イリーナは診察室に呼ばれて顔を出した。
「はい?私、なんか検査の結果に不調ありましたか?」
イリーナはそんなことがないと分かっていながら、軽口をたたいた。
カーン診療所所長兼、アザニア基地所長は「まあ、それに近い話だ」と大嘘を言って他の看護師や事務員を追い払った。
「騒音調査の結果、ニュータイプに感情を読まれない訓練をしている人間は想像よりも多いことが分かった。」
「ついでに言うと、体調不良で来院した方には感情が読めない方はあまりいないようでしたが、代わりに『多分、お前も工作員?』みたいなメンタルの人はそこそこいました。」
カーンは診療所の安い椅子に深く腰を掛けて背筋を伸ばした。
「まあ、木星圏はそういう場所だからな。」
「それはよく存じております。」
「あれから考えたんだが、木星圏の人間にミノフスキー断章陰謀論者はほぼいない。もしくは、いない。」
イリーナは少し考えを巡らせた。
「なるほど、地球圏から『探せ』って言われてるから探してるだけで、本気で信じてる人間はいないだろう?という予測ですね。」
「そうそう、そういうことだ。」
しばらく二人は黙っている。
イリーナがぼそっと口を開いた。
「なら、あんまりやる気も出ないか……」
「やる気もないのにお互いを監視させられている社会って事だ。」
ため息交じりにカーンが吐き捨てる。
イリーナが「それはそうと……」と切り出す。
「それはそうと……本当にめんどくさいのは陰謀論が出たあとにジュピトリス級に乗ってこっちに来る人間?」
「なるほど、それはめんどくせえな。」
ぼやくカーンを置いて、イリーナは立ち上がった。
カーンはそれを見て、相手がニュータイプだと会話の切れ目まで察してくれるのかと、便利なような、薄情なような何とも言えない気持ちになった。
*****
一方、ヒカリは基地内のそこそこ往来がある通路に面したカフェで待ち合わせの相手が来るのを待っていた。
前下がりボブのその同じぐらいの年齢の女性は、ヒカリを見た瞬間に一瞬ひるんだような動きを見せた。
ヒカリの目の前まで歩いてきた女性は、「クロエです、初めまして」と名乗ると、ずいぶん困った顔をした。
ヒカリは自己紹介されたので、自分も立ち上がって「ヒカリ・フリースです。よかったら座ってください。」と言うと、相手が座るのに合わせて自分もゆっくり座りなおした。
ーーこの方、ニュータイプだ……
相手からも同じ戸惑いの感情が感じられる。
ヒカリのポケットの中で盗聴器が近くにあることを知らせるアラートが鳴った。
ヒカリがニュータイプであることはそう多くの人間が知ることではない。
と言うより、木星圏ではあまり偏見もないが公表する人間も公表される人間も多くはない。
ヒカリはこの日なんとなく……主にファッション的な理由でサイコバンドをつけていないため、見た目でもわからない。
その様子を遠くから双眼鏡で監視している人間がいた。
オズモンドだ。
「わざわざ、カフェの見える会議室まで借ります??」
「ヒカリが狙撃されたらどうすんだ!」
クルマタニに小言を言われながら、オズモンドは周囲の警戒を続ける。
「本当の恋がはじまっちまうかもしれないだろ!」
「はいはい。とりあえず、盗聴電波見つけたんで、なんか雑な音源混線させておきますね。」
オズモンドはヒカリと少女の会話を盗聴しているであろうバンドに、近所のスタジオでバンド練習しているであろうバンドのエレキギターのワイヤレスの音を流し込んだ。
「カフェの客が一人、デカい音にびっくりしたようなそぶりを見せたね。やるじゃんクルマタニ!これで二人の恋路を邪魔する奴は……」
「目的代わってませんか?」
そのころ、当の二人はまだ会話を始められずにいた。
オズモンドは昨日必死でマニュアルを見て覚えた読唇術のを使って会話を読み取ろうとしているのだが、そもそも何もしゃべっていない。
「青春だね!青春だよ!!」
「何もしゃべってないだけですよね?」
クルマタニは別のカメラで二人の様子を捉えていて、そちらにはデジタル映像処理で読唇術をさせるアルゴリズムが組み込まれている。
「あ!しゃべった!『お嬢さんおきれいですね』だって!!」
クルマタニは自分のノートパソコンの画面に「いい天気ですね」「はい、アザニア基地は気象シミュレーターがないので」と表示されているのを眺めている。
それを横目にクルマタニは相手の「クロエ」と名乗った女性の素性を検索中だ。
情報によると、クロエは本名だ。
クロエ・オジャイル、24歳。
もっと若く見えるがヒカリとは6歳差だ。
20歳の時にエンジニアの両親と共に木星圏に移住。
本人も親もそんな真っ黒な印象は受けないが、念のため周辺人物を洗うように依頼は出しておくべきだろう。
クルマタニが見ていると、急にクロエから「どこか楽しいところに連れてってください」と言っている。
ヒカリが「それじゃあ」と何か考えている。
「いいね!いいねえ!あの娘『お仕事何されてるんですか?』って!!」
クルマタニは、はしゃぐオズモンドの双眼鏡をひったくると、身の回りの装備を片付け始めた。
「何言ってるんですか。ヒカリくんとお相手さまは、今から作業機械試験場の見学に行くそうですよ。」
「え、マジ?」
クルマタニの言葉に慌てて双眼鏡をしまうオズモンドが小さく
「あいつ、デートのセンスねえな」
と呟いた。