ヴァルグレア統制学院が支配する土地、ヴァルグレア自治区。その境界を越えた瞬間、鬼方カヨコは空気が変わったのを理解した。つい最近まで感じていた空気に似ており、今となっては思い出したくもない事を思い出させることとなり、思わず息をついてしまう。
「……やっぱり、良い所なんかじゃないね」
カヨコは小声でそうつぶやき、胸ポケットから薄いメモを取り出して依頼内容を確認する。依頼主はアルマ=グラン農業高等学校。納品先として関係を持ちつつも、占領地の拡大や納品する野菜の増加、諜報員が入り込む等対岸の火事として放置することが難しいことが立て続けに起こったために彼女達便利屋68に依頼を出したのだ。今回の目的は「動向の予測」。要は、ヴァルグレアが次に何をしようとしているのか、その兆しを探れということだ。
「カヨコ課長……。私きちんとできるかしら……。すごく緊張してきたわ……」
横から聞こえる震え混じりの声は陸八魔アルによるものだ。カヨコが属する便利屋68の社長にしてアウトローにあこがれる良識人だ。ゲヘナ学園に在籍しているとは思えない程に良識的な彼女は白目を向き体を震わせている。その気持ちはカヨコにも痛い程理解できた。
今回の依頼に当たりアル達は穏便に侵入できるルートを探すところから始まった。ヴァルグレア統制学院は占領地はともかく自治区を高い壁で覆っている。内外の行き来は北を除く東西南に設置されたゲートでしか出来ないようになっている。
唯一外壁が壊れている北部は処置官が大量に活動しており、突破は困難と判断した。ゲヘナの風紀委員会相手に対等に渡り合える実力を持つ彼女達でも廃ビルが火炎放射器で次々と燃えている姿を見て突撃する気にはなれなかったのだ。
そこで、アルマ=グラン農業高等学校の協力で納品する予定のトラックの下に潜り込み、隙を見て侵入することに成功したのだ。彼女たちは次に納品する一月後までヴァルグレア統制学院の市民として過ごさなければならなかった。
そのための演技も周到に行い、この依頼に臨んでいる。初めてのゲヘナ外での依頼という事もあり、アルがそれだけ張り切ったのだ。とはいえ、準備を進めれば進める程、その興奮は消え去ってしまったが。
アルを見かねてか隣を歩く浅黄ムツキが「大丈夫大丈夫! 練習通りにやれば!」と励ましているがそんな彼女もふいに出る笑顔を押し込めようと変な顔になってしまっていた。
この街では、笑顔ですら不自然になる。笑みはこの自治区に存在していなかった。カヨコ自身にとってはいつもの表情をしていれば問題はないが二人には難しい事だろう。笑顔なんて普通に過ごしていれば自然と浮かんでしまう“人として当たり前の事”なのだから。
街に入ったカヨコは不自然にならないように周囲を見回した。この自治区の街は整然としていた。言葉にするとそれだけだが、それがどこか異様だった。
歩道を行き交う市民たちは、誰一人として彼女たちに関心を向けてこない。視線が合う事はなく、あったとしても直ぐに反らされる。関心を覚える感情はなく、ただただ通り過ぎる風景を見ているような視線であった。
「……二人とも、感情消して。笑うのもだめ」
ふと、視界に見えた光景を見てカヨコは二人に耳打ちする。そこには処置官らしき制服姿の生徒が交差点の近くに立っていた。その隣には補佐官と思しき生徒が端末に何かを打ち込んでいる。時折、通り過ぎる人物を呼び止めては何かを問いかけていく。それに対して頷く者には即座に解放し、答えない者はその場に拘束されて別の処置官の手によってどこかに連れられて行った。
「……ゲヘナとは大違いね。私達、ここで1か月も暮らさないといけないの……?」
アルの悲惨とも、絶望とも取れるつぶやきがカヨコの耳に入る。アルの方を見れば顔色は悪い。口角が引きつり、今にも泣き出しそうだ。その隣のムツキもあまり顔色はよくはない。こういった場所は二人は初めてなのだろう。カヨコとは違い本当の闇に触れたことがない証拠であった。
だが、二人には悪いと思いつつもカヨコは視線を送り、「集中するように」と合図を送る。処置官の目に留まれば、声を駆けられれば彼女たちは終わりだ。何しろ、潜入する事は出来てもヴァルグレアが管理する市民コードや情報を偽造する事は出来なかったのだから。
3人はヴァルグレア統制学院の制服に身を包み、少しでも怪しまれないようにしている。ヴァルグレア統制学院も一部の生徒ならば出歩いている事も珍しくはなく、こうしてただ歩くだけなら違和感を持たれずらかった。
そうして出来るだけ無表情に、遠くを歩く事を心掛けて処置官の前を通りすぎる。幸いにも彼女たちを見ても不審に思う事はなかったようで直ぐに視線を離し、周囲に視線を戻していった。
それを確認した3人は誰にも見られないように、気づかれないように安堵の息をつく。たった1度、すれ違うだけでここまでの緊張を生むことにアルはこの依頼を受けたことを後悔していた。
「ね、ねぇ? 今からでも、降りられないかしら……?」
「アルちゃん……。気持ちは分かるけど無理じゃない?」
「そう言うのはせめて入る前に言わないと」
「で、でも! ……その、始めての学園外の依頼だったし」
気まずそうに言うアルに二人はため息をつく。だが実際二人もここまで大変とは想定しておらず、アルの気持ちが分からないでもなかった。アルマ=グラン農業高等学校の生徒会長からは他にもいくつかのグループが依頼を受けているから気楽にやって欲しいとは伝えられている。ここまで辛いのならば隠れて1か月間やり過ごすことも考えるべきだろう。この状況ならばアウトローにあこがれるアルも反対するとは思えない。むしろ真っ先に賛成しそうだった。
「社長、残念だけd……!?」
ふと、誰かの悲鳴と銃声が聞こえてきた。自治区に入ってから一切聞いていない、聞き慣れたその音。それはかなりの近くから聞こえてきて思わず身構えてしまう。そして、目の前の路地から一人の生徒が出てきた。ヴァルグレア統制学院の制服を着ているが生徒会長に見せてもらった他に依頼をした人物の写真と同じ人物だった。
だが、凛々しくも自信にあふれていた写真とは違い、涙で顔を濡らし、恐怖で顔を硬直させたその姿はとても同一人物とは思えない。3人は咄嗟に物陰に隠れて様子をうかがう。
「スパイだ! 捕まえろ!」
遅れる事約十秒。路地から出てきた処置官らしき女性の言葉がカヨコたちがいる大通りに響く。声を聞きつけて先ほどすれ違った処置官が銃を構えて逃げるスパイに銃口を向けて発砲した。
スパイの少女は周囲に気を向けられておらず、発砲された銃弾を諸に受けた。とはいえヘイローに守られたキヴォトス人にとって見ればそれだけでは逃亡を阻止するには至らない、はずだった。
「ぎゃっ!?」
銃弾が当たった少女は体をびくりと震わせるとその場に倒れこんだ。体が小刻みに震え目は白目を向き、口からは泡を吐き出している。明らかに普通ではない彼女を処置官たちが取り囲み銃を向けている。逃亡の可能性がないためか発砲する事はなかったが少しでも逃亡する意思を見せれば発砲する程度には処置官の銃は圧力を放っていた。
「……あれ、普通の弾じゃないよね」
「電流が流れるとか? それもめっちゃ高威力だね……」
物陰から一連の様子を見ていたカヨコたちは何が起こったのかを確認する。原理は不明だが処置官は逃げる相手に電流が流れるらしき銃弾を使用する事が分かった。それと同時に、もし見つかれば自分たちもあのような姿になると理解させられてしまった。
「う……っ!」
トラックが到着し、荷台に無造作に投げられた少女の顔が一瞬見えた。絶望で顔をひきつらせた彼女の未来を想像したのかアルはうめき声をあげてその場に蹲った。必死に吐き気を我慢しているようだが立ち直るには時間がかかるだろう。
ふと、そこでカヨコは周囲の様子に気づいた。大通りを歩く市民たちは今目の前で起こったことに対して興味を持つわけでもなくいつも通りの日常を送っている。視線を向ける事があれど立ち止まり、確認しようとする者はいない。まるで“何事もないかのように平然と過ごしているのだ”。
「……雷帝」
そんな彼らの姿はかつてゲヘナを支配した人物をカヨコに想起させた。彼女の下で動き続けたカヨコは雷帝が統治を続けた世界を見せられているような気分になり、憂鬱な気分となる。それと同時に雷帝が健在の時にヴァルグレア統制学院と手を組んでいればゲヘナもまたこのような場所になっていたのかもしれないと考えてしまった。
「……流石にそれは、行き過ぎている」
ゲヘナが直ぐに変わるとは思えないが治安が終わっていた土地を幾多の犠牲の上に平定した組織の後身である。時間と犠牲がかかってもヴァルグレアの手に掛かれば成し遂げられてしまうのだろうとカヨコは考えた。
「……社長。今日はこのくらいにしよう。先ずはここになれる事から始めないと」
「……そうね。悪いけど私はもう無理よ。今日は休みたいわ」
アルも取り繕う余裕はないのだろう。泣きそうな顔になりながらなんとか声を出すので精いっぱいの様子だった。アルを介抱するムツキもあまり大丈夫ではなさそうであり、いつも浮かべる不敵な笑みはなく、ただただ引きつった不格好な笑みしか浮かんでいなかった。
「……ヴァルグレア統制学院」
ぼそりとカヨコは呟いた。このキヴォトスにおいて争いのない楽園と言われる一方で、自由無き争い無き地獄とも言われる謎の多い学校。
その一端に触れたカヨコはこの依頼が何事もなく終わる事はないだろうと思えるこのディストピアでの生活を考え、深くため息を吐くのだった。