帝国と反乱軍の激突から数日後。
セレンとエルは、タルラの助言を受け、人里離れた北東の山岳地帯へ向かっていた。
「この先に、“竜の墓標”と呼ばれる谷があるそうだ。そこに、彼がいるって」
エルの背に乗ったセレンは、山を覆う濃霧を見つめながら、呟いた。
「彼」とは、タルラが語ったある伝説の人物——ブロム。
「かつて最強の竜騎士と呼ばれた男。帝国と竜の戦乱で、竜を喪い、姿を消した剣士」
エルは低く唸った。
「竜の気配が残ってる。でも、何か、すごく悲しい風だ」
霧を抜けた先、谷底に築かれた小さな庵があった。
その傍には、風化しかけた白骨の竜が眠っていた。
そして、庵の前に立っていたのは、白い長髪を束ね、年季の入った老人。
その背は曲がっていない。むしろ、鋼のようなまなざしが今も残っていた。
「……貴様が、白金の竜騎士か」
声は、土の中から響くように低い。
「わしの名はブロム。もう剣は振らん。だが、教えることならできる。……貴様に勝ちたい理由があるならな」
セレンはまっすぐに答えた。
「イウヴァルトに勝ちたい。エルが傷つけられた。仲間が失われた。そして、まだ……守りたい人たちがいる」
エルも、応じる。
「僕も、まだ空を飛びたい。終わってないって、感じるんだ」
ブロムは一瞬、黙った。
その鋭い目が、かつての自分と竜を思い出していたのかもしれない。
やがて、彼は静かにうなずいた。
「……いいじゃろう。ならば、貴様らに最後の剣と飛翔の極意を授けよう」
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ブロムの訓練は、厳しかった。
まず、セレンには剣を持たせなかった。
「貴様は風の剣士。だが風ばかりに頼るから、強者の圧に呑まれる。
感じろ。敵の重さ、気配、間合い。そして、貴様自身の気の流れを」
セレンは、剣を振るうどころか、木の棒で無数の葉を切り落とす訓練から始めた。
一枚も逃さず、風を読んで、正確に動く。動きに無駄をなくす。
一方、エルにはこう言った。
「お前は、力と炎に頼りすぎた。竜とは、空の記憶だ。
心の奥に残る竜の祖の記憶を思い出せ」
ブロムは古の呪文を唱え、
エルの意識を深い沈黙の中へ導いた。
「……見える。白い、竜たちの……始まりの空」
エルは過去の記憶を垣間見た。
古の竜たちがまだ空の律動と共に生きていた時代。
その言葉、羽ばたき、そして呼吸。
「僕は……僕たちは、戦うためだけに生まれたわけじゃない。
空と共に在る、調和のためにいたんだ」
エルの炎は、次第に色を変えた。
白く燃えるだけではない、白金の光を放つ、柔らかな熱。
それは、癒しと破壊の間にある理の炎だった。
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夜の谷は静かだった。
星々が凍えるように光り、竜の骨が銀のように冷たい輝きを放っている。
庵の中で、火を囲みながらセレンとエル、そしてブロムが座っていた。
「セレン。……今夜は、お前さんに話さねばならんことがある」
ブロムは、いつもよりさらに静かな声で言った。
老いた声に、深い後悔と苦しみが混じっていた。
「かつて帝国には、誇り高い竜騎士団が存在した。
私もその一人であり、エレンも、イウヴァルトも、仲間だった」
セレンはじっと耳を傾けていた。
エルも動かず、炎のゆらぎを見つめていた。
「その竜騎士団が最後に戦った敵がいた。邪神だ。
正確には、人の欲望に取り憑いて生まれた、歪んだ意思の塊。
我らはそれを封じ、竜の血と命を代価に、大陸の地脈へ封印した」
ブロムの瞳が、火の中に浮かぶように光った。
「だが……その封印は完全ではなかった。
奴は、ある日、人を通して世界に戻ってきた」
「人って……誰?」
セレンの問いに、ブロムは少し間を置いて言った。
「——皇帝陛下だ」
その名が、谷の空気を凍らせた。
「かつて聡明で慈悲深かった帝国の若き王子は、
ある遠征で、偶然邪神の残滓に触れてしまった」
「魂を、乗っ取られたんだ……」
エルが低く呟いた。
「そうだ。皇帝は変わった。
我々竜騎士団が最初に気づいた。だが……気づいた者から粛清された。
最も早くそれを悟ったのが、我が盟友……エルディーン。私の竜だ」
ブロムは言葉を詰まらせた。
「エルディーンは、皇帝に抗った。……そして、私の目の前で殺された」
焔の中に、微かに赤い涙が落ちたように見えた。
「その後、竜騎士団は反逆者として帝国軍に包囲され、皆殺しにされた。
ただの粛清ではない。意思を持った力を恐れたのだ。
……竜と人が心を通わせる力こそ、邪神にとっての天敵だった」
セレンは拳を握りしめた。
「じゃあ……タルラが言ってた皇帝はもう正気じゃないってのは……本当だったんだ」
「皇帝の中にあるそれは、人ではない。
もはや神でもない。かつて神だったもののなれの果て。
そして、竜の炎でしか、完全に滅ぼすことはできない」
エルが小さくうなずいた。
「つまり僕たちが、竜騎士団の遺志を継がなきゃいけないってことか」
ブロムは、薪を火にくべながら言った。
「この戦いは、国や反乱のためだけのものではない。
竜と人がもう一度共にある世界を取り戻すための、最後の戦いだ」
セレンは炎を見つめた。
その中に、エレンの微笑みが浮かんだ気がした。
「私は……やっぱり、エルと一緒に空を飛ぶよ。
それが、あの人が命懸けで残してくれたものなら」
エルが静かに寄り添う。
「僕も、もう迷わない。炎は壊すだけじゃない。照らすためにあるんだ」
ブロムは、満足げにうなずいた。
「行け、セレン。お前たちはもう、私の誇りだ。
最後の竜騎士として、空に終わりを告げろ」