J・メチウスステーションは木星圏の多くの拠点がそうであるように天体望遠鏡の発明と発達に寄与した偉人の名前が付けられている。
その偉人の名前が最悪の事故の犠牲になろうとしていた。
ヒカリは自分のスペーススーツが膨らんでいくのを感じた。
「思ったより減圧が早い!」
カーゴシップでJ・メチウスに来たヒカリ、リシュモン、イリーナ、チンペーの四人は、乗ってきたカーゴシップにまずは戻った。
そして、カーゴシップ内にある予備のスペーススーツを抱えてステーション内に戻る。
「ヒカリ!漏出箇所を発見しても近づくなよ!!吸い出されるぞ!!」
リシュモンのヘルメット越しの声が見た目以上に遠い。
気圧が下がっているのだ。
ステーションの中で意識不明になって漂っている人間は今のところいないようだ。
不意にヒカリは誰かに頭突きされた。
「君たちも無事だったようだ。」
空気の無い場所で会話をするには、ヘルメットを接触させて、音の振動をヘルメットからヘルメットに伝える方法が有効なのだ。
「イェンさん!」
「状況は極めて悪い。どうやら、減圧事故時に下りるはずの隔壁が下りないようだ。まもなくステーション内は真空になる。私とダランの二人だけなら乗ってきたクルーザーで脱出できるが、二人乗りだ。」
そこへリシュモンとダランも近づいてきた。
「隔壁が閉じない!スペーススーツの酸素も持たないぞ!」
ここまで船で来ているヒカリ一行とイェン一行は、自分たちの船に戻れば自分たちの酸素は確保できる。
問題はステーション内の人間だ。
現行のスペーススーツの貧弱なタンクに入るエアはもって20分程度。
二酸化炭素濃度が上がるのを無視して運用すれば30分は持つだろうが、よほど強い精神力のある人間ではないと気絶してしまう。
ステーション内にはエアを補充できるタンクが点在しているが、補充にはそれなりに時間がかかる。
50名はいるJ・メチウスでは人数が多すぎて話にならない。
おそらく、タンク前のノズルの奪い合いになるだろう。
「加速が止まったな」
ヘルメットを寄せ合い、ダランが言った。
空気が漏れることによってステーションは噴射している状態になり回転を伴って動き始めた。
その加速を感じなくなったということは、吹き出すものが無くなった……すなわち真空になったのだ。
この段階でスペーススーツを着損ねた人間はもうどうすることもできない。
視界の端でチンペーがカーゴシップの方へ手招きしている。
逃げたいのだろう。
このままステーション内にとどまると、軌道を反れたステーションごと木星に落下する可能性もあるが……
「まず、ステーションが他のステーションに衝突するリスクはほぼゼロだ。木星圏を緩やかに脱出するか、逆に緩やかに木星かそのほかの衛星に落下するか。しかし、ここまでさほど強い加速度を感じなかったところから、そうなったとしてもかなり時間がかかる。」
リシュモンが冷静な意見を述べた。
いつもと口調が違う。
「リシュモンさん、問題はステーション内の人たちだ。そろそろ真空になったのに気づいて出てくると思うが、状況に気づいて他のステーションから救援が来るまでエアが持たない。」
視界の端にステーションの人間が慌てふためく様子が見えた。
なんとか隔壁を下げて、一部の区画だけでも気密にしようとしているようだが、上手くいっていない。
もし、どこかでも隔壁を下げれたら、エアの備蓄はあるのだ。
「隔壁を下げるプランは彼らに任せよう。」
ヒカリはそう言いながら続く自分の言葉に迷っていた。
隔壁が下がった時に邪魔にならないように、自分たちは自分たちの船で脱出するのもテだ。
「見捨てた」と責める人間はいないだろう。
しかし、隔壁が下がらなかったらどうだろう。
このままだとエアの取り合いになるのは見えている。
カーゴシップですら4人で宇宙旅行するには十分なエアを確保しているが、50人となるとどうにもならない。
そもそも二酸化炭素のフィルター能力が追い付かない。
しかし、もともと貨物船なので立って乗るのであれば50人はゆうに入る。
「今、このステーションにドッキングしているのはそちらのカーゴとうちのクルーザーだけだと思われる。」
「……冷静になろう。」
急にヒカリはそう口に出した。
別に狼狽しているつもりもなかったが、リー老人の教えを思い出した。
「ボクは愚か者でも悪人でもない。二者択一を自分に迫っちゃダメなんだ。」
「ほう……」
イェンがヘルメットの偏光越しにヒカリを見つめた。
この目の前の青年がリー老人の教えを受けた人間であることは疑いようもなかった。
「『逃げる』と『見捨てない』の中間の答えを出すんだ……」
リシュモン、イェン、ダランの3人がヒカリの閃きを予感した。
たった数秒間が永遠のように感じる。
真空が作る完全な静寂の中に4人のスーツの中の音だけが響いていた。
「カーゴシップの中に全員分のエアを持ち込もう!」
「不……!」
リシュモンが「不可能」という言葉を引っ込めた。
それを言ってしまったら負けだと悟った。
不可能を可能にするアイディアが必要なのだ。
ーーエアの取り合いになったら最悪、純酸素を使うしかないか……
ーー隔壁が下りないんじゃない!!このステーションは隔壁が無くなってるんだ!!
ーー最悪、客人の船を奪って、私と家族だけでも……
ヒカリは集中するあまり幻聴を聴いたと思った。
しかし、どこの誰の心の声かおぼろげながらわかる。
ーーエアの補充用ノズルを増築するにも、今からじゃ時間が足りない……
これはダランの心の声。
ーー最悪、ヒカリが抵抗しても、力づくでも連れて帰らなきゃ、フリースさんに申し訳が立たない……
これはリシュモンの心の声。
ーーもしここで全員を助けられなかったとしても。ヒカリくん……君に出会えただけでも、大収穫だよ。
これはイェンの心の声。
「分かった!このステーションにも酸素が独立して貯蔵されています!おそらくエアのタンクに比べれば格段に小さいでしょう!それをカーゴシップに移動しましょう。そして直接、カーゴシップ内でボンベを開きます!」
「酸素濃度が高くなりすぎる!避難先にたどり着く前に全員の脳が焼けてしまいます!」
そう返したイェンの心の声も同時に聞こえた。
ーーヒカリくん!その調子だ必ず答えにたどり着けるはずだ!
ヒカリはうっすらと自分が心の声を聴く人間に進化したのだと自覚していた。
しかし、今はそれどころではない。
「約50人が吐く二酸化炭素はどうするんだ!うちの船の機能じゃ除去しきれない!」
ーーしかし、酸素の量さえ足りれば生存だけはできるはずだ……
リシュモンの心の声も聞こえた。
「若!プラント見学の時に廃棄される」
「ヘリウムだ!!」
最後は全員が声に出した。