木星航路が終わりに近づくと、ジュピトリスの艦内は浮足立った。
2年間の長い旅路がようやく終わりを迎えるのだ。
フリース一家は一家に貸し出されていた居住区の住み慣れた部屋を片付け始めていた。
2年間で変わったことがある。
地球圏を出た時に居住区の人口重力は1Gだったが、現在2.5Gまで引き上げられている。
ジュピトリスを降りる者の中にはこれから木星の強い重力に耐えて仕事をしなければならない者もいるからだ。
さて全長2000メートルのジュピトリス級輸送艦にはおよそ直径320メートルのリング状の居住区が備え付けられていて、リングの円周はおよそ1キロメートルある。
要するに1キロメートルジョギングすれば居住区を丸っと一周できる。
体感することはないが、その居住区が時速140キロメートルぐらいで回転しているのが1Gの人口重力で、2.5Gだと時速225キロメートル。
無重量の区画から居住区へ移動するときに時速225キロメートルに直接乗り込むのはあまりにも危険なので実際には回転の中心軸に近い部分から乗り移ることになる。
1Gで1分間に2.36回転、2.5Gで3.74回転するエレベーターホールが無重量区画と人口重力区画の境目になる。
エレベーターに乗る段階ではちょっと「回ってるな」程度の感覚だが、それが「下」に降りるとだんだん自分のカラダを重く感じる。
無重力は何かと生活しづらいが、カラダが重いのはだるい。
エレベーターによって150メートルぐらい下りる。
その間、エレベーターの中では女性の録音された音声で、木星環境へ順応するためのガイドが流れる。
『エレーベーター内部では、椅子に座り、備え付けの手すりを持って下さい。長い、ゆっくりとした呼吸を心がけ、血中酸素飽和濃度を確認して適切な呼吸を心がけてください。またエレベーター内では急に立ち上がらず、エレベーターが止まった後もすぐには動かないように心がけましょう。血中酸素飽和濃度のメーターが過換気を示す場合はタオルなどを口に当ててゆっくりと呼吸してください。貧血を示している場合は、備え付けの酸素マスクを口に当てゆっくりと深く呼吸してください。気分が悪くなった場合は手元の緑のボタンで医務室を呼び出してください。』
聞きなれた音声だが、エレベーターに乗り込む全員が素直に従う。
エレベーターが「下りる」のとともに、エレベーター内部の空気が入れ替わっていく。
ヒカリも自分の左手首に装着した血中酸素飽和濃度の数値をにらんでいる。
『お疲れさまでした。居住区に到着いたしました。このエレベーターはこれよりおよそ10分間の点検作業を行いますが、そのままお座りいただいたままで点検を行えます。焦らずにゆっくりと呼吸を整えてからお立ち下さい。めまいと転倒に十分お気をつけて……』
エレベーター内部の気圧計が850hPa、酸素濃度25%を示している。
エレベーターを降りた目の前の居住区の壁面にも空気の情報が表示されている。
ヒカリはこの船に乗り込んだ当初の艦内教育でその辺を徹底的に教え込まれている。
「気圧850hPa、酸素濃度25%、二酸化炭素濃度0.03%未満……オールグリーン」
そう口に出して確認する。
手首のメーターもグリーンだ。
ジュピトリス居住区の2.5G下では全身の筋肉にかかる負担が大きいため、呼吸筋を楽にするために気圧がやや下がっている。
台風の目のような低気圧という言い方もできるが、北米大陸のデンバー、日本であれば長野県の上高地ぐらいの気圧なので別に生活に支障はない。
しかも、木星圏の大半の人間は低重力環境で生活している。
静止衛星軌道にしろ、ガニメデにしろ、無重量ないし低重力だ。
しかし、採掘船は別だ。
採掘高度では2.5Gにやや満たない重力を受ける。
そのため採掘員の順応のために居住区全体が2.5Gになる。
しかし近年、2年間の木星航路で2.5G順応を行う艦は減っている。
木星圏についてから順応プロセスを踏めばよい。
専用の施設もあるし、停泊中の別のジュピトリス級を使ってもよい。
今回、この艦が2.5G順応を実施したのは、乗員のだれかが急ぎで採掘高度に行く必要があるのだろうが、それが誰なのかはヒカリも含め知る者はあまり多くない。
1Gですらボヤくスペースノイドが2.5Gを快く受け入れるワケもないので、それを皆が知るのは不和の原因だ。
過酷な2年間の共同生活に無用な争いの火種を蒔く必要はない。
様々な事情を乗せてヒカリを乗せたジュピトリスは木星圏の中継基地「リッペルハイ」へたどり着いた。
小型のコンテナと手荷物を抱えて、フリース一家は木星圏へと足を踏み入れた。