1942年初夏、ルソン島・バターン半島。
熱気と腐臭が交じり合う執務室に、マッカーサーは重い足取りで入った。
窓を開けていても、湿った空気が流れ込んでくるばかり。
外では補給が尽きかけた兵士たちが、湿地帯の蚊を叩きながら力なく立っている。
伝えられる報告はどれも希望がなく、アメリカ軍は静かに、だが確実に崩れていっていた。
「中国軍はどうなっている?」
副官の報告によれば、もはや軍ではなく武装した暴徒だ。
略奪、婦女暴行、同士討ち――味方とは到底呼べない。
補給は日本海軍の妨害で満足に届かず、現地人の協力も失われ、アメリカ軍の士気は地を這っていた。
「撤退か……」
声に出してみるが、自分自身にさえそれは敗北宣言に思えた。
重く沈んだ気持ちのまま机に目をやると、見慣れぬ物があった。
一枚の便箋。
淡い和紙のような質感に、万年筆で書かれた達筆な英語の一文。
“You have only a little time left. Use it before others take it.”
その下に、小さな刃物が添えられていた。
日本のものだ。
懐刀。武士が護身のために携えていた、短い刃の儀礼品。
差出人の名はない。
便箋には、ただそれだけの短い言葉と刃だけがあった。
マッカーサーは凍りついた。
「――警備主任を呼べ」
数分後、警備責任者が現れた。
「この部屋に、私の不在中に誰か入ったか?」
「いいえ、将軍。警備記録にも、不審な人物の侵入はありません」
「では、これは……誰が?」
懐刃を見せると、警備主任の顔が青ざめた。
「将軍、それは……日本の武士が最後に使うものです。暗に、自決を促す……あるいは、“いつでも殺せる”という脅しとも取れる」
マッカーサーは黙って、便箋を見つめた。
“逃げろ”という警告か、それとも“逃げなければ死ぬ”という脅迫か。
脅しであれ、忠告であれ――これは、日本軍の誰かが、あるいはそれに連なる何者かが自分を“見ている”という証だった。
マッカーサーは無言で椅子に腰かけた。
そして、わずかに震える手で、机の引き出しから命令書の用紙を取り出す。
「撤退命令を準備せよ。比島から、全軍を抜く」
副官は言葉を失った。
将軍の表情には、怒りも、焦りも、誇りもなかった。ただ、確信だけがあった。
自分は敗北したのだ、と。
だが、生き延びれば、また戦える。
そして、手紙を送ってきた“何者か”と、いつか――対峙することになる。
ペンタゴン第3会議室。
分厚い防音扉の向こうには、濃密なタバコの煙と罵声が立ち込めていた。
「なぜ我々が陸軍の尻拭いをしなければならんのか!」
声を張り上げたのは、海軍作戦部の准将だった。
だが、准将は太平洋の戦場に出たことはない。
地中海で功績をあげ、昇進と同時に太平洋艦隊に配置換えになった男だ。
「そもそも、フィリピンの防衛はマッカーサーの責任だろう? 今さら助けてくれとは虫が良すぎる!」
「だが海上輸送能力は貴官らの管轄だ。我々は船が足りていない」
陸軍参謀本部の将軍が静かに応えた。
「この際だから言っておくがね、戦前から本部は南方戦略を軽視していた。我々は血を流してんだ」
「ほう。ではマニラに援軍を送れと叫びながら、戦闘機すら提供できない陸軍に何ができた?」
机が叩かれ、ペンが飛んだ。
「ヨーロッパから持ってこれたら提供できたさ」
冷たく言い放つ将軍。
会議室はもはや作戦立案の場ではなかった。
派閥、面子、責任のなすりつけあい――誰も兵士の命や作戦の現実を語ろうとしなかった。
会議室の隅で、陸軍所属のカーチス大佐は苦々しく笑った。
3か月前の戦闘で負傷して「後方送り」となったのだが、傷が癒えても最前線への復帰が保留中のところ、会議に呼ばれたのだった。
だが、彼が意見を述べる機会は与えられずほぼ傍観者となっていた。
冷えたコーヒーを一口含み、ぼそりと呟く。
「どいつもこいつも自分の頭の中の世界で物を見やがって。この戦争、勝てないな」
隣に座る副官は無言でうなずいた。
会議室の喧騒の中で、2人だけが静かだった。
マッカーサーは作戦地図を前に腕を組んでいた。
補給線は断たれ、部隊は衰弱し、援軍も希望も、もはや期待できなかった。
「このままでは全滅だ。撤退しかない……」
海兵隊のパトロール報告を聞きながら、彼は机の上に置かれた銀の懐中時計に目を落とした。
時は迫っていた。
しかし――妙なことがいくつかあった。
南方のジャングルで展開していた日本陸軍の一部隊が、突如、補給線を分断するのに絶好の位置から後退した。
海岸線を監視していたはずの駆逐艦隊が、なぜか海域を離れている。
空からの偵察がピタリと止んだのも、不可解だった。
「運が良かったとしか……」
副官の言葉に、マッカーサーは微笑を返した。
「そうだな、幸運だな」
そう口にしながらも、心の中では別の考えが渦巻いていた。
(なぜ彼らは、我々の撤退を許すように動いている?)
敵の油断か、混乱か、それとも――意図的な「見逃し」か?
「この幸運を活かしましょう」
副官に促され、マッカーサーは連絡機に乗り込んだ。
この日、彼は疑念を手帳に記した。
後の世に誰かが読むことを、どこかで期待して。
敵の動きにはいくつか合理的でない点があった。
まるで我々の行動を先に知っていたかのような振る舞いだった。
誰が情報を漏らしたのか? それとも、敵の中に『我々の撤退』を望んでいた者がいたのか?
後年、手記の存在は世に出るが、それは半世紀以上さきのことになる。
マッカーサーがフィリピンを後にする1週間前。
マニラ郊外の古びた料亭の一室。
畳敷きの座敷に、少尉から中佐まで階級も所属もバラバラな数人の軍人たちが胡坐をかいて酒を酌み交わしていた。
「でさ、マッカーサーがフィリピンで詰んでるらしいじゃん?」
野戦憲兵中尉の大村が言った。
唇を酒で濡らしながら、にやりと笑う。
「食料も弾薬も尽きてるって話だな。普通なら全滅だがなぁ」
と、参謀本部付の書記官である黒川。
「……ふと思ったんだけどさ」
工兵隊の伊藤中佐が盃を置いて言った。
「マッカーサーに『I'll be back』って言わせようぜ」
一瞬、場が静まり返った。
「お前、シュワちゃん先取りかよ」
「いやマジでさ、奴を逃しておけば後で絶対面白い展開になるって」
伊藤の言葉にその場にいる面々は賛同の声をあげる。
皆、明らかに酔っていた。
しかし、冗談交じりのその発言は、やがて妙な真剣味を帯びはじめた。
「……じゃ、やるか? “ちょっとだけ”道を開けてやる」
「陸軍には言っとく。あそこの砲兵隊、配置ちょっとずらしてもらえるよう根回ししてみる」
「海軍の巡回予定、書き換えとくよ。あれどうせ大本営見てねぇし」
その場のノリと勢いで、日本軍による“撤退支援”計画が動き出した。
彼らの思惑通り、マッカーサーは不可解な“隙”をついてフィリピンを脱出する。
そして彼は演説でこう語った。
“I came through, and I shall return.”
「あーあ……」
後日、同じ料亭で転生者の一人が新聞を読みながら頭をかいた。
「言っちゃったな、『戻ってくる』って」
「惜しい、英語圏の奴ら、あのセリフで歴史を覚えちまうぞ」
「なかなか歴史は変えられないなぁ」
「時間軸が違っても同じ人間が同じような状況に置かれれば同じような行動を取る、か」
「なにそれ?」
「ラノベだったはず。前で読んだ小説にでてきたセリフだよ」
「・・・にしても、マッカーサーがこの後どこまで動くかは読めんぞ」
黒川が言った。
「まぁな。けど、一発逆転を仕込むには、派手なカードは手元に置いといたほうが面白い」
そのとき彼らはまだ知らなかった。
彼らが“ノリ”でしでかしたことが、後年ネットで「マッカーサー撤退を支援した謎の勢力」として語られることになり、陰謀論や怪文書、さらにはゲームや漫画にまで波及するとは。