「おはようございます、主様」
「うーん……」
休日の朝。心地のいい日差しの中、めちゃくちゃ優しい声が聞こえた気がした。
「今日から俺が担当執事だって聞いたけど……間違ってないのかな? 主様、全然起きないし……」
担当執事……?
「はっ……!」
私は飛び起きた。と同時に見えてきた景色に、ここは日本の世界ではなく、デビルズパレスの屋敷内なのだという認識が脳に蘇ってくる。
「わ、今度こそ執事さんの名前覚えようとしてたのに寝過ぎたんじゃ……」
「わわ、主様!」
急いでベットから下りようとして誰かとぶつかりかける。あれ、いつもの担当執事じゃない……と私は寝ぼけた頭をなんとかスッキリさせようとする。
「おはようございます、主様。今日からしばらく俺が担当執事だと聞いたんですけど、間違えていないですか?」
「……優しい美男子がいる」
私の目の前には、片眼鏡を掛けた紅葉色の髪をした美男子がいる。自信なさげに垂れ下がる眉の下に覗く黄色い瞳が、私を優しく見つめながら不安そうに揺れていた。
「あー! あなたはフェネ……えーっと、新しい担当執事さんの?」
私は今日から担当執事を変えてもらっていたことを思い出しながら、あれ、なんて名前の執事を指名したんだっけ、と必死に考えた。すると、紅葉色髪の彼が少し身を引いて微笑みながらこう答えた。
「俺はフェネス・オズワルドです。担当執事に指名してもらって嬉しいです、主様」
「フェネス……そうだったわ」私は落ち着こうとしながらベットに座り直した。「あの、前の担当執事さんから聞いていると思うんだけど、私名前を覚えるのが苦手で……それで、ちゃんと覚えようと思って、担当執事を一定期間ずつ変えて覚えようとしているの」
「そうだったんですね。苦手なことに挑戦しようとする主様は、とても素敵です」
「うっ……」
ここにいる執事は私が何を言っても自己肯定感を上げようとしてくるのではないか。前の担当執事といい、今目の前の彼といい、優し過ぎる。私は気持ちを紛らわせるためにムーを抱き寄せようとしたが、どこに行ったのかこの部屋には今はいなかった。
「でも、名前を覚えるならしばらくハウレスが担当になっていてもいいと思うんだけど……あ、すみません。俺なんかがアドバイスするなんて失礼ですよね」
「あー、いやいや、あなたの言っていることはごもっともだと思うよ」私はそう言いながら、そうか、こういうタイプの執事もいるのかとつい職業柄観察をしてしまう。「ただ、ハウレスがあなたの話をしていたから、あはたと関わっていたら、一緒にハウレスのことも知れるかなって思って」
「なるほど……主様は行動力がある方なんですね」
「行動力……?」
不思議な言い方をするなぁと私は思った。
「俺はあまり行動力がないので……」
と片眼鏡の向こうで横を向く彼に、もしかして自己肯定感が低いのはそちらなのでは、と私は推測した。自分なんて、と言う子どもは保育園じゃよく見かけるけど、大人になった今でも自分に自信がないのは、何も珍しいことじゃない。
「えーっと、フェネック……だっけ?」
「フェネスです。覚えにくいですよね、俺の名前」
「ううん、そんなことないの。私が覚えられないだけで……」ここでも名前を間違える私に心の中で激しく懺悔しながら、言葉を続けた。「ちょっとフェネス、かがんでくれるかな?」
というのも、フェネスは結構背が高いのだ。身体の肉づきもいいし、鍛えているのかもしれない。
と考えながら、私はかがんでくれた彼の頭にそっと手を乗せた。
「あなたのことはよく知らないけど、あまり自分を下げるのはよくないわ。行動力くらいあとで身につくから、きっと大丈夫」
「え、あの、主様……」
困惑する彼の声を聞いてハッとした。そうだった。彼は成人男性でこの屋敷の執事。出過ぎた真似をしたかもしれない。
「ご、ごめんなさい、ディアさん! つい子どもに言っているように頭を撫でちゃって……」
私は慌てて手を引っ込めた。彼も私の声に驚いたように離れながら目を逸らした。顔を赤らめている。さすがに恥ずかしかったよな、今のは……。
「いえ、嬉しいです。ちょっとビックリしましたが……」それから彼はこちらと目を合わせた。「えっと、ディアさんって誰ですか? 俺と似ているのでしょうか」
「あ……」
また名前を間違えたのか、私。しかも「ディア」という名前で呼んでしまうという失態。
「言いづらいことですか? すみません、ほぼ初対面なのにこんなことを聞いてしまって……」
私が黙って目を逸らしたからか、彼は本当に申し訳なさそうに声のトーンを下げた。ここまで誠心誠意で話してくれていると、なんだか黙っている私が失礼なような気がしてきた。
「ううん、そうじゃないの。あの、ちょっと訳ありで……」私は少し床を見つめたが、名前を間違えられては気分も悪いだろうし、言うしかないと思った。「本にね、登場する人物の名前なの。その本にも、あなたみたいに片眼鏡を掛けているキャラクターがいて、その子がディアっていうんだ」
この話を他の人にもしたのは、初めてだった。
(さすがにこれも珍発言だったかな……)
私はそう思いながら、彼は一体どんな反応をするのだろうかと恐る恐る様子を伺ったが、予想外の言葉が返ってきた。
「主様も本がお好きなんですか? 俺も好きなんです」
「え」
「それってどんなお話なんですか? 俺も読んでみたいです」
(意外にも好感触……)
何よりも笑顔で楽しそうに聞いてくる彼の顔を見ると、私は拒否もすることが出来ず……。
「こ、今度向こうの世界から持って来ようかなぁ……持って来られたらなんだけど……」
「楽しみにしてますね!」
私の心境を知らない彼は、爽やかな笑みで受け答えた。ああ、これは持って来ないとずっと罪悪感があるやつだ……。
私が名前を間違える理由は、大抵別の人と名前を間違えるからだ。
名前がムーみたいに短いとか、園長先生とか執事とか、通称なら覚えられることも多いのだが……大きな理由は、私が物書きだからだ。
いやいや、物書きがみんな名前を間違える訳ではない。私は自分が書いた小説の登場人物なら間違えたりしない。それが、リアルにいる人の名前と間違ってしまうのだ。
しかも悪魔執事たちは何人かが、私が書いている小説の登場人物にそっくりで……。
「はぁ……」
私は元の世界の自室に並べている自作小説の本たちを眺める。私の小説はあのように書籍化して「ハルト」というペンネームでそこそこ有名だ。内容は健全である。ただちょっと……というかかなり、マニアックだ。そんな本を異世界の、しかも本好きな彼に受け入れてもらえるかかなり不安だったし、何か辛辣なことを言われても立ち直れそうにないので向こうの世界に持って行くのを躊躇ってしまうのだ。
何より家族にすら秘密にしている自作小説を他の人に見せられるだろうか。
(考えれば考える程見せたくない気持ちが強くなっていく……)
でも。
あんな輝かしい目をして微笑むディア似の彼の顔を思い出すと、本を見せずになぁなぁにしちゃうことに非常に罪悪感が湧いてしまう。
(それに私、彼に自分のことをあまり下げちゃダメって言いながら、自作の本を隠すようなことをしていたら矛盾……してるよね)
私はしばらく考え込む。
(よし、あの人には教えてあげよう)
私は、決心した。
ーデビルズパレスにてー
ガンッガンッ……!
また別の休日。私は昼間にデビルズパレスにやって来た。
(ここは……デビルズパレスの裏庭かな?)
私はデビルズパレスの裏庭らしきところで、紅葉色髪をした彼を見つけた。
「ハハ、やっぱりバスティンは強いね」
紅葉色髪の彼は誰かと模擬戦をしていたようで、うっすらと汗を掻いていた。
「いや、俺はまだまだだ」
バスティンと呼ばれた彼は、そう言いながら謙遜している。あの人も執事なのかな……? 大きな剣を持っているというのがとても印象的だった。
「あ、主様」
と黙って観察している内に、執事たちが私に気づいてこちらに目を向けてきた。
「おかえりなさい、主様。帰って来てくれたんですね」
紅葉色髪の彼がそう言うと、大きな剣を持っている深緑髪の彼も会釈をした。
「おかえりなさい、主様」と言い、深緑髪の彼は大きな剣を下ろした。「どうやら俺はここで立ち去った方が良さそうだな。フェネスさん、主様のことを頼んだ」
「うん、ありがとう、バスティン」
そう言って深緑髪の彼が立ち去るのを見送って私はつい第一印象を口走ってしまった。
「あんな感じの執事さんもいるんですね。なんというか、飾りっけなくて正直そうな感じの……」
言ってしまってからこれは失言だったかな、と私が振り向くと、そこにはクスクス笑う彼がいるだけだった。
「確かに、飾りっけないところがバスティンのいいところかもしれません」と紅葉色髪の彼が言う。「口数は少ないんですが、根は優しいんです。さっきだってフォローするつもりがフォローされることを言われたし……」
そうやってバスティンを見送る彼の眼差しを眺めていると、仲間っていいな、と私は心底思った。
「そういうの、素敵です」
私はあまり人と上手くいかないことが多いから。
「え、そうかな……?」
「フォローし合う仲間って、早々ないですよ。私もそういう仲間に出会えたら良かったなって思って……」
(あ、この話し方だと暗くなってしまうな)
「えっと! 私の話はいいんですっ。そ、それより、これ、持ってきました!」
私は話題を変えようと慌てて手にした本を彼に見せた。
「あ、その本ってもしかして……」
「そうですそうです。この本に、あなたによく似たディアってキャラクターが登場してて……」
「すぐにでも読みたいです! ……あ、まずは主様をお部屋に案内しますね」
彼が嬉しそうにニコニコと笑うから、私は本を持ってきて良かったなと心から思った。
「え、この本は、主様が書いたものなんですか?」
デビルズパレスの私の自室にて、本の正体を今回の担当執事に伝えると、彼は驚いたように目を見開いた。
「そ、そうなの……だから、ちょっと恥ずかしくて……」
感想とか目の前で言われたらどうしよう、とやはり私は聞きたいような、聞きたくないような複雑な気持ちのまま向こうを見つめた。今は誰とも目を合わせたくない気分だ。
「とても面白かったです。ワクワクしたり、ドキドキしながら一緒に冒険したような気持ちになって、さすが主様です」と彼は真っ直ぐな言葉で言うのだ。「それに、この本に登場するクリスって二刀流の剣士は、ハウレスによく似ていますね。確かに、名前を間違えちゃいそうです」
「え、もうそこまで読んだの……?」
私が驚いて思わず彼の目を見る。そこには、穏やかで愛嬌のある彼の笑顔があるばかりだった。
「俺が契約した悪魔、フェネクスは本の速読が出来るようになる能力なんです。戦いには何も役には立たないんですけどね……」
「へぇ、まるでフェニックスみたいな名前……」
「主様の世界にも、フェニックスのお話があるんですか?」
「え、おとぎ話だけど、一応……」
「そちらの世界のおとぎ話も、ぜひ聞いてみたいです」
とニコリと微笑む彼を見ていると、本好きに悪い人はいないんだなぁと私は感じた。私は、彼に本を渡すまで悶々と悩んでいたことが些細なことだと気づいて、ようやくココロが晴れた気持ちになっていた。
「ってあ、すみません。こちらばかり話してたらダメですよね。執事としてしっかりしなきゃ……」
「ううん、そんなことない。むしろ助かったよ」
私たち人間って、気づかない内に支え合ったり助け合ったりしているのかもしれない。
「でもごめん。えっと、あなたの名前って、本当はなんだっけ?」
ずっと、彼とかあなたとか、ディアによく似た人と言っているのは申し訳なくなり、私はそう訊ねた。
彼は全く嫌な顔一つせず、心地よく答えてくれた。
「俺はフェネスです。いつかでいいんで、覚えてくれると嬉しいです」
ー後日、デビルズパレスにてー
(うーん、この屋敷まだよく分からなくて迷子になっちゃったかも……)
近くに誰もいないままデビルズパレスに来てしまった私は、屋敷内をウロウロしていた。
「うーん……」
そこに人の声が聞こえ、誰かに案内してもらおうと部屋をそっと覗き込むと、もう一人の声が聞こえてきた。
「どうしたの、ハウレス。ハウレスは考え込み過ぎるところがあるから、話くらいは聞くよ?」
と言っているのは、あの本好きの執事……フェネスだった。
「いや、大したことはないんだ」フェネスの話し相手であるハウレスが言葉を続ける。「ただ、主様が時々、俺のことをクリスと呼ぶから、どうしてだろうと思っていてな」
「あー、そのこと!」フェネスが声をあげる。「実は、それってこの本に登場するキャラクターのことみたいなんだよね」
「本に登場するキャラクター?」
「うん。主様が書いている小説なんだけど、挿し絵もよく入っていて読みやすいんだよ……ほら、このキャラクターがクリス。二刀流の剣士なんだけど、みんなのリーダーでしっかりしているところ、ハウレスにすごくよく似ていて」
「俺によく似ているキャラクターがいたのか……」
「でも、今は名前を間違えられてもいいかなって俺は思ってて」とフェネスは言う。「主様に名前で呼ばれた時、倍嬉しくなるからさ。あ、今俺の名前呼んでくれたな〜とか」
「それは俺も分かる気がするな……」
「やっぱり? 俺だけじゃなかったんだ」
なんだか私の話をしているようで恥ずかしくなり、私は扉から離れた。名前を呼び間違えることはずっと申し訳ないなとは思っていたけど、執事たちの中ではポジティブに捉えられていて私はちょっと安堵していた。
(でも、なんか、私の本を勧められていたよな……)
のちに私の本の話題でデビルズパレスは賑わうことになるが、それはまた、別のお話……。
おしまい