サイコバンドの完成をもって、アザニア基地の研究チームはミノフスキー断章の研究で一定の成果を上げた。
さて、ヒカリの母、アヤメ・フリースは元はミノフスキーの研究所に出入りする一介の派遣事務員に過ぎなかったが、派遣元とはまた別の企業から報酬を受け取ってミノフスキーの研究をリークする産業スパイでもあった。
かれこれ結婚するずいぶん前からその任務に就いていて、その間にクラーク・フリースと結婚し、ヒカリを産んで育てていたような形だ。
アヤメはスパイとはいえ所詮は一回の事務員。
ミノフスキーの研究からはやや遠い場所にいたため、アヤメがリークしていたのは主に実験に使う資材、機器、そのほか物品の経理情報だった。
それ自体は情報漏洩としても決してリスクが高い情報ではなかったが、アヤメは別のことで焦っていた。
派遣会社から得る収入と、産業スパイとしての収入を両方得ていたため税務関係で目を付けられるリスクが高まったのだ。
一年戦争勃発で公国税務局の動きが鈍ったが、放置しておけばアヤメの隠し資産がバレるのは時間の問題だった。
隠し資産とは言っても大した額ではない。
ミノフスキー博士の死去をきっかけに、後にミノフスキー断章と呼ばれる研究ノートに興味を持つ集団が木星にいることに偶然気づいたアヤメは、夫をそそのかしてミノフスキー断章と家族と共に木星圏へ移住する計画を立てる。
木星圏はもう今日明日にでも地球連邦の支配を離れ、公社化するといわれていたご時世、逃げ込む先としては格好の場所だった。
そして、アヤメはクラークとアザニア基地の間を取り持ち、木星移住計画を決行したのだった。
「ここで問題になるのは」
サイコバンドの完成にはしゃいでいるであろう夫と子供のいない家でアヤメはくつろいでいた。
「どうしようかなあ……」
アヤメは地球圏で持っていた隠し資産を物資に替えてジュピトリスに持ち込み、木星圏で早々に売り払って通貨に替えていた。
なので木星圏外では使いにくいというだけで意外と裕福だった。
生活には困っていない。
ただアヤメはジオン公国と地球連邦から逃れてきただけで、元々スパイとして雇われている企業と縁を切ったわけではなかった。
ただ、地球圏と木星圏の間の通信が一般人は暗号化できないレーザー通信であるため、企業と連絡が取れないというだけだ。
地球からの船は13か月に一度来る。
木星圏に来て3年余り、その間に企業からの手紙を持ってきた殊勝な連絡員は一人だけだった。
それもミノフスキー死去によってひとまず契約は解除……といった事務的なものだ。
このまま、スパイ活動なぞやめて木星に骨をうずめることを考えるか、はたまたサイコバンドの研究成果を企業にリークしてもう一儲けを考えるか……。
アヤメは別に家族が嫌いなわけでも離れたいわけでもない。
ただ、イデオロギーに凝り固まった地球連邦もジオン公国も嫌いで、どちらかと言うと経済活動に邁進する宇宙企業の在り方の方が好きだというだけだ。
ただ、自分がその企業から重用されていた自覚はない。
なので、今回、サイコバンド技術を企業にもたらせば、自分を軽んじた連中の鼻を明かせるかもしれない。
ただ、そのために夫を裏切るのも忍びない。
出世欲と家族の間で揺れ動いている。
「サイコバンドなあ……」
アヤメにとっては一生に一度あるかないかの大きなチャンスには違いない。
「そんなに悩むんでしたら、ご自身でサイコバンドの量産事業をされてはどうですか?」
「え!誰!?」
目の前に立っていたのはイリーナとかいう女性だった。
息子のヒカリとJ・メチウスステーションの事故で活躍した人間の一人だ。
「私、声に出ていました!?」
イリーナは首を振った。
「私、ニュータイプなので。」
実際にはニュータイプであってもイリーナはさほど強力なニュータイプではないからそこまでは分からない。
ただ、ヒカリと同様にアヤメを疑っていた……いや、血縁関係がない分、かなりアヤメと言う人間を早くから疑っていたので、地道に調査していたのだ。
イリーナを突き動かす動機、それは木星圏での自身のスローライフを守ることであった。
「それは……そうですね……ニュータイプの研究の間近にいたのに、なんで自分の心が読まれないと思っていたんでしょうね。バカですね。」
イリーナはアヤメの強い心の痛みを感じ取った。
この距離なら余裕だ。
「ヒカリさんはあなたが何を隠しているか知りませんよ。」
「本当ですか!?」
イリーナは頷いた。
「ただ、何かを隠していると思って心配しているだけです。隠し事のない人間はいません。」
そうイリーナは言いながらリシュモンの顔を思い浮かべた。
全く思念が読めない男。
でも、恐らく悪人ではない。
「私が『自分はニュータイプだ』と気付いたときに最初にできるようになったことは、無意識に人の心を読まないことです。正直そうしないと生きていけません。」
イリーナが研究者たちによるニュータイプ狩りから逃げおおせた理由でもある。
「イリーナさん」
「はい」
「助けてくれてありがとうございます。」
イリーナはフリース家の冷蔵庫を勝手に開けると、中から缶ビールを一本とりだした。
「これで貸し借りはなしってことで。」
そういうとフリース家を出て行った。
アヤメ・フリースは翌朝、夫を研究室に送り出し、非番の息子がベッドで眠り呆けているのを見ると、化粧をして、スーツを着て、アパートを出た。
その足でアザニア基地の信用金庫に出向く。
「アヤメ・コガミです。」
貸金庫から旧姓の通帳を出すと、正確な残高を確認した。
そのまま通帳をもってアザニア基地の所長、カーンのところへ赴く。
受付に声をかけ所長室の前で20分も待つと、アポイントも取っていないのにカーン所長が現れた。
「改まって、どうされました?」
所長は驚いた顔をしつつもアヤメを所長室に通した。
クラーク、ヒカリとよく顔を合わせることもあって、所長はアヤメも度々挨拶する。
ただ普段着のアヤメを見ることはよくあっても、ビジネススーツを着たアヤメは初めて見る。
所長は襟を正して座りなおした。
「急にお時間作っていただきまして恐縮です。」
「いえこちらこそ、今までなかなかきちんとご挨拶もできておらず失礼しました。所長のカーンです。本日はどういったご用向きで。」
アヤメは言葉を選びながら慎重に切り出した。
「夫クラークも参加しておりますアザニア基地の研究チームが『サイコバンド』という装置を開発したと伺いまして。」
「はい、おっしゃる通りです。」
カーンはアヤメがフリース家の人間としてこの場に来ていないことを表情と立ち振る舞いから感じ取っていた。
カーンもまた慎重に言葉を選んでいた。
今、この場はカーンの経験上「しくじってはいけない」場所だ。
「私はサイコバンドの製造と販売に、個人投資家として出資したいと考えておりまして。カーン所長にご相談に参りました。」
カーンは「そう来たか」とやっと納得した。
確かに明文化されてはいないが、アザニア基地内の数多ある研究室は所長の管理下にある。
研究成果についての取り決めはなされていないが、今このタイミングでそこを明確にする必要がある。
発明に浮かれていた研究者たちと比べて、このアヤメ女史のなんとしたたかなこと。
「フリースさんの意向は分かりました。しかし、まずはアザニア基地と研究チームの間でサイコバンドについての特許について権利関係を明らかにさせて頂きまして、その後にフリースさんの出資について検討させていただきたいと思いますが、いかがでしょうか?」
アヤメは小さく息を吸うと
「よろしくお願いいたします。急な申し出にありがとうございます。」
と答えた。
そして、一礼すると「お時間いただきました」と言って所長室を出ようとする。
「ご家族には話がまとまるまで内緒にしておけばよろしいですかな?」
カーンの声に、アヤメは振り向いて微笑んだ。