奴らはいったい何者だ?   作:Shigy20250620

44 / 47
兵士の使う道具

三宅・カービンの生みの親 -1990年代の銃雑誌のコラムより-

 

 日本陸軍の歩兵が持つ銃といえば、99式騎銃か、それの改良版の1式騎兵銃というのが一般的だ。

 どちらの設計者も小倉造兵廠の三宅琢磨中尉で、特に1式は彼の名をとってミヤケ・カービンと呼ばれることもある。

 2つの違いは99式が三八式実包であり、1式が米軍のM1ガーランドとおなじ.30-06ライフル弾を使うことだけと言って良い。

 採用年度が先の99式を改良したものが1式と思う人が多いが実はその逆だ。

 先に.30-06を使う1式騎兵銃が設計され、軍の装備調達局が実施した試験で高い評価を得たが補給の観点から38年式実包をつかうモデルが要求され、1式をマイナーチェンジして38年式実包に対応したという。

 のちにオリジナル設計も「1式」として復活するが、その経緯については別の機会に語ろう。

 

 1式騎兵銃は命中精度は三八式歩兵銃ほど高くなく、精密射撃は無理だといわれるが、もとから中近距離の戦闘を想定しているため問題になっていない。

 1式の故障率は当時のほかの小銃に比べると圧倒的に低く、故障しても容易に修理ができた。

 装備調達局の「いじわる試験」のひとつに、5丁分の部品をシャッフルして5丁を組み立てる、というものがある。

 この時、1か所でも組み立てられない箇所があれば不合格になるという厳しい試験だが、1式騎兵銃はこの試験に一発合格している。

 三宅中尉は常日頃から「兵隊に必要なものはコツンとぶつけただけで狂うような精密な狙撃銃じゃない。落としても踏んづけても泥水に沈めても壊れずに使える道具だ」と口にしていたという。

 その思想が反映された1式騎兵銃は戦闘中に泥水に落として1日後に拾い上げてそのまま使ったら撃てた、という逸話がある。

 AK47と比較されることが多いが、AK47の初期モデルはスライドカバーの保持に遊びが多くリアサイトがぐらついて狙ったところに弾が飛ばない、スコープを付けられないつけてもすぐに狂う、銃弾を使い切ってもそれがわかりにくい、などの欠点があるが1式には集弾率を除けば欠点らしい欠点がない。

 世界中の紛争地帯でコピー品が出回るほど人気が高いのはそのタフさから来ているともいわれている。

 

 三宅中尉は、少年時代から銃器に興味を持ち、小学生時代に祖父が使わなくなった中折れ式ショットガンをポンプアクション式に改造するなど才能の片りんを見せている。

 小倉造兵廠に勤めてからは研究開発の部署にずっといたが「現場の声」を大事にし、他の同僚たちとは違う視点で物事を考えていたという。

 それが先に紹介した「兵隊に必要なものは落としても踏んづけても泥水に沈めても壊れずに使える道具だ」という口癖に表れているのだろう。

 .30-06という日本人にとって強すぎる弾を使える道具にするため、1式騎兵銃を日本人の体格に合わせた設計をしている。

 掌の大きさでなく、腕の長さ、肩幅、歩幅や靴のサイズなど体の隅々まで日本兵の平均的な数値を調べストックの位置やグリップの角度まで微調整していた。

 三宅中尉の残した資料には「人間工学」「エルゴデザイン」の概念を20年以上も先取りした書き込みがいくつもある。

 そこまでこだわり抜いた1式だが「調整」のために毎日何時間も、何度も銃を構えさせられた兵士は「中尉は常人には見えぬ何かが見えていたに違いない。狂気とも思える熱意をもって、1ミリのずれ、1度の誤差を絞り込む執念を見せていた」と残している。

 

 三宅中尉は.50BMGを使う和製M2ブローニングともいわれる一式重機関銃の開発も手掛けている。

 陸軍は主力航空機関銃として採用していた八九式固定機関銃の後継としてホ101、ホ102、ホ103、ホ104の試作を小倉陸軍造兵廠・名古屋陸軍造兵廠・中央工業に担当させた。

 三宅中尉の居る小倉陸軍造兵廠はホ101,ガスオペレーション式の機銃の開発を進めていたが思うような成果が出ず「憂さ晴らし」「気分転換」にM2ブローニングのコピーを設計・試作していたという。

 当初は日立兵器株式会社が開発を進めていた99年式実包を使う機銃が一式重機関銃として採用されるはずだったが、装備調達局が行った試験で日立兵器製は全く合格できず、代替として三宅中尉が試作していたM2ブローニングのコピー品が急遽持ち出され、こちらはほぼ満点の結果で合格したという。

 一式重機関銃は日本人の体格に合わせた機銃というコンセプトで試作されていたが、もとになったM2ブローニングをそのまま使ったほうがいい、という意見まであったという。

 しかしM2ブローニングは重過ぎるという理由で採用が見送られ、一式重機関銃が採用されている。

 アメリカ軍は3名の歩兵でM2ブローニングを運用できるが、当時の日本人は移動のためにもう1名必要だったという。

 日本兵3名での運用が可能なようにM2を軽量化、デチューンしたのが一式重機関銃である。

 

 三宅中尉は94式拳銃と94式軽機関銃も開発している。

 技術検証用として9ミリパラベラムを拳銃とサブマシンガンで共用する際の運用面での問題点洗い出しのために少数が作られ評価用に教導隊に導入された。

 94式は「盛り込めるものはなんでも盛り込む」というコンセプトのもと三宅中尉が研究チームのアイデアすべて盛り込むという暴挙に出た怪作で、近接射撃補助具、現代でいうマズル・コンタクト・デバイスがつけられていたり銃身下部に銃を構えたままオン・オフできるライトがついていたり、フラッシュハイダーと呼ばれる発射時の炎を封じ込めるアダプタが最初から用意されていたりと、現代のSWATや特殊部隊向けの銃と変わらない製品となっている。

 教導隊による評価も高かったが、オプション全部ありのフルセットは製造だけでなく運用コストもかかるとして、実戦部隊に配備されたのは本体のみであり、フルセットの94式を使っていたのは軍警察の一部の部隊だけと言われている。

 

 なぜ三宅中尉が日本独自の実包ではなく、.30-06や.50BMG、9ミリパラベラムを使う銃を設計していたか?

 あまり知られていないが、第1次大戦中から日本軍は国産兵器の開発の参考にするため海外の銃器を解析、研究していた。

 同時に多種多様な実包が入り乱れていて、陸軍は補給を簡略化する必要に迫られていた。

 それを受けて乃木保典少将(当時)がいくつかの研究チームがそれぞれの切り口からの研究を行い、集約するというプロジェクトを立ち上げる。

 三宅中尉が所属する小倉造兵廠の「洋銃屋」と呼ばれる研究チームもそのプロジェクトによって作られたチームのひとつだった。

 プロジェクトは「生産量が多く世界中で使われている」ことから.30-06と9ミリパラベラムを使用するべし、と結論を出しそれ受けて銃器類の開発が行われるようになっていく。

 

 三宅中尉がとびぬけた才能の持ち主であることは間違いないが「洋銃屋」のメンバーにも濃い人物が多かったという。

 .30-06をベルト給弾方式にして連射する機銃を、片手で構えて撃てるようにするべきだと主張したり、1式騎兵銃の銃身下部に小型の擲弾筒をつけてポンプアクション式のショットガンのように撃てるようにするべきだ、という若手も居たという。

 そのような部下を持ち手綱をとりながら日々の研究を続けていた三宅中尉は、心労がたまっていたのだろう、昭和27年に47歳の若さで脳溢血で倒れそのまま帰らぬ人となっている。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告