哉は手紙を繰り返し読み返しながら、兄が去った日の記憶を鮮明に思い出す。
あの日、本当は泣き叫んででも真幌を引き止めてしまいたかった。
けれど、それが誰のためにもならないことを知っていたから、無理矢理に笑顔を作って兄の背中を見送ったのだ。
「俺も、そっちに行きたいわ……」
真幌が消えた後の直哉の日常は、色彩を失ったかのようにひどく空虚になってしまった。
叶わぬ願いが胸を焦がす。唇が苦く引き締まる。
『直哉は相変わらず頑張っとるんやろうな。直哉の夢、兄ちゃんは誰よりも応援しとるよ』
真幌が指し示す直哉の夢――それは、表向きは禪院家の当主になることだった。
しかし、その裏にある本当の願いは、真幌が堂々と暮らせる居場所をこの家に作り、真幌を側で守り抜くことだ。
そのためだけに直哉は日々、死に物狂いで術を磨き、勉強に打ち込んできた。
だが、その真意を真幌に告げることは未だできていない。
優しい真幌のことだ。
直哉の思惑を知れば、『自分が弟の足枷になっている』と、ひどく気に病んでしまうに違いない。
それは直哉にとって、一番避けたいことだった。
それに加えて、真幌はいつも照れもなく愛情を言葉で伝えてくれるが、直哉はどうしてもそれが苦手だった。
兄への想いは、口にすればどこか照れ臭く、行動で示すことしかできないのだ。
手紙を丁寧に畳み直し、直哉はそっと引き出しの奥にそれをしまった。
胸に残る温かな余韻を感じながらも、自分が兄に返事を書くことすら許されない現実が胸を締め付ける。
真幌から届く郵便物は、一般の配送業者を通じ匿名的に運ばれてくる。
真幌自身も、禪院家の厳しい監視を避けるため、外観に巧妙な細工を施してくれていた。そのため直哉は、密かに協力してくれる女中を介して、兄からの手紙を無事に受け取ることができている。
だが一方で、直哉から外部へ何かを送る場合は、状況がまるで違う。
禪院家専属の配送業者を通じなければ発送は許されず、その際には必ず直毘人本人の署名が必要とされるのだ。
一般的な郵便局や配送業者を利用することは直哉には禁じられており、女中がこっそり代行しようとしても、その行動は即座に屋敷内で疑いの目を向けられるリスクを伴う。
「ごめんな……俺、まだ何もしてやれへん」
胸に込み上げる悔しさに、直哉は奥歯を噛み締めた。
ゆっくりと深呼吸をして気持ちを整えると、再び机に向かう。
兄を取り戻し、兄が安心して戻れる場所を作るために、この家を自分の手で変えるしかない。
そのためには誰にも負けない術と知識を身につけ、禪院家の当主という絶対的な地位を手に入れなければならない。
「……兄ちゃん、見とってな。俺、絶対当主になってみせるから」
自分を鼓舞するように呟き、直哉は決意を新たに参考書に目を走らせ始めた。
窓辺から差し込む柔らかな午後の日差しの下で、直哉の左耳には今日も兄とお揃いのピアスが輝いている。