ロンドン、首相官邸の一室。
厚いカーテンの向こうでは、春の雨が静かに降っていた。
しかし、重く分厚いカーテンに阻まれ、その部屋は外界と隔絶された別世界のようだ。
テーブルには極東の地図、日米間の海上航路図、最新の航空写真。
そして、その横にはMI6が数時間前に届けたばかりの報告書が山のように積まれていた。
「確認するが、これは確かな情報なんだな?」
葉巻をくゆらせながら、チャーチルが問いかける。
煙が低く垂れこめ、室内の空気は濃密だ。
「はい、首相」
黒い鞄を抱えたMI6の担当官が即答する。
「日米間の停戦交渉は順調に進んでおります。予想以上に早く、しかも日本側に有利な条件で。アメリカ政府内ではすでに条件案の草稿が回覧され大統領も承認に傾いているとのことです」
重苦しい沈黙が流れた。
副首相クレメント・アトリーが口を開く。
「つまり、我々には何の相談もなく、アメリカは極東の戦争から手を引く。そういうことですな」
「その通りだ」
軍需相ビーヴァーブルックが吐き捨てるように言った。
「やつらは自分の損得だけで動く。太平洋から手を引いて、本土防衛と大西洋に専念するつもりだろう」
テーブルの端では、海軍参謀総長アンドルー・カニンガムが無言で指を組み、地図を見つめていた。
「問題はその後だ」
カニンガムの声は低かった。
「日本は米国と停戦すれば、空いた兵力を東南アジアに振り向ける。我々の植民地はどうなる?」
アトリーが提案する。
「日本をこちら側の友好国として引き込むべきだ。極東の安定に役立つ。我が国の利益だけを考えれば・・・」
アトリーは言いよどんだが、決心したように続ける。
「むしろ傀儡のように扱うぐらいのほうが良い」
「それは危険だ」
チャーチルが反対する。
「あの国は、ただの傀儡として縛れるほど柔な相手ではない。力も野心もある。軽々しく利用すれば、手綱を握る前に我々の首を取られるだろう」
別の声が上がる。
「では中ソの緩衝材としては?」
「それは有効かもしれんが…」
チャーチルは唇を噛む。
「問題は、価値がありすぎることだ。駒として扱うには惜しい。だが、こちらの掌中に収めることも容易ではない」
議論が煮詰まりかけた、その時だった。
ノックもなく、会議室のドアが開いた。
全員の視線が入口へ向く。
そこに立っていたのは、灰色のコート姿のジョージ6世だった。
「散歩の途中で寄らせてもらったよ」
そう言って、国王は軽く笑みを浮かべながら部屋に入った。
チャーチルらは即座に立ち上がったが、国王は「続けてくれ」と手を振る。
そして、ゆっくりとテーブルに歩み寄り、置かれた地図と報告書の束を覗き込んだ。
「極東か・・・。日本の話だね」
国王は静かに言った。
「うん、日本とは仲良くしたいよね。色々な意味で」
その言葉に、室内の空気がわずかに変わった。
誰もが言葉を選びかねる中、国王はさらに続けた。
「四カ国条約なんて、もう時代遅れだ。もっと寄り添った形の条約を結んでもいいと思うんだ。人類の未来のためにもね」
そして、にこやかにこう付け加えた。
「邪魔したね。では、良い議論を」
コートの裾を翻し、国王は来た時と同じ静けさで去っていった。
ドアが閉まる。
残された会議室に、短い沈黙が流れた。
最初に口を開いたのはアトリーだった。
「国王陛下のご意向、ということでよろしいですかな?」
半分冗談のように聞こえたが、その声には慎重な響きがあった。
チャーチルは葉巻を口にくわえ、深く煙を吐き出した。
「陛下が望まれることは、たいていこの国の利益にかなう」
そして、灰皿に葉巻の灰を落とすと、短く言った。
「我々は、英国は日本と手を組む用意をしよう」
それからの議論は早かった。
日本との特別関係、アメリカが離れた後の極東でイギリスが主導権を握るための新しい枠組み。
そのための条件、利害の調整、情報工作の方策。
MI6の担当官は慌ただしくメモを取り、地図の上には新しい航路と交易計画が描き込まれていく。
そして会議の終わり、チャーチルは静かに椅子を引いた。
「諸君、我々はまた一つ、海を支配する道を見つけたようだ」
外では、春の雨が止み、薄い日差しが差し込んでいた。
それは、嵐の後の静けさにも似ていた。
次の嵐が来るまでの。