私は洗濯物を取り込みながら、庭の隅で自転車のタイヤにチェーンを巻いているお兄ちゃんを見ていた。
「ねえ、なんでそんなことしてんの?」
お兄ちゃんは顔を上げずに、軍手越しの手でチェーンの締め具合を確認しながらぼそっと言った。
「……雪道用の試作。泥とシャーベット状の雪が混ざると滑りやすい。四駆じゃない車でも登れるか試してる」
「いや、ここ四国だよ? 雪、そんなに降らないし……」
「降るところは降る。東北とか。……岩手とか」
そこでお兄ちゃんが一瞬だけ遠い目をした。
なんで岩手? 私たち、生まれも育ちも愛媛なのに。
「なんでそんなに雪国のこと詳しいの?」
「研究熱心だから」
それ、たぶん研究の範囲じゃないと思うんだけどなあ。
「前世は岩手に住んでたりしたの?」
「かもね」
私は物干し竿からパリッと乾いたお兄ちゃんの制服を下ろし、前から気になっていたことを聞いてみた。
「お兄ちゃん、中島飛行機に入りたいんでしょ? でも、飛行機の会社で車作るの? おかしくない? ダットサンとか、他に車作ってるとこあるじゃん」
そのときお兄ちゃんは、めずらしく一瞬だけ「しまった」って顔をした。
でもすぐに澄ました声で答えた。
「ダットも悪くない。でも中島の技術力と、航空機規格の部品精度。それに後々、自動車部門が分かれてスバルになる可能性が・・・」
「すばる?」
「いや、なんでもない」
お兄ちゃんはごまかすように、自転車のチェーンをくるくる回した。
私はもう一度聞こうとしたけど、やめた。
お兄ちゃんは昔からこうだった。
学校の成績は普通。
でもやたら工作が得意で、歴史の話になると妙に冷静になる。
子供の頃に読んでた雑誌は、なぜか「雪国のインフラ特集」とか「航空工学入門」とか、子供が読まないやつばっかりだった。
そして今は、寒冷地用の水道管のアイデアを新潟の会社に売って成功したらしいし、「寒さに強い足袋の素材配合」までアドバイスしたって自慢してた。
たしかにすごい。
でも、なんていうか。
「もうちょっと、普通の高校生っぽくしてほしいんだけど」
「普通は世界を変えられない」
お兄ちゃんは堂々と言った。
変な人だ、ほんと。
でも、たまに本当にかっこよく見えるから腹が立つ。
「え? スタッドレス? ああ、あれな。今でこそ当たり前の冬用タイヤだけど、うちの基礎技術が使われてるの、知ってたかい?」
老人はそう言って、小さく笑った。
彼の名は岡本隆三。
かつて足袋をつくる会社のタイヤ部門に在籍し、のちに世界的なタイヤメーカーになる企業の創業メンバーの一人だった。
「もとはと言えば、一人の変わった若者がいたんだよ。四国の出身だが、雪国の話になると異様に詳しくてね」
若者の名は遠野誠。
中島飛行機の入社を目指していたが、在学中に雪道で苦労する知人の話を聞き、なぜかタイヤの改良に情熱を注ぎ始めたという。
「彼の発想は常識外れだった。なにせ最初に持ってきたのは、ゴムの中に気泡を入れて弾性を変えるって話だったんだから。昭和のはじめにだよ? こっちはまだ馬車の車輪作ってるような時代だぞ」
最初は誰も本気にしなかったが彼はあきらめなかった。
知り合いの製ゴム業者を頼って自費で試作を続け、冷蔵庫を使って低温下でのゴム硬化テストまで始めたという。
「『天然ゴムは寒さで固くなる。だから微粒子を混ぜて分子構造を改良する』なんて言葉が、二十歳そこそこの若造の口から出てくる。正直、背筋が寒くなったね。こいつ、何者なんだって」
やがて遠野の発想は冬用の足袋底ゴムの改良試験として会社の正式プロジェクトに組み込まれる。
これがのちに雪上車輪ゴムの基礎技術となり、試験的に雪国の郵便トラックに装備された。
結果は上々だった。
「わずか数センチの積雪で立ち往生してた郵便車が、ちゃんと走った。配達の遅れが減ったって、現場の人間が泣いてたよ。あれは忘れられん」
そしてこの経験が、タイヤ専業の企業創業にあたり、遠野が技術協力者として初期開発に関わるきっかけとなる。
遠野はその後、航空工学の道へと進み、陸用タイヤからは手を引くが、彼の置いていった「雪とゴムの関係に関する技術ノート」は、のちに昭和40年代のスタッドレスタイヤ開発の際、重要な資料として社内アーカイブから引き出されたという。
「今どきの若い子は、ピンと来ないかもしれんけどな、“寒冷地でも走れる日本車を作る”ってのはなかなかに大変だったんだよ。今ごろ、空の上で笑ってるかもしれん」
私は、スクラップに挟んだ新聞記事から目をあげる。
兄は最期まで『雪道を走破するクルマ』への情熱を忘れなかった。
四輪駆動を言い出したのはまだ実家に居た頃だった。
実家のあたりではまだ自動車の実物を見るのが珍しかった頃だったのに四輪駆動のすばらしさとどれだけ実現が難しいかを語ったものだ。
変わり者だったけど、優しかった兄。
仏壇の写真の中で兄が照れたように笑っている。
私はぴかぴかの真新しい紫綬褒章のメダルを仏壇にそっと置いた。