蒼い霧が立ち込めていた。
水平線に浮かぶ朽ちた神殿は、まるで水面に突き出した巨大な墓標だった。
かつて海神セールを祀った神殿は、いまや毒の海に沈み、禍々しい蔓と骨のような装飾に覆われている。
その中央、沈みかけた柱のうえに——彼女はいた。
「よく来ましたねえ、竜騎士。」
濁った空気を切り裂き、女の声が響く。
半身をうねらせた羽根の生えた黒馬の怪物——ケルピー。
沼の魔獣と伝えられるその生き物は、まるでドラゴンのように巨大で、水の鎖を体から引きずっている。
その背に乗るのは、帝国四柱のひとり・ハンチ・ローネル。
長い黒衣をまとい、水に溶けるような淡い銀の髪を持つ女。
彼女の足元には、波打つように黒い水が湧いている。
「この神殿は、海と契約を交わした場所。
人の祈りが絶えたあと、ケルピーはここを住処に選んだ。
今や、この水すら……わたしの肉体と同じ」
セレンはエルの背に立ち、剣を構えた。
「あなたが……ハンチ」
ハンチが腕を上げると、神殿の水路から水柱がいくつも噴き上がった。
ケルピーが咆哮し、うねる水の尾が空を斬る!
「エル、上昇!」
白金の翼が空を裂くが、次の瞬間、空気が濡れたように重くなった。
「セレン、重い……この空、濁ってるね」
「水の魔法で空そのものが支配されてる……!」
エルの羽ばたきが鈍くなった。
まるで空気が水中のようになり、抵抗が強まっている。
——それがケルピーの力、水を操るという異能。
その刹那、神殿の天蓋から巨大な水の槍が飛来した
「セレン、伏せて!」
エルが身をひねり、槍をかわすが、かすった波が竜の左翼に凍りつく傷を刻んだ。
「くっ……!」
ハンチの笑みが空に広がる。
「美しいですねえ、白金の竜。だが空を泳ぐ者が水を支配する者に勝てると思うなよ」
ケルピーが跳躍する。
地面を蹴ったその体は、空中にまで達する力を持っていた。
その水に濡れたたてがみから、無数の蛇のような水鎖が解き放たれる。
「くるよ、セレン!」
セレンはサーベルを抜き、エルの背から身を投げ出すように前へ。
空中で三度、サーベルを回転させ、しなる鎖を一閃する。
だが、切り裂いたはずの水が、次の瞬間には再び鎖として再構成される。
ハンチが指を鳴らすと、神殿全体が微かに震え、水が“牢獄”のように変形していった。
セレンとエルの周囲に、水の壁と柱が次々と現れる。
「……ここでは空は死に、わたしの場所となる。
さぁ、落ちてこい。白金の夢ごと、深海に沈めてやる!」
セレンの肩が、重圧で悲鳴を上げた。
呼吸すら困難になる。
これは魔法ではない、空間そのものの圧縮だ。
このままでは、飛ぶことも、剣を振ることもできない。
「エル……!」
「……まだ、やれる……セレン……風を、起こす」
白金の竜が、最後の力を振り絞るように翼を大きく広げた。
「いま!」
竜の咆哮とともに、風が巻き起こる。
空気の中に含まれていた水分が一瞬だけ拡散され、
セレンの身体が再び自由を取り戻す。
「——はっ!」
セレンは、サーベルを両手で構え、ケルピーの頭部へ飛び込んだ。
その目が、まるで人のように感情を宿してこちらを見つめていた。
「わたしの空を、返してよ……!」
剣が、水の障壁をすり抜けて、深く、ケルピーの片目に突き立つ。
獣の咆哮が空を割り、ハンチが歯を食いしばった。
ケルピーの咆哮が神殿を震わせる。
黒く濁った水が天井まで巻き上がり、神殿はまるで水中に沈んだようだった。
空は歪み、風は奪われ、すべてが水の支配下にあった。
「エル、限界は……?」
「まだやれる。……でも時間がない。セレン、あの怪物は僕に任せて」
「え……?」
エルの瞳が、強く光った。
「君はハンチを。僕はあのケルピーを倒す。そうすれば、水の支配も崩れる」
セレンは数秒、何かを言いかけたが——頷いた。
「わかった。絶対に戻ってきて」
「信じて。僕は、君の翼だから」
セレンはエルの背中から飛び上がり床に着地した。
エルは咆哮を上げ、白銀の光をまとって一気に上昇した。
ケルピーの巨体に向かって空から突っ込む。
ケルピーが全身の水鎖を放ち、空からの突撃を阻もうとする。
だがエルは風を切り裂き、身体を捻りながら水をかいくぐる。
竜の咆哮が白く光り、口から灼熱の炎が迸った。
炎がケルピーの胸を貫き、黒い肉を焦がした。
そのままエルはすさまじい勢いでケルピーにぶつかり、空中で巻きつく
竜と怪物が、空中で激突しながら落下していく
地響きのような衝撃が神殿を揺らした。
ケルピーが地面に崩れ、巨体が動かなくなる。
水が、一気に引いていった。
「……やった……!」
だが、まだ終わっていなかった。
ハンチが崩れたケルピーの背から、音もなく跳び上がった。
衣を水に変えて舞うように飛び、セレンの背後を取る。
「小娘が……!」
だが——その刹那、セレンは振り返っていた。
セレンは地を蹴り、宙を駆け、ハンチに迫った。
その瞬間、舞うような連撃が繰り出された。
「……がはっ……!」
——ハンチの胸元を、深く、穿った。
黒い水が弾け、彼女の身体が崩れるように倒れた。
「水は、すべてを抱き、沈めるもの……だったのに……なぜ、あなたたちは……沈まないんですか……?」
ハンチの声はかすれていた。
「……誰かが沈まないでいてくれたから、私も泳げた。
風の中で、生きて、剣を振れた。
エルが導いてくれたから」
ハンチの目に、初めてわずかな笑みが浮かんだ。
「そうか……そういうもの……だったのね……」
そして彼女の身体は水に還り、黒い衣と共に霧散した。
水の神殿に、静寂が戻った。
セレンが崩れた神殿の柱に腰を下ろしたとき、風を裂いて白金の竜が舞い降りた。
エルは左翼を傷つけていたが、しっかりとした足取りでどしどしと歩み寄ってくる。
セレンは静かに笑った。
彼女は天を見上げた。
暗雲は晴れ、空は再び風を運び始めていた。
その風はもう、誰のものでもない。
自由な空を翔ける者たちの、風だった。
セレンとエルは、共に立ち上がる。
神殿の崩れた尖塔に立ち、東の地平を見つめた。
「これで四柱の一人を倒した。……残りは、三人」
「ノレグラ。リィカ。イウヴァルト……」
「行こう、エル。私たちは止まらない。
空を取り戻すまで、風を、断たせない」
白金の翼が広がる。
風が再び吹いた。