「殿下、そういえば最近、『殿下』と呼ばれるのを聞かなくなりましたね?」
久しぶりに「殿下」と呼ばれて、イェンは露骨に嫌な顔をした。
ゴーグルをかけていても分かる。
「子供の頃の話だろう?アレはなんというか一種の気の迷いだ。よくよく考えればここ木星まで貴族制を持ち込もうとするなど馬鹿げているよ。」
急にダランに振られて弁明する羽目になったイェンは窓から眼下に広がる木星を眺めていた。
木星低周回軌道を飛んでいるため、いつもよりずっと近くに……巨大に木星が見える。
イェンが乗っているのは木星大気圏内拠点フライングアガリクス改めアガリクス型1号拠点を大気圏内に沈める目的で改造された巨大ポンプ船「マッシュルームハンター」だ。
「目標流域上空に到達。大気との相対速度を詰めます。」
ポンプ船が揺れた。
木星の高速の風に合わせて加速を始めたのだ。
今、シャオ達がいる真下には、木星の中でも比較的扱い易い気流がある。
そこにケーブルで拠点を下ろすのだ。
イェンが外を見ると、はるか遠方にポツポツと他のポンプ船も見受けられる。
「相対速度よし!高度よし!吊り下げ作戦開始します!」
モノが巨大な為、吊り下げるだけで2日ほどの時間を要する。
木星圏のヘリウム資源採掘技術者たちはこのテの作業は慣れたものだが、それにしても対象がデカイ。
アガリクス1号から上がってくるデータを睨みながら慎重に吊り下げていく。
6名ほどのオペレーターが付きっきりの慎重な作業だ。
イェンはその様子を何も出来ずに眺めていることしか出来ないが、胸中に湧き上がる感情は感動だった。
皆が一丸となって前代未聞の大事業をやろうとしているのだ。
イェンは自分に出来ることを考えた結果、睡眠をとることだと結論づけた。
アガリクス1号拠点が見事に木製大気内に浮いたら、その後に、そこにドッキングして外から拠点内に入るという荒事が待っているのだ。
実際、今やっている作業は誤ってポンプ船ごと大気圏内に落ちない限り、人命に関わる事故は起きない。
そのあとの拠点へのドッキングはイェンの命がかかっている。
イェン自身は、ここまで来ると自分の命は軽いものだと考えていたが、これまでこの計画のために額に汗して知恵と労力を振り絞った同志の手前、決して失敗できない。
ドッキング失敗までは許容範囲としても生きて戻らなくてはいけない……そう固く自分に言い聞かせて、壁掛けの簡素なベッドで横になり、逸る気持ちを抑えて瞼をぎゅっと閉じる。
*****
目を覚ましたイェンは狭苦しいユニットの中で熱いシャワーを浴びて服を替えると、スペーススーツを念入りにチェックした。
そして格納庫に移動するとジュピターボールとでも言うべき愛機、大岁球と対面する。
「整備点検出来ています!」
威勢のいいメカニックの声に微笑みながら会釈すると
「自分でも見ておかないとな……落ち着かなくて」
と言い訳がましく独り言を言ってから機体のチェックをはじめる。
地球では「この広い海」のような表現があるが、木星と比較すると地球の海は小さい。
この広い木星では砂粒にも満たないような小さな空中拠点に、吹けば飛ぶようなボールでドッキングするつもりなのだ。
イェンはコックピットに乗り込むとヘルメットをつけながら
「正気の沙汰ではないな」
と呟いた。
ここまでの文中でタイタンとガニメデを間違えている箇所がある気がします。
子供の頃からタイタンとガニメデがごっちゃになる悪い癖が出てしまいました。
いつか探し出して修正します。
申し訳ない。
と書きながら、「子供の頃からタイタンとガニメデの事を考えていたのか」とどうかしている自分の幼少期に思いを馳せました。