オジャイル氏は救護室に運び込まれた後、アザニア基地の診療所へと搬送されていった。
緊急搬送用の車両に乗るのをクロエは拒否したため、ヒカリと一緒に試験場からアザニアに移動した。
診療所はカーン所長のやっている診療所なので、ヒカリにとっては見知った場所だ。
待合にヒカリとクロエが座っていると、中年女性がやってきた。
そしておもむろにヒカリに腕をつかまれた。
「なんでクロエさんを殴ろうとするんですか?」
「離しなさい!この子がお父さんをあんな目に!!」
クロエの母なのだろう。
ヒカリはその女性をクロエから離れるように突き飛ばす。
「あなたは嘘だらけの人間。そしてここは診療所。」
「アンタに関係ないでしょ!」
クロエの母は再度クロエにとびかかろうとした。
ところが、今度はその場に駆け付けた女性の看護師に組み伏せられる。
いつの間にか現れたカーンは組み伏せられたクロエの母の傍らにしゃがみ込むと、有無を言わさずに何かを注射した。
「診療所の中で暴れる人間は問答無用で鎮静剤だ。……とりあえず拘束衣着せて空いてるベッドに放り込んどけ。」
クロエは母が嫌いらしいことはヒカリは察していたが、そのクロエですら診療所の対応には驚きを隠せないようだ。
「え……そんなあっさり注射打つんですか!?」
「暴れたら……危ないだろ?」
そう言ってカーンはクロエの父のいるであろう処置室に戻っていった。
その後、カーンはクロエを診察室に呼び、父は低体温で様子見で入院、母は錯乱状態で精密検査が必要だと告げた。
クロエは待合に戻るとその話をヒカリに告げた。
「恥ずかしいモノを見せてしまって」
「気にしないで」
クロエの話によると、母親は木星圏の環境になじめなかったのが原因で精神を病んでしまっているのだと。
クロエの母は普段は違うクリニックに通っているそうだが、どうやらカーンはクロエの母の病状を知っていたようだ。
クロエはヒカリに入院で必要になる両親の私物をとりにアパートへ行くと言う。
「邪魔じゃなかったら一緒についていくよ。」
クロエの家はムービングロード沿いにあった。
他のアザリア住人の多くがそうであるように、クロエもまた集合住宅に住んでいた。
「良かったら入ってください。」
ヒカリは若い女性の家に入るのに少し抵抗があったが、伏し目がちなクロエの様子をみて断れなかった。
母親があの様子なのに、家の中はきれいに整頓されていた。
「ハウスキーパーさんが来てくれてて」
ヒカリは考えていたことを読まれたのだと気付いたが、クロエの感情が少し軟化したのを感じた。
クロエは自分の家族の秘密が共有できる相手がいることに、少なからず安堵を覚えていた。
クロエは互いにそこまで高い精度でお互いの心を読めないことは分かっていたが、「ヒカリくんには何も隠せない」と思うだけで、世界の見方は大きく変わるのだと気付いた。
アザニア基地で生活しているとニュータイプとすれ違うことは幾度かあったが、互いに心を読まれまいと委縮することがほとんどだった。
クロエはニュータイプに生まれた煩わしさを、ただあるがままに仕方なく受け入れていたが、ヒカリに会ってその煩わしさが軽くなったと感じた。
それはクロエ自身、単なる一目ぼれのせいだと分かっていた。
でも、その気持ちすら筒抜けになってしまえばいいと
「盗聴器、この家にもあるのかな?」
そう呟いてクロエはヒカリに真正面から抱きついた。
ヒカリの理性は、クロエのその行動は盗聴器を警戒して思念で直接意思を伝えるためのものだと回答している。
だが、肝心のクロエから流れ込んでくる思念は、ただこの時間を恋しい人間と過ごしたいだけの行動だと告げている。
クロエはヒカリの葛藤をじっくりと味わっていた。
今、クロエはヒカリに一方的に抱き着いている。
ヒカリはそれを受け入れていいのかどうかを葛藤していた。
抱きしめ返してよいのかどうかを迷っている。
クロエは目を閉じて、その迷いをじっくりと感じ取っていた。
ヒカリは葛藤し続けた末に、意外とシンプルな答えにたどり着いた。
「感情が理性を振り落としてます。」
「そう……かも」
クロエは少し腕の力を緩めた。
「すいません、ちょっと心に頭が付いていかない。」
「そう言われると、ちょっと恥ずかしいですね。なんかごめんね?」
お互いに相手を好いていることは完全に分かっている。
ただ、急な感情に理性が動揺しているのだ。
クロエは両親の荷物をボストンバッグに詰める作業を手早く終えると、自宅に施錠してムービングロードに乗った。
「クロエさん。」
「はい?」
「ウチに来ませんか?良かったらボクの両親にも会ってください。」
ヒカリなりに心についていかない頭をどうにかする方法を考えた結果だ。
クロエが見上げたヒカリの顔は期待に満ちていた。
「……お邪魔じゃないなら」
二人は診療所に立ち寄ると、そのままフリース家に向かった。