リーゼ・マイトナーは北海道は旭川市内のホテルで1人の男と会っていた。
どこか胡散臭い雰囲気をまとった不動産業を営むという男、熊谷哲夫。
ふふふっと、どこか芝居じみた不気味さをまとって笑う。
「良いでしょう。ドイツから来た学者の方々が、快適に仕事ができる研究室。ご用意させていただきます」
「そんな簡単に決めて良いんですか?」
伏見宮功子が怪訝そうな顔をする。
「この辺りはまだまだ土地が安いし、地下水脈にぶつかる可能性も低いですから工事もやりやすいんですよ」
熊谷は弱冠9歳の幼女に真剣に答える。
マイトナーがこの熊谷という男を警戒しているのは、功子への態度にも原因があった。
功子相手に、ごく普通の大人の商売相手のように振る舞っている。
皇族の小娘に取り入ろうとも媚びることも一切なく、対等なビジネスの相手として功子に接するなど、マイトナーの目から見ても普通ではなかった。
「フクシマは無理としても、ドウネン事故のような事も起こりうると考えて被害の拡散を防げるようにしますよ。ふ、ふっふっふ」
「ドウネン事故ってなんだっけ?」
功子が右手で左ひじを掴み左手を口元にやる。
マイトナーは、彼女が考え込むときの癖であることを知っていたが、それは身近な人にしか見せないように気を付けているはずだった。
「平成に起こった事故ですよ。ふっふっふ。裏マニュアルのバケツで濃度をあげた奴と言えば分かりますかな?」
「あー、あれか、東海村で起きたやつ。学校で習った気がするわ」
功子の言葉に熊谷の顔色が微妙に曇る。
「学校でならった、ですか・・・。こっちでもジェネレーションギャップってやつを感じるとはねぇ」
朗らかな功子と、肩を落とす熊谷。
二人の間の意味不明な会話に、マイトナーの警戒心が強まる。
「それはいいとして、どうやるの?」
「まだ素案ですよ?」
熊谷はテーブルに図面を広げた。
「基本は鉛をサンドイッチしたコンクリの壁でプール作って漏洩してもなるべく拡散を抑えます。蓋のないコンクリートピット処分法っていえばイメージ湧きますかな?」
そして二人はあれこれとやり取りをはじめ、マイトナーはそれに耳を傾けながらも不気味さを感じていた。
伏見宮功子との面会のあと、日本に移住することを決めた。
慌ただしく引っ越しの準備を進めて、ドイツを去るその前日に、研究室の清掃を担当していた女性に最後の挨拶する。
「日本に行くのね。田舎だと偏屈な人が多いから苦労するわよ」
笑いながら女性は言う。
「あたしも人伝に聞いただけだけど、だいぶ馴れ馴れしいらしいから、気苦労が絶えないらしいわ」
「日本に詳しいんですか?」
「世界大戦が終わってすぐぐらいにイトコが日本の会社に就職して色々聞いてるわ」
苦笑しながら言う女性。
「あとは、そうね。もし、困ったことがあったら『いつでもキンキンに冷えたビールが飲める世界を作るんだ』と言いなさい。同意してくれる人なら、味方になってくれるかもしれないわ」
冗談のように言う。
「冷えたビール?」
「そう。いつでも手軽にキンキンに冷えたビールが飲めるようになるというのは、天国のようなものよ」
ウインクまでする女性。
「冷えたビールって美味しいですかねぇ」
「日本のビールは冷やして飲むものよ。日本に行ったら試してみてね」
その後、マイトナーは研究室を後にしてドイツに別れを告げたのだ。
「と、まあこんなところですが。フラウ・ドクトル・マイトナー。なにか質問はございますかな?」
ふふふふ、と不気味に笑いながら熊谷が尋ねる。
「そうね。まず、根本的なところをひとつ」
「ほう?」
「あなたは核物理学の知識はどこで仕入れたのかしら?」
マイトナーがずっと不気味と感じていたものの正体、それは目の前の、どうみてもアカデミックな世界には無縁の中年男性が核物質とその取り扱いについて最低限以上の知識を持ち合わせていることだった。
「は? あぁ、通り一遍の常識的なことを昔、学校で教わったぐらいですかね。あとはまぁ、ネッ・・・、時間つぶしの娯楽を通じて、と言いましょうか」
「アルファ線やガンマ線という言葉を使われてましたが、その意味はご存じで?」
「原子の核から飛び出した中性子だとか、紫外線よりも波長の短い電磁波、ぐらいの知識しか無いですねぇ。あとは」
熊谷が真剣な表情でマイトナーを見る。
「私が知ってるのは、それらが外に漏れると非常に危険で取り扱いが難しい、というぐらいです」
怪しげな雰囲気は霧散していた。
マイトナーの目の前に居るのは、覚悟を決めた一人の男だ。
なにかの地獄を垣間見たのかもしれない、そんなバカげた妄想のような思いがマイトナーの脳裏に沸いた。
「なぜ、あなたはその危険を承知で協力するの?」
「なぜ、ですか・・・」
熊谷はマイトナーから視線を外す。
そして、自虐的な微笑を浮かべた。
「クソ暑い真夏にひと仕事終えて家に帰ってキンキンに冷えたビールで喉を潤す。これ以上に美味いビールを知らないからでしょうな」
「え?」
マイトナーは男が何を言っているのか理解できなかった。
「気兼ねなくビールを冷やせるぐらいに、24時間いつでも安く電気が使える。そんな世界に住みたいからですよ」
マイトナーは、目の前の男が本当のことを言ってる、男がいつでも電気が使える世界の「便利さ」を知っていると理解してしまった。
「まったく、なんてこと」
不意にマイトナーは発作を起こしたように笑い出す。
「ごめんなさい。まさかこんなに早く味方に会えると思ってなかったのよ」
マイトナーは笑いを抑えて深呼吸をひとつする。
「いいわ、私がその世界を作るわ。あなたたちにも、協力してもらうわよ」
はっきりと宣言するマイトナーに熊谷と功子は驚いたような、困惑したような顔をする。
それが面白くて、ふたたびマイトナーは笑った。
3か月後、マイトナーの研究所が落成した。
その時すでに所長のマイトナーはじめ、20人を超える核物理学者が研究所に所属していた。
半分は、マイトナーのようにナチスの迫害から逃れてきたユダヤ系の研究者たちだ。
功子はストレートに熊谷に訊く。
「どうやって彼らを雇ったの?」
「今なら優秀なユダヤ系の学者さんも技術者も、格安で雇えますよ。濡れ手で粟を掴むように、優秀な人材が確保できるんですよ」
ふっふっふと芝居じみた怪しげな笑い声をあげる熊谷。
「父様がこそこそと、なにかをやってるのは知ってたけど、あなたもそれに1枚嚙んでるとはね」
「人件費というものを考えれば、これほど効率の良い人材獲得はございません」
熊谷はにたり、という表現がぴったりの笑顔を浮かべる
「ナチスは自国の頭脳を無償で放出しているようなもの。これぞまさしく、『棚からぼた餅』。ただし、落ちてくるのは菓子ではなく、最新の技術ですがね」
功子はふぅ、と息をつく。
「火の中の栗を拾うというか、危ない橋をわたるというか、綱渡りじゃない」
「キンキンに冷えたビールがいつでも飲めるなら、易い物でしょう?」
「確かにね」
幼女と中年男は、落成式の片隅で「悪い顔」をして、二人で笑いあった。
遠くからそれを見て苦悩しているドイツ出身の女性物理学者が居ることに気づかずに。