1945年、3月。
ロスアラモス国立研究所。
サンタフェから北西に約35マイルの山間は季節遅れの雪混じりの冷たい風が吹いていた。
昼でも薄暗い実験棟の廊下をバインダーを抱えて憂鬱そうに歩く若者が一人。
目的の部屋に入ると、初老の男がカリカリとチョークを黒板に走らせる音だけが部屋を占めていた。
「先生?」
「おう。来たか。ウラン235の分離は進んでいる。カリフォルニアからも新しい報告が届いた。まだ希望はあるぞ、エンテバッハ君」
先生と呼ばれた男が振り返り青年の姿を認めると笑みをこぼした。
この部屋の主、アルベルト・シュミットだ。
「いえ、先生。間に合いません」
「どういう意味だ?」
エンテバッハは少し口ごもり、真剣な目で言う。
「たとえ、ここにドイツから来た核物理学者が全員揃っていたとしても、今のままなら兵器としての核爆弾の完成には、最低でもあと3年はかかると私は見ています」
「つまり?」
「つまり、戦争は終わっているということです」
シュミットはじっとエンテバッハを見つめる。
「キミ、何か知っているな?」
シュミットが怪訝そうに問いかけ、エンテバッハは手にしていたバインダーをシュミットへ差し出す。
「フリッシュがいない。オットー・フリッシュが、この計画に関わっていない」
シュミットはエンテバッハの言葉に怪訝そうに応える。
「彼は叔母のマイトナーと一緒に日本へ逃げただろう?」
エンテバッハは遠くを見るような目をした。
「リーゼ・マイトナーは気づかされたんです。核が兵器にされる未来に。だから彼女は決して協力しないと決めた」
エンテバッハは首を振る。
「そしてオットーも、それに従った。彼だけじゃない、シラードもベーテも、ここにはいない」
シュミットは黙ってエンテバッハを見つめる。
「ファインマンやテラーでも、それを補うには時間がかかる。人が足りない」
シュミットは厳しい表情でエンテバッハに問いかける。
「誰かが、歴史を変えたというのか?」
エンテバッハは低く、ほとんど聞き取れない声で応えた。
「あの時、マイトナーに誰かが会っていたんです。そして、その人物はおそらく未来を知っていた」
シュミットもエンテバッハも黙り込む。
研究棟の外から小さな地響きのような音が聞こえてきた。
遠くで、爆薬実験が行われたのだろう。
「ノーベルの後継者だ。マイトナーは平和利用を訴えたあとの」
シュミットの声は冷たかった。
「そして我々もノーベルの後継者だ。死の商人と呼ばれた頃の、な」
シュミットは黒板に視線を向ける。
「誰かに歴史が変えられたとしても、死の商人と呼ばれようと我々は前に進むしかない」
エンテバッハが悲しそうに首を振る。
「バーンズ長官やグローヴス少将が我々をせかしたところで無理なものは無理です」
シュミットは何も答えない。
「我々はウランの分離に手間取ってます。ですが、日本は原子力発電を部分的に実用化までしているどころか、さらにその先に進んでいます」
「どういうことだ?」
シュミットはエンテバッハの言葉に振り返った。
エンテバッハがバインダーを指さす
「答えはその中に。日本にはプルトニウムもあります。すでに、ウランよりも、より強力な兵器に使える物質が日本の手の中にあるんですよ」
「まさか」
「6年も前に日本で核分裂反応に成功していた、という新聞記事です」
「少年向け雑誌の記事か?日本にはその手の少年少女向けの疑似科学のコミックが多い」
「違いますよ。発行部数が少ないローカルな新聞なので情報部もフォローできてなかったのでしょうね。私たちはもっとオッペンハイマー博士の言葉を真剣に聞くべきでした」
エンテバッハが悲しそうに言う。
「私たちが日本に核を落とせば、翌日、私たちの頭の上にそれ以上の核が落ちてくるでしょう」
シュミットは、黙ったまま、バインダーに視線を落とす。
彼の顔には絶望が刻まれていた。
エンテバッハがシュミットに渡した資料はマンハッタン計画の首脳陣や政府内の関係者が計画に携わる科学者たちに見せるために用意したものだった。
テラーのように兵器開発を継続するべきと意見を述べるスタッフも一部には居たが、ほとんどのスタッフは兵器開発を中止し、基礎研究を続けるべきと主張した。その中にシュミットとエンテバッハも居た。
その日マンハッタン計画は規模縮小し、事実上の終了を迎えた。