アヤメはクローゼットの前でキャリーバッグに詰める服を選んでいた。
もう、母親として息子にできる事はいくらも残っていないような感覚があった。
だからこそ、後悔しない為の服選びだ。
大人の女として、息子に恥をかかせないことは当然として、自分に残った母親としての残り少ない仕事に真摯に取り組んでいることを息子のヒカリにも、恋人のクロエさんにも、何よりも自分にも示さなくてはいけない。
木星圏に持ってこれた服など大した数ではないし、木星圏で買い求められる服だって大したものではない。
でも、それが真剣さを損なうことはない。
夫のクラークは妻の入念な服選びを隣室で待っていた。
普段なら「早くいくよ?」など急かすところだが、隣室から聞こえる布の擦れる音と自分の呼吸の音だけを聞きながら、じっと待つ。
クラークにできることは妻をオールドワンまでエスコートすることだけだ。
妻のアヤメがどんな戦いを思い描いているのか、全く想像もできないが、ただ20年以上連れ添った妻を信じて送り出すだけだ。
人生のほとんどを研究に費やしたクラークは、自分が家族のために何かができる時間がほとんど過ぎ去ってしまったのだと、この前のヒカリからの相談で気づいてしまった。
その刻限に直面した自分自身がどんな気持ちなのかをクラーク自身も量りかねている。
自分の気持ちが自分で分からない。
「もう7年か。」
アザニア基地のこのアパートももう7年も住んだのか……と改めて見まわす。
初めてこのアパートに足を踏み入れた時、想像以上に地球圏とは違うものだと少し驚いた。
あの時に見た殺風景な室内は、いつしか生活物資であふれて、子育てを終えたヒカリの部屋は、ベッドだけを残してなんだかガランと寂しそうにしている。
出張などであまり家に帰らなくなってから数えても2年ぐらいしか経っていないが、家がなんだか寂しそうに見える。
別にヒカリは特別に騒がしいタイプの子供でもないように思えるが、ヒカリがいないと家の中が「静か」なのだ。
ヒカリは両親に相談した後、すぐに職場のあるオールドワンに帰っていった。
そしてクラークはその日の夜、ヒカリが幼かったころの夢を見た。
目覚めても断片的に幼い頃のヒカリの夢を見ていたのだと覚えていた。
そうするとまた一段と我が家は寂しく感じた。
「クラーク、そろそろ出ないと船の時間が。」
「ああ、ごめん。」
クラークは「君を待っていたんだ」とは言わなかった。
連れて行ってもらえることが単純に嬉しかった。
定期航路でオールドワンへ赴く。
クラークの仕事はそこで終わりだ。
あとはアヤメを信じて、オールドワンのレストランで美味しくも不味くもない代用コーヒーを啜るだけだ。
そう思ってコーヒーに口を付けたが味がしない。
クラークはこの症状は身に覚えがあった。
極度に緊張しているのだ。
心の中で「お願いします!アヤメさん!クロエさん!」と何度も手を合わせた。
クラークは背筋を伸ばして座り続けた。
久しぶりの1Gに正直、体は参っていた。
それでもクラークは旧世紀時代の英国紳士さながらに背筋を伸ばし続けた。
きっと同じように背筋を伸ばして戦っている妻に申し訳ない気がしたからだ。
それが3時間ほど続くとアヤメから連絡が入ったのでレストランを出ようとすると、向こうからこちらに来るという。
緊張して待っているとアヤメだけではなくクロエもやってきたので、やっと分かりかけたコーヒーの味が再び消え失せた。
3人で会食をしながら待っていると、ヒカリが定時で職場を上がって合流した。
宇宙世紀0085、ヒカリ・フリースはクロエ・オジャイルに正式に結婚を申し込んだ。
そして翌0086年、ヒカリ・フリースとクロエ・フリースのフリース夫婦と、クラーク・フリースとアヤメ・フリースのフリース夫妻、さらにチンペー・イートン三世が地球行きの船に乗った。
また、その13か月後にはクロエの両親のオジャイル夫妻も地球行きの船に乗る予定だが……
さて、イリーナはオジャイル夫妻と一緒に地球へ行こうか、ギリギリのところで迷っていた。
チンペーがいなくなってみると、それはそれで寂しいと気付いたのだ。
また、冷静に考えるとチンペーは最初に出会ったころに比べて格段に男を上げている。
それを見抜けずにみすみすチンペーを逃した自分の失策を取り返せるか否かで悩んでいる。
さらに言うならクロエが焦る年齢なら、自分はもっと焦るべきだと気付いた(本当は知っていたけど気付かないふりをしていた)。
20代の頃は「別に結婚や子育てはしたい奴だけがすればええんじゃ」と達観していたのだが、お年頃になって自分がその「結婚や子育てはしたい奴」だと気付いてしまった。
なぜ長い間気付かなかったか?
クロエの推理はこうだ。
地球圏にいた時はニュータイプであったせいで、自分を取り巻く自分に向けられる男性の邪念に辟易していたしたせいで、そんな気分に全くならなかったのではないか?
それが尾を引いていて木星圏でもしばらくはそういう雰囲気で生きていた。
それが、クロエとヒカリの恋愛している思念を間近で感じ取ったことで「そんなに悪いモノでもない?」と考えるようになっていった。
さらに、チンペーは木星圏のプチ英雄でかなり「出来る奴」だけど、間違いなくバカでもあるので、チンペーの思念はピュアなのだ。
地球から木星に来る時から自分に好意を寄せていたのは分かっていたが、それも小賢しさを含まない比較的清廉な思念だった。
その後、木星圏でも何度か自分に向けられている好意は感じたが、チンペーのその好意はチンペーが人に頼られるようになってだんだん周りの全ての人に分け隔てなく向けられるようになった。
そのことで、イリーナは意外と自分が100%性的に好意を向けられていたのではなかったのだと悟った。
しかもその内、チンペーにほのかに思いを寄せ始める女性をちょいちょい見つけるようになって、「お?チンペーにも春が来るか?」と達観していた。
そこまで考えを巡らせたところで、イリーナは地球行きのチケットを出している旅券発行所に自分が立っていることに気づいた。
「ニュータイプの致命的な欠陥、見つけちゃったわ。」
旅券発行所の案内看板を見ながらつぶやく。
「自分の心は読めないんだ。」
そう言うとイリーナは0087年の地球行きの船の予約を取った。
チンペーが地球で良い人を見つけていなければ、求婚する。
チンペーが地球で良い人を見つけていたら、もっと良い男を見つける。
その夜、イリーナは木星を出発して間もないチンペーにボイスメッセージを送った。
「私、13か月遅れで地球行くから!」
数十分後にチンペーから文字で「マジっすか!」と返信が来る。
イリーナはその返信をしばらく眺めた後に「ボイスで送ったんだから、ボイスで返せ!」とさらに返信した。
いかにニュータイプといえども地球航路を往くチンペーの心は流石に読めない。
「くっそ、心が読めないとキュンキュンするじゃねえか……」
イリーナはベッドから飛び起きるとカラープリンターでチンペーの顔写真を印刷して部屋に貼ってみた。
「あいつ不細工だな。」
その横に地球行きのチケットも貼り付けた。
しおり、めちゃめちゃ嬉しいです。
ありがとうございます。