中村一少尉は「入ります!」と大声をあげて天幕をまくりあげてテントに入る。
「矢田部大佐、全車両、準備完了です」
机の上に地図を広げ、睨みつけていた大柄の男は顔をあげる。
2月26日の早朝、東京は水気の多い雪が舞い気温はかなり低い。
積雪は既に15センチを超えているがまだ雪が止む気配はない。
矢田部大佐率いる第45機甲大隊は数日前から雑司ヶ谷の盆地に潜むように展開していた。
4両の九五式軽戦車と12両の八九式中戦車、そして8両のトラックが矢田部が動かせる戦力のすべてだった。
矢田部はテントを出る。
白い息を吐きながら言った。
「最初に頭に血をのぼらせた若造どもの度肝を抜く」
「戦闘になりますかね」
「なる。確実にな」
吐き捨てるように矢田部が中村の疑問に答えた。
中村は矢田部の言葉に顔をしかめた。
第一報を持ち込んだ時に「天佑神助の好機」と漏らしたのを聞き逃さなかったからだ。
常日頃から怪しい言動を繰り返す中村の上司は、食事と娯楽に対する欲求が高い。
そして事務仕事が大嫌いときている。
月末や四半期末の処理で「ういんどうずが欲しい」、「えくせるが無いのは辛い」などと意味不明なボヤキを度々こぼしているのを耳にしたことはあるが『えくせるとは何か?』と訊いても言葉を濁されなんであるか答えてもらったことはない。
今回も「手柄をあげ、もとい、実績を上げ戦術ドクトリン上奏の契機にする!」などとほざいていたのだ。
そんな矢田部大佐がまともに国の事を考えているとは、中村少尉には全く思えない。
300人に満たない、しかし日々厳しい訓練をこなしている精鋭が勢ぞろいしている。
「各員、聞け」
軍人たちは矢田部の声に真剣に耳を傾ける。
「我々の作戦目標は思い上がった若造たちの鼻っ面を殴りつけ、教訓を与えることだ。そのためには完膚なきまでに奴らの計画を叩く」
矢田部はそう切り出し、改めて作戦行動について説明していく。
整理され、要点を分かりやすく。
「友軍と思うな、発砲をためらうな、日本軍の軍服を盗んだ犯罪者と思え」
そして、〆の言葉をつづけた。
「こんな寒い日にクーデター起こす奴らは碌なモンじゃない。二度と立ち上がろうとおもわないぐらいに殴りに行くぞ。以上だ」
矢田部の言葉を次いで中村が声を張り上げる。
「総員、乗車出動、走れ!」
300人の軍人たちが一斉に動き出した。
矢田部と中村も自車である九五式軽戦車へ乗り込む。
ドライバーの鈴木上等兵が「準備良し」と声をあげる。
「パンツァー、ふぉー!」
無線で矢田部が命令する。
一斉にエンジンを響かせて、雪を踏みしめながら機構軍団が動き出した。
無線から矢田部の部隊を呼び出す大隊本部からの無線が聞こえてきたのは桜田門の目前に迫った時だった。
『こちらカシワ。ヨンゴーヒト、感度知らせ、オクレ』
「こちらヨンゴーヒト、感度ブー、オクレ!」
中村は無線に怒鳴るように答える。
『現状報告』
「目標まで5分。452、453は離脱!作戦通り!」
『現有戦力で作戦を遂行せよ。繰り返す、現有戦力で作戦を遂行せよ。友軍の合流は流動的、現地指揮官の判断に任す。オクレ』
「451了解。オワリ!」
やけくそ気味に無線機に怒鳴ると、矢田部が中村のほうに向く。
「三宅坂や麹町は上手くいってるようだな」
「なんでわかるんですか!?」
「桜田門を任されたからだ。第1中隊はこのまま正面! 左、第4小隊! 右、第5小隊! オールウェポンズフリー! ユーハブコントロール! ワカレ!」
べたつく雪が舞う中、矢田部大佐率いる第45機甲中隊はクーデター軍に向けて突進した。
『戦車を育てた男、矢田部』- 昭和47年のミリタリー雑誌に掲載されたコラム -
戦車の運用に興味がある読者には「ヤマガタドクトリン」の提唱者と言えば矢田部大佐がどのような人物か理解いただけることだろう。
昭和初期、当時はまだ実験的な存在であった機甲部隊を任されていたことから優秀な人物であることは疑いないが、副官の中村少尉(当時)の手記に寄ればかなりの変わり者だったことがうかがえる。
ヤマガタドクトリンは世界が未経験だった「市街地戦での機甲部隊の運用」について論じられており、当然ながら評価されることはなかったが後年ヤマガタドクトリンの存在を知った米軍は「これを知っていればヨーロッパ戦線は1年早く終わった」と評したが、矢田部はそれを知らぬまま鬼籍に入っている。
矢田部がヤマガタドクトリンを提唱する半年前に226事件が起こり、彼はその鎮圧に大きく関わっている。
矢田部大佐は「抜き打ち演習」として麾下の全機甲部隊を25日午後に雑司ヶ谷(現在の豊島区雑司ヶ谷2丁目付近と言われている)に移動させ潜伏、そのまま翌26日早朝に都内に突入、クーデター軍の目標となっていた斎藤実、高橋是清、岡田啓介の暗殺を阻止し、遊軍をもってクーデター軍を排除している。
一般的にはこの時の経験で市街地戦闘の戦車運用に着想し、後にヤマガタドクトリンとして世に出したと言われている。
しかし、筆者は異なる意見を持っている。
矢田部大佐は226事件以前から、確固とした理論を持っており、それを実践し、昭和11年において実現可能なように手を加えたものを「ヤマガタドクトリン」として世に出したのだ、と考えている。