七稜アヤメはD.U地区の郊外で、少しぼうっとしながらビルを見上げる。シャーレのオフィスが存在するそのビルにはフロアごとにいくつかの設備整えられており、当番に訪れた生徒だけでなくとも遊び感覚で訪れる生徒もいるようだ。
今日から、アヤメはしばらくここのオフィスで世話になる。昨晩は手頃なホテルで一泊したが、慣れないベッドはどうにも落ち着かず早くに目を覚ましてしまった。和室と布団に慣れた体はどうにも地に足がつかないとだめらしい。チェックアウトを済ませてD.U地区を一周してみたが、普段見ない街並みは彼女にとっては新鮮だった。同時に、朝から営業しているような八百屋などの前を通って自身の名を呼ばれないことも、久しぶりの経験だ。
ここに自身を知る人はいない。肩書が役に立たないことは嬉しくもあり、不安でもあった。肩書のない七稜アヤメという人物は、いったいどんな人だったのか? もはや彼女自身もそれは思い出せない。これからいったいどうすればいいのだろう、という考えが頭の中を占領していたが、それを払うように頭を振ってビルへと足を動かした。
子気味のよい音をたてながら開いたエレベーターの扉をくぐり、廊下を進んでいく。シャーレの小さな看板のある扉の前で立ち止まり、小さく深呼吸をしてからそれを押し開けた。
初めて訪れたオフィスは綺麗に整頓されており、大きな窓を背にした机には既に人影があった。セイントだ。
「おはよう、アヤメ。ようこそシャーレへ、歓迎しよう」
彼はこちらに気がつくと、快活に挨拶をして手を差し出してくる。アヤメはそれに応じて手を握った。
「うん、こちらこそ。よろしく、先生」
セイントは力強く手を握ると、オフィスの簡単な説明をしてくれた。おそらくアヤメが来るにあたって片付けられたのであろう1つの机に彼女を招き、その上に置かれていた服を手渡してきた。
「シャーレに所属している以上は、多少なりとも業務を手伝ってもらうことになる。今の立場に気持ちを切り替えるためにも、これを着るといい」
それは連邦生徒会の制服に似ているようだったが、少しデザインが異なるもののようだった。疑問に思っていると、オフィスの奥の扉が音を立てる。そこから顔をのぞかせたのはユメだった。
「ふわぁ〜、おはようございま……って、アヤメちゃん!?」
気の抜けたあくびをしていた彼女は、アヤメの見ると驚いて少しずつ顔を赤くしていった。彼女の服装はゆったりとしたシャツとドルフィンパンツで、頭には寝るときに着けているだろうヘアバンドが巻かれている。完全にリラックスした部屋着だ。
「ア、アヤメちゃんずいぶん早いね!?」
慌てた彼女は恥ずかしそうなだ。先ほど晒した様子は、例えるなら実家でリラックスしている姿を見られたようなものなのだろう、そのまま彼女は「ちょっと待っててね!」と言って奥へ引っ込んでしまった。その様子に少しセイントは笑うが、特段気にすることもなくアヤメにオフィスの説明を続けた。それでよいのだろうか? と彼女は少し疑問に思うところもあったが、とりあえずはその話に耳を傾ける。
それが一段落をしたときに、部屋の奥からユメがひょこりと顔を出した。服装はそのままだがヘアバンドは外され、髪の毛は整えられている。
「アヤメちゃ〜ん!朝ごはん食べた?」
「ううん、まだだけど…」
「そっか、抜いてるわけじゃないなら一緒に食べよ!」
ぱっとユメは笑顔をむけてそう言ってくる。断る理由も特にないから厚意に甘える。
「うん、それならいただこうかな。何か手伝う?」
「それなら、パンと飲み物の用意お願いできる?」
「わかった、いいよ」
そうしてセイントに断りをいれてから奥の部屋へと進む。どうやら扉の先には仮眠室を兼ねた休憩室になっており、側には給湯室というよりはキッチンに近いスペースがあった。そこでユメはサラダをお皿に盛り付けていて、これからスクランブルエッグを用意するところのようだ。部屋を見渡してケトルを見つけると、アヤメはそこに水をいれてスイッチを押しす。小さな稼働音を確認したところでユメが声をかけた。
「ありがとう、アヤメちゃん。パンは右の棚で、お茶とかは左の棚にあるから、好きなのを選んでね」
「わかった、ユメと先生のパンは何がいい?」
「私たちは食パンかな、小さめのパンもあるからそれも食べていいからね」
見れば厚切りの食パンに加え、どうやら新しく追加されたであろうバターロールがあった。少食のアヤメにぴったりのもので、おそらく気を利かせて用意してくれたのだろう。そんな彼女は鼻歌を歌いながらフライパンに卵を落としていた。なんだかその様子にアヤメの気持ちも楽しくなってしまい、無意識に口の端が上がっていた。パンをトースターに入れ、いくつかあるティーバッグを見る。アソートタイプの箱に加えて、ポッド用のアールグレイなどが揃っていた。
「紅茶はどうする?」
「私はジャスミンを飲もうかな、セイントさんにはアールグレイを淹れてあげてほしいな」
その様子は手慣れており、セイントの好みを把握している様子は家族のような雰囲気だ。アヤメは少し意地の悪い笑みを浮かべてユメをからかった。
「へぇ、旦那の好みがわかる奥さんみたいじゃん?さっきもずいぶん気を抜いてたみたいだし」
「おくっ!?な、何言ってるのアヤメちゃん!?」
顔を真っ赤にしてこちらを見るユメに「焦げるよー」と言えばあわててその顔を手元に向ける。ささっと卵を混ぜて火を止めながら更に盛り付け、ジト目でアヤメを睨んだ。
「もう、からかわないでよアヤメちゃん」
「ごめんって、でも本当に仲がいいんだなって思ったからさ」
盛り付けられた皿を受け取り、それに焼き上がったパンを乗せながら返す。悪戯心はあったが、そう思ったことは事実だ。ユメにもそれは通じたようで嬉しそうにはにかむ。
「ありがとう。気がついてからはずっとセイントさんと一緒だから、それが自然になっちゃった」
照れくさそうな彼女は、「あ、でも流石にさっきのははしたないかな…?」と少し不安げになるが、きっとセイントはそんなことを気にしないだろうなとアヤメは考えた。それに誰だって家では気を抜くものだ、それだけ落ち着いた環境を得られるのはきっとセイントが側にいるからなのだろう。
「いいんじゃない?家族みたいで羨ましいくらいだよ」
「家族……うん、そうだね!」
そう答える彼女は、ひまわりのような笑顔を咲かせた。やはり彼女は心地のいい人だな、とアヤメは改めて感じる。同時に、ちくりと胸が傷んだ。
食事をオフィスに運び、3人でテーブルを囲んで食事を取る。食卓は和やかで、とても落ち着くものだ。今日の他愛のない話から1日の仕事の予定まで、どれも自然に話が進む。しかし、そんな話の中にも緩やかにアヤメ交えていく2人が、彼女にはなんだか温かく感じられた。
「アヤメにも伝えたが、シャーレの服が届いていた。ユメも今日からはそちらを着ると良い」
「本当ですか!楽しみです!」
おそろいだね、とはにかむユメに少しばかりアヤメは照れる。今までもさんざん百花繚乱の制服が同じ人はいたはずなのだが、こうも屈託ない笑顔で喜ばれてしまってはなんだかこそばゆい。アヤメに渡されたものはデザインサンプル用に作ったもののため少しの差異はあるが、だからこそ個性もあり、そしてサイズの用意があったのもちょうど良かった。
ちなみにだが、現時点で唯一ユメと同じ制服を身に纏っているといるという事実が少しばかり羨望と嫉妬の目を向けられることをアヤメは知らない。
「今日はこのあとレジルを含めてSRTについての会議がある。その間はシャーレの留守と書類を任せたい」
「はい、百鬼夜行に言ってる間に来た要請も応えられるものは返答しておきます。お昼はどうしますか?」
「ふむ、上の会議室だからな、何か出前をとって皆で食べるとしよう。リンたちにもアヤメを紹介したい」
そうして1日のスケジュールの確認を終え、食器を片付けたユメとアヤメはそのまま支給された制服に袖を通した。白をベースに青の差し色があるのは連邦生徒会の制服と同じだが、こちらのデザインはセーラーに近い。
「わあ!アヤメちゃんすっごく似合ってるよ!」
「ありがと、ユメも似合ってるよ」
「えへへ、そうかな?」
照れながらも服の端をはためかせる彼女はとても楽しそうだ。そう思うアヤメもせっかくならとツーショットの自撮りを撮ったり一通り楽しんでしまった。流石に仕事を始めなければとオフィスに戻れば、いくつかの書類をまとめたセイントが彼女たちを見る。
「二人とも似合っているぞ、やはり君たちは可憐だ」
あまりにストレートな褒め言葉に流石にアヤメも恥ずかしくなるが、ユメは少し照れくさそうにしながらも「ありがとうございます!」と返答している。きっとこれは彼らにとって普通のコミュニケーションなのだろう、真っ直ぐで眩しすぎるが慣れなくてはならないと気を取り直して礼を言う。
「ありがと、先生はもう会議にいくの?」
「ああ、昼には連絡をしよう。昼食はこちらで用意するが苦手なものはあるか?」
「特にないよ、強いて言うなら多いと厳しいかな」
「ふむ、ならば問題ないだろう。私とレジルがいれば残ることはない」
そうセイントはおどけるが、確かに2人は色々な意味で強靭なので心配することはないのかもしれない。……それ以前にセイントに胃があるのかという疑問もあるがそこは気にしないことにした。
「では、行ってくる」
「はい、行ってらっしゃい!」
そうやってセイントを送り出す様子を眺め、やはり家族か夫婦だななどと思っていれば、ユメはくるりとこちらを向き、ふんすとやる気を込めて告げる。
「よし、それじゃあお仕事しよっか!いろいろ教えてあげるね!」
そうして、アヤメにとって初めてのシャーレ業務が始まった。
カタカタ、カタンッ。
キーボードでの入力を終えて、ふぅとアヤメは息を吐いた。ユメも一通りの作業を終えたらしく、こちらを向いて労ってくる。
「お疲れ様。やっぱりアヤメちゃんはすごいね、教えることほとんどないよ〜」
「ありがと。だけどパソコンはあんまり使ってなかったから、慣れないね」
百花繚乱でも外部との連絡用に使う機会はあったが、それでも回数は少なかった。現にユメよりは少ない量の仕事だったが終わったタイミングはほぼ同時だ、ユメもまだ仕事を初めて長いわけではないらしいが、それでも慣れてきているんだろう。そんな風に考えながら少し首をのばそうとすれば、ユメが背後に立って肩に手を置く。
「ふふ、慣れない作業をこれだけできるなら十分すごいよ?でもパソコン使ってると肩こりひつらいよね〜」
そういって肩を揉んでくれる彼女も同じ悩みを抱えているようだ。……少し自分とは違う要因を抱えていそうだが。
「あ〜、気持ちいい。でももうちょっと早くタイピングできるようにならないとね、仕事も少なくしてくれたんでしょ?」
「そうだけど、元々セイントさんと2人か当番の子がいるくらいだから助かってるよ。それに…」
彼女は言葉を区切る。どうしたのだろうと振り返ろうとすれば、その前に頭にふわりと手のひらがそえられた。
「アヤメちゃんは優しいから、そうやってすぐに頑張ってくれるよね。でも、焦らなくていいんだよ」
そう言って、優しくアヤメの頭を撫でた。
「焦っている」
そんなつもりはなかった、でも確かに焦っていたのかもしれない。無意識に役に立たなければ、と考えていたのは事実だ。これはもはや性分なのかもしれない、けれどもそれで自身が耐えられなくなって迷惑をかけたのだ。他ならぬユメにも。
そう思ってしまえば、また心に残っていた小さな棘が痛みを与えてきた。百花繚乱で出会ってからはユメと一緒いる機会は多かったが、2人きりになるのはあの河川敷以来だった。
「……ユメ」
「なぁに?」
ユメはどこまでも優しい声を返してくれる。あの時だってそうだった、彼女はアヤメの問に真摯に向き合って、自身の過去を話してくれた。自分はそんな彼女を……
「あの時……騙して、ごめん」
そう言って、アヤメは謝るかのように頭を垂れた。彼女の優しさを無下にしたこと、後から聞いた話だが彼女はアヤメと別れた自分を責めていたらしい。そして彼女はアヤメたちを見つけてからも、その体を温めるために気力を振り絞っていた。
彼女は自身を優しいと言ってくれたが、そんな資格があるとはどうしても思えなかった。その醜さに耐えられなくなりそうだった。そしてそんな自分を見る目がどんなものかを知ることも怖くて、こうして謝罪の最中ですら彼女の方を向けやしない。
なんてどうしようもないやつなんだろう。
そう思って、逃げるように新たな言葉を紡ごうとした時だった。
「はい、ぎゅ〜〜っ!」
自身の頭を包み込むように、彼女はアヤメに抱きついた。予想外の温もりに一瞬呆気にとられるが、ユメはアヤメの反応を待たずに声をかけた。
「誰だって、自分に嫌いな所はあるよ」
「……ユメにも、ある?」
「うん、もちろんあるよ」
そう告げて、彼女はアヤメと向かい合うように体を動かした。やっとそこで見えたユメの表情はやはり優しげだったが、どこか悲しげでもあった。
「私は記憶がないって言ったでしょ?」
それは彼女から聞いていた。記憶を失い、セイントと戦場を歩み、アビドスで自分を知る後輩に出会ったと話をしていた。自身が生きていたことを証明してくれたことが嬉しかったとも。確かにそれも本心なのだろう、しかしまだ、ユメには語っていない胸の内があった。
「私は、今でもやっぱり思っちゃうんだ。本当に私はここにいていいのかなって、ホシノちゃんが私を先輩って呼ぶ度に、その先輩は本当に私なの? って考えちゃうの」
そう言う彼女の眉はひそめられていて、何かを嫌悪しているともとれるようだった。
「最低だよね、あれだけホシノちゃんがいてくれて良かったって言ったのに。私は結局、まだなにも信じきれていないんだ」
「そんなことはない!」とアヤメはユメに今すぐ伝えたかった。でもアヤメは彼女の苦悩を聞いて共感はできても、同感はできない。否定するための証拠も持ち合わせていない。彼女のことを理解できているわけないのだ。
「でもね。私が苦しいと、同じくらい苦しそうな人が、傷ついてくれる人がいるの。どうして苦しいかは知らなくても、私を想うくれる人がいるの」
他人の気持ちなんてわからない。アヤメの本心を誰も知らなかったように、完全に理解することなど不可能だ。けれど、誰かを想うことに理由などない。必要ないのだ。それを相手がうっとおしく感じたとしても心配するし、愛情を向けるのだ。アヤメにとって、ナグサのように。
「だからね?嫌いなところがあるからって自分を傷つけちゃだめだよ。あなたの大切な人が苦しかったら、あなたも苦しくなっちゃうから」
「……そんな理由でいいのかな?結局、他の人に理由を押し付けてるだけじゃないのかな?」
アヤメの疑問に、彼女は手を握って答える。大丈夫だと勇気づけるように。
「いいんだよ。きっと皆そうだし、そうしてお互いを大切にして幸せにし合えばいいんだから」
「…そっか」
アヤメはそうして、身を委ねるようにユメに体重をかけた。互いにほほ笑みながら、優しく抱き合う。くすぐったいが、その感覚すら心地よかった。百鬼夜行を離れて解き放たれたつもりになっていたが、まだまだ気を張っていたらしい。身体が温まって、ほどかれていくような感覚をしばらく楽しむことにした。
しばらくそうしていると、ユメの端末が通知を知らせる。気づけばお昼時で、セイントからの昼食の連絡だった。それを確認し、少し名残惜しいが体を離して支度をすませる。ユメがオフィスの扉に外出を知らせるボードをつければ、アヤメを優しく外へと誘った。
「それじゃ、行こ!デリバリーに詳しい子がいるから、お昼は期待できるよ!」
「なにそれ、でも…」
「すっごい楽しみかも」
少しパヴァーヌの執筆に時間がかかってしまっているので、閑話を追加させていただきました。
アヤメについてもっともっと描きたいことはありますが、彼女が再び歩き出すスタートラインを知ってもらいたかったのです。今後も彼女はシャーレで少しずつ自分を見つめ直していくでしょう。それを傍で見守ってくれる人も、帰りを待ってくれる人がいることも、彼女は知ることができたのですから。