拠点は見事に木星の大気の中に「立った」。
全体の形がキノコのような形をしているため、空中に立っているように見えるはずなのだ。
イェンは木星の大気の中を太岁球2号で飛翔していた。
空に見える光の点は太陽だ。
イェンは何度か地球から見える太陽を画像や映像で見たことがあるが、地球からだと太陽の丸い形がはっきり見えるらしい。
そして、木星圏よりも25倍も強く輝くという。
これが木星圏からだと遠すぎて小さな輝く点に見える。
同じく輝く点に見えるのは、木星の衛星たちだ。
そして、イェンは今、木星から見上げた空に見える衛星がどの衛星なのかは分からない。
さらにイェンがボールの小さな窓から眼下を見ると、白と赤褐色が混ざり合って複雑なグラディエーションを作っている雲海が見える。
ところどころ巨大な山のようにそびえる雲の頂は真っ白に輝いている。
その雲海の上に青いキノコのような形の巨大な構造物が浮いている。
雲海が時折輝く。
中で雷が発生しているのだ。
アガリクス1号型と太岁球2号にはそれぞれ雷に耐える性能があることになっている。
恐らくアガリクス1号型拠点は耐える。
しかし、太岁球2号の方にはあまり自信がない。
食らわないに越したことはない。
「……とはいえ、あんなものをどうやって食らわないようにするか、皆目見当もつかんがな。」
はるか彼方に資源の汲み上げ船が木星大気に向って降ろしている長いパイプが見えている。
あれですら雷を食らうと母船にまでは損害は出ないにせよ、パイプの先端についている大気汲み上げ用のポンプがバカになる事がある。
急いては事を仕損じるが、気は逸る。
アガリクス型にはある程度、自律的に位置を調整する機能が付いているが、基本的には風任せにふわふわ流れている。
イェンも同じ風に吹かれて流されながら、拠点に近づく。
この時にアクセルをふかし過ぎて、ボールの体当たりで拠点を破壊しないようにしなければならない。
イェンは前方の拠点を睨みつつも、機内の各計器にも目を光らせる。
「よし!ドッキングルーティンに入る!」
機が拠点に十分近づいたところで、イェンは大気圏外の仲間に最終段階に入ったことを告げた。
雲上の空は十分澄んでいる。
レーザー通信で十分声が届いているだろう。
ーー了解!幸運を祈る!
イェンは仲間の応答にかすかに微笑んで、自動ドッキング装置を起動した。
十分近づいていれば拠点と太岁球はレーザー誘導で自動的にドッキングできるはずだ。
少なくとも、大気圏外での実験は上手く行っている。
拠点から伸びてきたアームがイェンの乗る太岁球を掴む。
そして、このまま拠点内に引き込まれて格納されれば成功だ。
この様子は大気圏外からも望遠鏡や各種モニターで見られているはずだ。
大気圏外と違い、揺れを感じはしたが、開いた隔壁の中に太岁球ごと取り込まれて、隔壁が閉じる。
イェンは全てのプロセスが終了したのを確認してから、拠点の床に対してやや斜めに引き込まれた太岁球のマニピュレーターを操作して、きちんと床に正立させた。
コックピットを開けると、ここしばらく何度も試験を繰り返して見慣れたアガリクス型の格納庫の景色が見える。
しかし、コックピットから立ち上がろうとすると、木星の大きな重力が自分の体をシートに押し付けていることを感じる。
充分トレーニングは積んでいるが、やはりすごい重力だ。
「よっこいしょ!」
強引に体を起こして、シートから滑り出すと、ボール専用格納庫の窓から外に木星のクリーム色がかった空と赤褐色の雲海が見える。
スペーススーツのまま、シャワーブースに入る。
シャワーをを浴びた後にブロワーで水気を飛ばす。
洗い落としたのは体に付着しているかもしれないアンモニアだ。
弱酸性の水溶液で洗浄することで簡単に洗い落とせる。
シャワーブースに入った時と反対側のドアから出ると、そこはもう居住区へ続く更衣室だ。
居住区内の空気はセンサーで監視されていて、特にアンモニア濃度が厳しくチェックされている。
更衣室内でアンモニアが検知されていないので、イェンは慎重にヘルメットを外した。
ここでセンサーがバカになっていて、更衣室が高濃度のアンモニアで満たされていたら、この時点でイェンは死亡する。
息を止めてヘルメットを外して、慎重に鼻から息を吸い込む。
アンモニア臭はしない。
センサーは正常だ。
「素晴らしい。」
誰に聞かせるわけでもなくイェンは呟いた。
そのまま、スペーススーツを脱ぐと居住区に入る。
この場所も、シミュレーションで散々入った場所だが、違うのは体の重さと、ここが木星であるという事実だ。
ウォーターサーバーの水をコップに注ぐと、一杯飲み干した。
そして居住区内にある管制室に入ると、レーザー通信が母船とつながっていることを確認してマイクに語り掛ける。
「こちら木星、天候は今日も曇りだ。」
これが初めて木星に入植した人間の記念すべき第一声だった。
イェンは満足していた。
心から幸福だった。
ぜいたくを言えば、この新居で一緒に暮らしてくれる気さくな恋人が欲しいところだが、それもこの成功があって初めて想起する事だ。
身体は重い。
地球と比較すると2.5倍も重く感じる(イェンは地球に行ったことはないが)。
しかし、心は軽く晴れやかだった。
まだまだこれから、やるべきことはいくらでもあるが、それを苦に感じることはなさそうだ。
「私は……幸福だ!」
イェンは窓から外を眺めながらそう叫んだ。
遠くから風と風がぶつかって発せられる低い音がかすかに聞こえてはいるが、拠点内は驚くほど穏やかだ。
イェンは部屋の中で音楽をかけた。
宇宙世紀以前の音楽で、今日という日にふさわしいと思ってイェンが用意しておいたものだ。
決して拠点内のスピーカーは高級なものではないが、グスターヴ・ホルスト作曲、組曲「惑星」の第4曲「木星」が流れ始める。
木星の大気圏内に印象的で鮮やかなホルンのアルペジオが響く。
イェンはホルンを見たことは無く、この曲がどのように演奏されて録音されたのか全く知らない。
分かっているのは、今自分がいる場所が、この曲を聞く上での至上の特等席だという事だけだ。