ヒカリが木星に旅立ってから早7年が過ぎた。
木星に来る船の中で大人たちはオーストラリアにコロニーが落ちたニュースを受け取っていたが、その当時、ヒカリにはそのニュースの意味があまりよく分かっていなかったし、大人たちも積極的にその話をヒカリの前ではしなかった。
ヒカリとしては十分激動の青春時代を送った自覚はあるのだが、20歳になった今、地球圏の同世代に比べるとずいぶん平和な人生を送っているのだと感じ始めたようだ。
ヒカリはこれまで2回戦場に出たが、それは継続した戦いではなく、散発的な衝突だ。
幸運にも知っている人間が巻き込まれて亡くなった……というような事態には直面していない。
また、木星圏では今のところ戦争が起きない。
まず木星船団公社が保有する資源の問題で木星圏内で内乱を起こしたとしても継戦能力が乏しい。
地球圏の戦火が木星に及ぼうにも地球圏での戦闘が増えれば増えるほど、地球は多くの核燃料を要求するため、戦争をするためには木星圏が平和である必要がある点も関係しているだろう。
また、外から攻め入られることを考えても、先の戦闘では火星から木星圏に来る頃には敵はガス欠寸前だった。
さらに木星圏の防衛の話をすると、木星圏には地球の月に並ぶほど安定したラグランジュ点を持つ衛星がガニメデ、カリスト、イオ、エウロパと4つもある。
地球圏と同じくそれぞれの衛星に対してL1からL5までのラグランジュ点をすべて活用するとするとそれだけで20カ所が木星圏で利用なラグランジュ点という事になる。
ただし、現状木星圏では諸々の事情で一つの大型衛星に対して3つほどしかラグランジュポイントを利用していない場合が多い。
そのため、木星船団公社は通信衛星やリング近くのステーションなどを含めると、およそ16カ所ほどが拠点設置に有力な宙域と考えている。
そこにカリストの惑星上にあるアザニア基地のような拠点も考慮する。
短絡的に考えれば木星は地球より大きいので木星圏は大きい……と考えるのが全く正しく、熟慮した場合でも衛星の数が多い為、やはり木星圏は地球圏を上回る広さを持つ。
再び先の火星からの襲撃者の話に戻す。
そんな木星圏に侵入者が来た場合、それらの拠点から同時に攻撃を行うと、襲撃者はかなり広い範囲からの攻撃にさらされることになる。
その有用性はすでに証明されている。
それも、敵の接近が予め分かっていたからできたことではあるが、木星圏に対して奇襲をかける方法はほぼない。
なぜなら地球から最低2年、火星からでも1年と8か月ほどの時間がかかる辺境が木星だからだ。
それだけバレずに接近するのは不可能だと考えているのは、木星圏の人間だけではないだろう。
それでも仮にどうしても奇襲をかけたい場合、定期航路の船……要するにジュピトリスをジャックして襲撃するといった方法しかない。
大航海時代にスペインやポルトガルが南米大陸に攻め入った時でも、せいぜい4か月も航海すれば新大陸にたどり着けた。
片道2年の壁は驚くほど高い。
これは木星から地球に行く場合も同じハナシだ。
木星から地球に行くだけで2年。
行って帰ってくる人間は4年以上の歳月をかける。
リシュモンはそれを実際やったことがあるらしいが、地球圏へ行ったままもう戻らない人間も多い。
つい先日もシロッコという艦長が「私は戻ってきますよ」と言って地球航路へ旅立って行ったが、シロッコはどうも女性にモテるらしいので帰ってこないのではないか?と噂されている。
口ではどうとでも言えるが、シロッコのような人間は結婚相手に困らないだろう。
結婚して子供をもうけるとなった場合、木星船団公社は医療と教育の都合で木星圏での子育てを推奨していない……というかほぼ禁止している。
ヒカリが15歳で木星圏にやってきたのですらかなり例外的な事例だ。
これも何度か述べたことだが、木星圏で生まれて育ったイェンに至っては、まさに唯一無二の存在である。
少し話が横道にそれたが、最近のヒカリは悩んで考え込む時間が増えてきた。
「……」
窓から宇宙を眺めるわけでもなく、ただオールドワンの居住区にあてがわれた自室で、部屋の壁を眺めている。
ヒカリから見るとクロエは6歳年上だ。
もし、クロエが結婚して子供が欲しいと考えている場合、今からシロッコ艦長の船に無理やり追いつこうとしない限り約1年後の別の船に乗って地球圏に帰るのが妥当だろう。
船に乗る頃にはクロエは27歳、地球圏に到着して29歳、それから順当に子供が出来て生まれたとして生まれるのは30歳前後になるだろう。
いかにニュータイプであろうともクロエがそれについてどう思っているかという事については鮮明には読み取れない。
しかも、地球圏は1年戦争が終わってなお平和とはとても呼べない状況らしい。
戦勝した地球連邦は悪い方へ増長して、シビリアンコントロールを失いつつあるらしい。
そもそも地球連邦という名前から分かる通り、宇宙世紀以前は別々の国だった地域の寄せ集め集団だ。
外敵であるジオン公国のような勢力がいない状態で結託し続けるには無理があるのかもしれない。
出産~子育てができない木星圏と、とても安全に子育てできるとは思えない地球圏で「ねじれ」が発生している。
1年戦争やコロニー落としの話は大人になってから理解できて来たが、そんなところに妻子を連れて住む気にはとてもなれない。
「でも、木星には助産院も学校もない……」
今、木星圏には3千人ほどの人間が住んでいるらしいが、木星圏で子供が産めるとなるときっと食料資源も足りなくなるだろう。
そして、子供をもうけたい夫婦は他にもいるはずだ。
「だめだ、不確定な要素が多すぎる。」
ヒカリはこの1か月ほどずっと同じことを悩み続けてきた。
「ヒカリくん、大丈夫?」
恐らく悩んでいる感情を読み取ったのだろう。
隣室のクロエがやってきた。
「最近、ずっと何悩んでるの?」
ヒカリはクロエの顔を見上げながら何も言えないでいた。
本当は地球へ行く船が出る前にクロエにどうしたいかを聞かなければいけなかったのだと……ヒカリはそう考えていた。
だから、何も言えない。
仮にクロエが本当は子供が欲しい感情を、ずっと以前に押し殺しているとしたら……。
だから、やっぱり何も言えない。
「私といると辛い?」
「そんなことはないよ。」
嘘だ。
でも、読み取られるタイプの嘘ではない。
ヒカリの感情は「クロエと一緒にいたい」と考えている。
ヒカリの理性は「クロエと一緒にいることで悩み続けることになる」と考えている。
でも、理性は簡単に読まれない。
「まあ、それならいいけど。隣座っていい?」
ヒカリは自分が座っているベッドの隣を空けた。
クロエはそこへ腰を下ろす。
クロエはヒカリが何か大きな悩みを抱えていることを感じ取っていた。
ヒカリはクロエがそんな自分を見て少し戸惑っていることを感じ取っていた。