「アイツ、狂ってやがる」
カラン、と氷が溶けて互いにぶつかり合う音が響く。
水滴でヒンヤリ濡れたグラスに手に取り、ユラユラとカクテルを揺らす。ガラス越しに映る歪曲した酒瓶たちをしばらく眺めた後、荼毘は深い溜息を吐きながら天を仰いだ。
そんな彼に対してトガは「誰のことです」と首を傾け、赤いストローでジュースを吸った。
「あのガキだ、宗教勧誘の」
「まーたその子の話ですか。
なんやかんや言って好きですよねぇ、彼のこと」
「違う、今回ばかりは冗談抜きで鳥肌が立った」
「へえ、荼毘くんがそこまで言うのは珍しいですね」と口では言いつつ然程興味もない様子で椅子に座り、幼い子供のようにプラプラ足を動かすトガ。
しかし一方の荼毘は至って真剣だった。
「前々から感じていた違和感の原因が、ようやくわかった……そうだ、アイツは異常だ。嘘吐きだ」
グシャグシャ己の髪をかき乱し、わなわなと手を震わせる。
いつもより落ち着きがない。息も荒く、酔いが荼毘の動揺を促進させているようだった。語彙力の低下も著しい。
慣れないブロンクスの甘い風味が舌の上をゆっくりと這っている。ああ、気持ち悪い。
「……アイツは、赤の他人に手を差し伸べて、同情して、寄り添って。俺たちとは対極な立場にいる人間かと思っていた、ずっとそう思っていた。
――だが違った、アイツはそんなんじゃない」
本物の死というものを目の当たりにした時のヤツの顔は今でも鮮明に覚えている。繰り返し口から零れた「カワイソウ」という同情の言葉も耳にしっかり残っている。
荼毘は酷く困惑していた、今まで持っていたあの男に対する先入観が音を立てて崩れていく様に。全てが自分の思い込みであったという事実に。
手を差し伸べる?
同情する?
寄り添う?
確かにそこだけ見ればヴィランとは相まみえないどこにでもいるような少年だ。それこそヒーローのような、情操教育の行き届いた反吐が出る程お優しい少年である。自分たちと対極な存在であると言っても過言ではない。
しかし、あの男とヒーローたちとでは明確な違いがあった。
ヒーローのようだって? 笑わせる、あの異常者をヒーローに括るなど冗談じゃない。
「……中身の無い空っぽな器を、ヤツは慈愛と呼んで振る舞っている。何食わぬ顔で、それが善であると疑いもせず。
本性はただただ機械的に手を差し伸べ、同情し、寄り添っているだけの人形だ」
「気持ち悪ぃ……」と呟き項垂れる荼毘。不快感は未だ喉奥に残り続けていた。
***
「わ、相澤さんがいるとは珍しい。お仕事は大丈夫なんですか?」
「今日はたまたま時間ができてね」
月に一度、うちの団体では神様へのお祈りの時間が設けられている。
お祈りの日はいつもより身だしなみを整えて、数珠も持って準備万端。団体が借りている施設へと足を運んでレッツお祈り。普段はあまり顔を出さない相澤さんも来てくれていて嬉しい限りだ。
「お祈りが終わったらクロマメちゃんに餌を上げましょう。スーパーで買った刺身です。
本当は朝市に出されてたクロマグロをせりで落とそうと思ってたんですけど……2000円じゃ無理でした」
「数々の魚屋たちが大金握りしめて競い合う緊迫の場を2000円で乗り切ろうとするその神経にオジサン驚きだよ」
「しかもわざわざ朝市行ったんだ……」と引き気味の目を向けてくる相澤さん。そこは俺のクロマメへの愛と行動力を褒めてほしかったです……。
若干不満を抱きつつも、俺は相澤さんの隣に座って数珠を右手にかける。少しの振動で玉と玉がぶつかり合い、ジャリと音を立てた。小さい頃から使ってるから結構傷ついてるな……今度新しいの買っとこう。
「――相澤さん、うちに入信してから何か困ったこととかありませんか?」
「特に無いよ、信者の皆さんも優しくて居心地も良い」
「それは何よりです」
荼毘さんからはカルトだの何だの言われているが、わりとしっかりしてるんですようちは。ちょっと原因不明の死を遂げる人が続出してるってだけで何も変なところはありません。少なくともまともな職にも就かず日頃グータラ高架下でホームレスをしているような誰かさんよりはマシです。
年下から自立を促される大人の図があまりにも惨めを極めていて俺はたまらなく悲しいです。これ以上落ちぶれたら荼毘さんいつかヒトとしての権限失いそう。多分ミジンコあたりに落ち着くと思う。
ミジンコに堕落した荼毘さん……意外と響きが面白かったので不覚にも笑ってしまった。ごめんね荼毘さん……ヒトとしての権限を剥奪されてミジンコ扱いされる可哀想な荼毘さんが見たいとかちょっと思ってしまった、ごめんね…………。
でも、信者さんたちには良い人が多いからきっと荼毘さんの肥溜めみたいな性格にも何かしら変化を与えてくれるはずだ。荼毘さんの人権は俺が守る、ミジンコになんてさせない。
体験入信の手続きも済ませたし、ご飯を奢ることを口実に連れて行こう。俺の覚悟は固い。
「……なあ、ちょっといいかい」
絶対に成功させよう、そう密かに覚悟を決めていた俺にふと声をかける相澤さん。そのやけに神妙な顔つきに「どうしました?」と首を傾ける。
彼はキョロキョロと目だけを動かし周囲を確認した後、コソリと俺だけに聞こえるぐらいの声量で囁いた。
「なんか……灯油臭くないか?」
……灯油?
相澤さんに言われてクンッと空気を吸ってみる。すると確かにそれっぽい匂いが僅かにだが確認できた。
不思議に思ってその場を立ち上がり、部屋をゆっくりと見渡してみたら何やら床が不自然に濡れている。もっと近くで見てみようと一歩踏み出す。
だがその直後、誰かが咄嗟に俺の腕を掴んで身体を強引に引き寄せた。デジャヴだ、これ荼毘さんにもやられたな。
なんて呑気なことを思っていたらヒタリと冷たい物が俺の首にあてがわれる。誰かの甲高い悲鳴が部屋に響き渡った。急展開すぎる、さっきまでそういう空気じゃなかったじゃないですか。
「全員動くな! 手を挙げたまま一か所に集まれ」
そんな叫び声がビリビリと空気を揺らす。
皆の視線が俺に……正確には俺の首に刃物をあてがっている男の人に注目している。そこでようやく「ああ、人質にされたんだな」と自分が置かれている状況に気付くことができた。こういうことって本当にあるんだ、生還できたらクラスメートに自慢しよう。
にしても誰だろうこの人……信者の人ではないな。信者さんだったら情に訴えかけて解放してもらおうとか考えていたから残念だ。殺されないように頑張ろう。
「その子を離すんだ、ナイフを捨てろ」
人質犯に慄き何もできずにいる信者さんたちが殆どの中、意外にも相澤さんが前線に出て説得に試みる。いつも優しく下手に出ることが多い相澤さんが珍しく強気に出ている。俺のためにありがたい。
ただ人質犯の方は一切聞く耳を持たず「いいから俺の言うことに黙って従え!!」と床をダンッと足で鳴らした。信者さんたちは肩を寄せ合いビクビク怯えている。
「お前らのせいで……お前らのせいでユキはおかしくなったんだ…………!
許さない……許さない許さない許さない!!!」
ガアッと怪獣みたいに吠えた後、彼は徐にポケットからライターを取り出してカチリと火をつける。そして震える手でライターを落とした。
その瞬間、ボウッと一瞬にして炎が部屋を包み込む。
「――ユキさんって、花屋さんを経営していたあの女性のことですか?」
突然人質にされた挙句炎に囲まれ色んな意味で絶体絶命の大ピンチに立たされている俺だが、そんな状況に反して頭の中はやけに冷静だ。状況を打開すべくとりあえず人質犯の男の人が言っていたユキさんの話題に触れてみた。
すると彼は憎しみたっぷりの瞳を俺に向け、下唇を噛みながら「そうだよ……!」とナイフの持ち手部分を強く握りしめた。
ソレで俺の首プスッてやらないでくださいね、一瞬で死ぬので。
「ユキはお前らに洗脳されたんだ!
昔はただの花好きの可愛らしい女の子だったのに、最近は日中狂ったように神だの何だのよくわからないこと言って……恋人としてもう見てられない!」
「ああ、ちょっとのめりこみ過ぎておかしな方向に走っちゃったあのユキさんですね」
「ぶっ殺すぞお前!!!」
やめて、刃先を近づけないで、怖いです。
相澤さんは「余計な事を喋るんじゃない!」とめちゃくちゃ焦りまくっている。ごめんなさい……でも本当のことですもん。
「……命を持って償え…………責任取ってここで全員死にやがれ!!」
「因みに救済処置とかあったりします?」
「あるかボケ!!」
ないんだ……。
最早コントと化してきた俺と人質犯とのやりとりに対し、相澤さん小さな声で「勘弁してくれ……」と呟き、いつにも増して疲労に満ちた表情を浮かべて溜息を吐いていた。
えー……代表して聞いてあげただけじゃないですか。文句の多い大人たちだ。
やれやれ、と首を横に振って呆れていると、人質犯がとうとう我慢ならんといった様子で「今の状況わかってんのか!」と言ってナイフを振り回す。やってることは犯罪なのに言ってることは至極真っ当だ。
ホント、そうですよね。人の命がかかってるっていうのに誰ですか! こんなわけわかんないカオスを作り出した空気読めない人は!
まったく……困っちゃうよなぁ。
「くそっ……何なんだよコイツら……!」
「はあ、同感です……」
そしたら全員から「お前が言うな!!!」と声を揃えて叫ばれた。ええ……急に俺だけ省いて団結力見せてきたよこの人たち。
「いい加減ふざけるのも大概にしろ!!
きっとユキもこの異常者共のせいで……!!」
すると人質犯の男の人は俺の顎を乱暴に掴んでグイと上に向けた。
「そもそも神なんてもんがこの世に存在するわけねーだろ!!!」