ドイツに勝ってからまだ半月。
故郷へと戻る間もなく、第31親衛ライフル師団第4大隊は、極東の「日本との戦争準備」のためという命令で、ろくな補給もなくそのまま「前線送り」になった。
だが、その前線は存在しなかった。
列車は雪が残る5月のウラルの険しい山の中で止まり、それっきりだった。
機関車は煙を吐かず、線路は破壊され、周囲の集落は無人。
無線は応答なし、補給はこない。
大尉が死に、指揮は繰り上がった年若い中尉が担った。
部隊には、物資がない。
暖も、食も、足もない。
中尉は、いわゆる徴兵崩れで士官教育を受けたこともなく、上官に気に入られて副官をしていただけで、指揮官としての知識はなく、能力も身についていなかった。
政治将校のゲンナジー少尉は、荒い息を吐きながら軍用コートの裾を絞る。
すでに風雪と飢えの中で座って耐えた日数がわからなくなっている。
彼は、粗末な地図と、数人の脱走兵の報告を睨みつけていた。
テントの隅で、ボロ雑巾のような姿をした部隊長、アレクセイ中尉が湯気も立たないスープ缶を突きながら、不満げに唾を吐く。
「おい、政治将校。お前さんの精神訓話でもあるなら聞いてやるよ。兵どもはもう祈ることくらいしかしてねぇ」
ゲンナジーは冷ややかに返す。
「祈っても線路は直らないし、食糧は降ってこない。我々は敵にやられたんです。戦わずして、戦争に負けている」
「は? どこに敵がいるってんだ? この雪の中に? 村も町も空っぽだ。日本人なんか、どこにもいねぇじゃねえか」
「敵はここにいます。これは組織的な妨害です。日本軍が仕掛けた不正規戦。鉄道の寸断、通信網の破壊、補給経路の撹乱」
ゲンナジーは一拍置いて言った。
「正規の陸軍ではなく、地下の抵抗組織が動いています」
アレクセイは鼻で笑った。
「はっ、資本主義の毒にやられたチビの黄色いサルに、そんなことができるってのか? オレはベルリンを見たんだぞ? あいつらにゲリラ戦なんか、できっこねえ」
ゲンナジーは、乾いた笑みを浮かべた。
「ドイツでは普通の軍隊と戦っていたが、我々はもう普通の戦争をしていない。日本軍は逃げたんじゃない。見えない場所に潜ったんです。そして、こっちが止まるのを待っていた」
「くだらねえ陰謀論だな。だったらどうしろってんだ?」
「兵を動かして周辺を調べさせろ。徒歩でもいい。少しずつ前に出るしかない。鉄道の代替手段を探るか、味方との接触を試みるしか道はない」
「それでまた何人もいなくなったら、お前が責任取るのかよ?」
「もはや誰も責任など取れる状況ではないでしょう」
「ふざけるな、お前みたいな無責任な奴の言うことなんざ聞けるか」
アレクセイはそう言い捨てた。
隊の人数は目に見えて減っていった。最初は外出任務に出た兵が帰ってこなくなり、次に食料庫から物が消えた。
やがて、脱走者が後を絶たなくなった。
ゲンナジー少尉は、崩れた小屋の陰で、戦友の日誌のページを燃やして暖をとっていた。
部隊長のアレクセイは、雪の積もったテントの中で、天井を見つめるだけの抜け殻と化していた。
最初は怒りを、次に焦りを感じ、最後には静かな敗北感だけが残った。
「我々は、戦場で死ぬことすら許されなかったのか……」
こうして、彼の部隊は「戦わずして溶解した部隊」として記録に残った。
のちにロシアの軍事大学でこの事例を調べた学生が、このゲンナジー少尉の手記を見つける。
我々は知らなかった。日本軍が戦争の次元を変えていたことを。
敵に囲まれていたのではない。敵がどこにでもいたのだ。
それに気づけたことが、せめてもの慰めだ
学生たちが主体となった調査でゲンナジー少尉の遺体と思われる、白骨化した死体が見つけられたのは、手記が遺されていた小屋から30メートルほどの窪地だった。
足の骨には軍用拳銃の弾が喰い込んでいた。
なお、ゲンナジー少尉を撃ったと思われるアレクセイ中尉らしき人物の消息は不明であり、それらしい遺体も見つかっていない。