「あれ?また一杯?」
ここオールドワンではジムの満員状態が続いていた。
木星船団公社の評議員を中心にオールドワンには中高年が多い。
運動をサボりがちの彼らがこぞって運動を始めたのだ。
皆、入学式にケチを付けてはいけないと、健康管理に本気なのだ。
「空いてなきゃ仕方ない。走るか。」
ジムが空いていないので、人口重力の効いている居住区でジョギングをする人間も増えた。
オールドワンの医師や看護師は老人たちが急に運動量を増やして、逆に倒れないか心配らしい。
ジムに頻繁に顔を出しては、目を光らせているようだ。
オールドワンの奇妙な義務感は、あっという間に伝播して、木星圏の各所で健康ブームがはじまった。
木星船団公社は公式に「過度な運動」と「急激な運動」について注意を促しはじめた。
元々、低重力下では人間は時間と強度を決めて運動をしないと健康は維持できない。
そのため、どんな居住施設にも運動用の場所と器具が設置されている。
その需要と供給のバランスが食い違い始めたという事だ。
ジムの混雑時を避けて、夜中にトレーニングする人間も増えてきた。
「そういえば新しく建造中の木星大気圏内基地は本格的なジムが入るらしいな!?」
「おお、俺たち一般人が行けるようになる日が来るとは思えんが、夢があるよな!!」
ヒカリが混雑気味のアザニアのジムで運動していると、そんな声がどこからともなく聞こえてきた。
ヒカリ・フリースは30歳になった。
さてヒカリは前述の理由で娘のミライの入学式のため、またカリストからオールドワンまで移動しなくてはならない。
本当はそこそこきちんとした身なりで参加したいところではあるが、実は木星圏では衣類の選択肢がとても少ない。
まず、木星圏はちょっと何かあるとすぐ超低温のリスクに曝される。
そのリスクを少しでも低減するために、木星圏の人間は特殊な発泡素材のスーツを常用している。
万が一、気温が急激に下がった時などに数分間であれば超低温に耐えられるシロモノだ。
スーツにはフードもついており、顔まで覆うと超低温による呼吸器の損傷も短い時間なら防ぐことができる。
スーツと共に木星圏の特徴的な装備は靴だ。
低温で靴が凍り付くと避難できなくなるため、マイナス200℃に30分間耐える設計になっている。
あとは、手袋をフードの中に隠して生活するのが木星圏の一般的なスタイルだ。
ヒカリが木星圏にわたってきたときはまだ確立されていなかった生活スタイルだが、細かい事故や不具合によって培われたノウハウが木星人の生活スタイルに組み込まれていっているのだ。
顔まで覆えるフードなどはJ・メチウスステーションの事故の時からあれば、ずいぶん皆が安心できただろう。
とはいえ、娘の入学式に着ていく服を選べない事実に変わりはない。
ヒカリは、「男性の自分よりもクロエはもっと渋い顔をしているのではないか?」と考えたところでやめた。