壁に掛けられた時計の秒針が、異様に大きく音を立てていた。
米国務省の地下に設けられた、監視と盗聴を完全に遮断した密室、戦後処理交渉という言葉さえ口にできない「予備折衝」のための異例の会談である。
長机を挟み、静かに座る二人。
アメリカ側の代表、特別外交顧問のジョセフ・ダグラスは、既に幾度となく書き直されたメモを前にしながら、慎重に口を開いた。
「本日は、互いの立場を率直に確認し合うための場だと理解しています」
日本側代表、外務省より派遣された北村史昭は、無言で頷きつつも、その目はまるで短剣のように鋭い。
ダグラスはためらいながら、口を開いた。
「我々の政府は・・・日本に対し、戦争の終結を促す意思があります。明確に申し上げれば、降伏を求めます」
その瞬間、北村の顔に浮かんだのは、微笑。
だが、その笑みはあまりにも壮絶で、刃を仕込んだ芸術品のような美しさと、凍てつくような冷厳さを伴っていた。
「ただ降伏しろと言われて、首を縦に振る馬鹿が相手と思っているなら……」
声は低く、静かで、しかし一言一言が壁を穿つように強い。
「私は席を立たせてもらうよ」
ダグラスは青ざめた顔で即座に手を上げた。
「待ってくれ。誤解しないでいただきたい。我々は、条件付きで、和平への道を探るために来た。今日はその妥協点が存在するかどうかの確認が目的だ」
沈黙。
北村は目を細めてダグラスを見つめる。
「我々はアメリカが何をしたか、忘れてはいない。都市を焼かれ、民間人を狙い、兵士を挑発し、文化を嘲った。その記憶は血となって流れている」
北村は静かに言う。
ダグラスは恐怖にとらわれていた。
死の恐怖に。
目の前の男はそれほどの怒りを裡に秘めているのが、分かってしまった。
「そして我々は、最後の一人になっても戦う決意を持っている。それを念頭に置きたまえ」
まるで鉄槌を振り下ろすような言葉。
ダグラスは額の汗を手の甲で拭いながら、わずかに頷いた。
「わかりました。ならば、条件とは何か。それを話すことが、今日の第一歩です」
北村は深く椅子にもたれながら、目を閉じる。そして一拍ののち、静かに言った。
「ならば、お互いにとっての“譲れぬ一線”から始めよう。それが無視されるなら、話す意味はない」
場の空気がまた一段、張り詰める。
ダグラスの、一生涯忘れられぬ日が始まろうとしていた。
カリフォルニアの郊外に1人の軍人が住むためだけに用意された邸宅があった。
すべての役職を解かれ、事実上の更迭となり無為に日々を過ごすだけの、かつての英雄の仮住まいである。
ダグラス・マッカーサーは執務机に肘をつき、新聞も広げず、ただ虚ろな視線でカーテン越しの空を見つめていた。
机の上、封筒が一通。
差出人は記されていない。
官製でも軍務郵便でもない、あまりにも無造作な白封筒だった。
老兵はしばしそれを見つめ、ため息をついてから、封を切る。
中には、ただ一枚の紙片。
淡い和紙のような質感の紙に、万年筆で書かれた達筆の短い文。
「You still have time. Use it.」
無署名、押印もなし。
マッカーサーの目が細まる。
彼は手紙を手に持ち、しばし無言のまま、思いを巡らす。
やがてそれを二つに、そして四つに折り畳んで、胸ポケットに丁寧にしまった。
立ち上がり、棚から使い込んだコーンパイプと用具の入ったポーチを取り出し、机に戻る。
ポーチの中身を広げ準備を整えると煙草葉の缶を開け、ゆったりとした動作で葉を詰め始める。
その手は、かつて大軍を指揮した男のものだった。決して鈍ってはいなかった。
火をつける。
深く吸い込み、ゆっくりと煙を吐き出す。
「次の戦場は、いままでのように敵と味方がはっきり分かるような、楽な場所じゃなさそうだな」
静かな語り口。
その声には、過去の栄光も、失意の影も混ざっていない。
ただひとつ、「まだ終わっていない」という確信だけがあった。
部屋の隅、壁にかけられた制服と軍帽が、薄明かりの中で沈黙していた。
マッカーサーの視線がふとそれに移る。
そして、わずかに口元が緩む。
「戦場は常に変わる。だが、これは俺の戦争だ」
火が消えたコーンパイプがパイプスタンドに置かれる。
彼は机の引き出しを開けた。
中には何週間も読みかけのままの地政学のテキストと使いかけのノート。
そして、昔の日本の武士が最後に使ったというひと振りの小さな刃物、懐刀。
マッカーサーはテキストを取り出し、真新しいノートを用意した。
そこには新しい戦場に向かおうとする一人の軍人の姿があった。