海軍省の執務室、夏の夕暮れの光が斜めに差し込んでいた。
壁に掛けられた大西洋の海図にその光が淡く当たり、ノックス長官の顔半分が赤銅色に染まる。
正面の革張りの椅子に座るキンメル提督は、その光の中でも微動だにせず、背筋を伸ばしていた。
ノックスは書類の山から一枚の紙を抜き取り、無言でそれを机の上に置いた。
「辞表ですか」
キンメルの声は静かだった。
「そうだ」とノックスは答えた。
「これは命令ではない。要請だ」
ノックスの言葉に、キンメルは表情を動かした。
何かを見透かしたような、呆れと諦め、そして悲しみと憐れみが混ざった視線がノックスに向けられる。
「理由をうかがっても?」
どこか、からかう様な響きがこもった声でキンメルが訊く。
ノックスは目を細め、静かに答えた。
「世論が揺れている。君が記者に語ったとは言わない」
机に肘をつき、顔の前で手を組んだノックスは静かに続けた。
「あの絶妙ともいえる奇妙なタイミングでの、太平洋の補給不足を政府の怠慢だと糾弾する記事。彼は、あれで支持率がかなり落ちるとみているよ」
キンメルは楽し気なまま、ノックスに続きを促す。
ノックスは不満げに言葉を紡いだ。
「大統領は君の言い分を参考にすると言っているが、同時に秩序も維持しなければならないと考えている」
「私の言動が、秩序を乱すと?」
キンメルが面白い物を見たときのように、目を開き片方の眉をあげて見せた。
「軍人の言葉が世論を揺らせば、そう見なされる」
ノックスは静かに、面白くなさそうに言う。
「政府の方針に対する批判は、越権と取られても仕方あるまい。軍人は政治に口出しするな。それが原則だ」
「補給が滞り海でも陸でも兵は満足に戦えず倒れている」
キンメルは一拍置いて、ノックスの目をまっすぐ見た。
直前までとは打って変わった、軍人の表情で。
「今この瞬間にも、赤い血を流して、祖国を呪いながら、犬死している」
ノックスは微動だにせずキンメルの言葉を聞いている。
「だから、必要なモノをよこせ。でなければもっと多くの命が無駄になる、と私は事実を大統領に伝えたのだ」
「奇妙なものだな。君ほどの階級になっても、命の重さなどと口にするとは」
ノックスは薄く笑った。
「紳士ぶる必要などないだろう? 相手は黄色いサルだぞ」
「私は敵の人種より、兵の血の色を重視する。赤い血を流すのに、国籍も肌の色も関係ない」
ノックスの目が細くなった。
「君は海軍の将としては優秀だが、政治に向いていない。現実を受け入れろ。君を更迭すれば、一つの物語が終わり、別の物語が始まる。それが必要だ」
「ならば、私の辞表は良い幕引きになるでしょう」
キンメルは愉快そうにいい、机に手を伸ばして辞表を手に取る。
「私の首ひとつで、五万人の兵が生き延びるなら安いものです」
ノックスは無言で立ち上がった。
窓の向こう、議事堂のドームが夕陽に照らされていた。
「この戦争のあと、君は歴史にどう記されると思う?」
キンメルは辞表にサインを入れ、ノックスの方に押しやる。
「どう書かれるか、あまり興味はありませんね。ですが、戦場で死んでいった兵たちが私の判断を見てくれると信じます」
ノックスは背を向けたまま、肩越しに言った。
「君のような人間が、いちばん危険だよ。正しさを信じて突き進む軍人は、政治にとって迷惑な存在だ」
キンメルは立ちあがる。
「私の後任には満足な補給が無くても『黄色いサル』に勝てる超人が就けることを望みますよ」
キンメルはノックスの背中に向けて短く敬礼し、扉へと歩き出す。
扉に手をかける直前、ふと振り返った。
「歴史は、誰の言葉を信じるでしょうね」
ノックスは窓の外に視線を向けたまま答えなかった。
振り返り、キンメルを見たくないのか、自身の表情を見せたくなかったのか。
扉が静かに閉まり、執務室には沈黙が戻った。
「君の後任はニミッツだよ、キンメル君」
ノックスはつぶやいた、
「他に適任がいない、妥協して、だがね」
ため息をつき、そして振り返る。
机の上には署名が入れられたばかりの辞表。
「太平洋か。テコ入れが必要とはね。舐められたものだ」
不満そうに言いながらノックスは椅子にすわった。