ヴァルグレア統制学院は自らが警戒されている事を十二分に理解していた。そこの出身、そこから来たというだけで人々は警戒し、時には明確な敵意を向けてくる事を。
故にヴァルグレアは自治区外の全てが敵に回ったとしても問題ないように常日頃から情報を集め、工作を行い、常に暗躍を続けてきていた。
それはヴァルグレア対外諜報局という一つの組織が設立される程に力を入れていると言えば分かるだろう。その規模は統括局に次ぐ程の大きさを誇り、属する人数は不透明な部分が多く、不明だが大量の人が属しているとだけ言えた。
彼女たちの主な活動は自治区外での情報収集である。ヴァルグレアにとって必要不必要関係なくキヴォトスの様々な場所から様々な情報を集め、諜報局に送っている。それらは諜報局AIの力を借りつつも整理され、統括局を始めとする各機関に対して情報提供を行っていた。
自治区外で活動する以上ブラックマーケットを巡回する処置官とは違い、局員はまるで普通の生徒と変わらないような振る舞いをする事が許されていた。彼女たちは日常を楽しみ、青春を謳歌する普通の生徒を装っている。統制された彼女たちは月に一度自治区に戻ろい自治区外の影響を受けていないかを厳重に調査する。もし、ヴァルグレアにとって不必要な影響を受けている場合、その者の“処置”は免れないだろう。
自治区外で活動する以上、調査は内部以上に厳重に行われるのは仕方ないの無い事なのだから。
「……ん、んぅぅぅ……!」
ヴァルグレア対外諜報局に所属する高槻カナは朝の日課である大きな伸びをすると寝ぼけ目のままのそのそとベッドから這い出るように出ると顔を洗う為に洗面台へと向かう。部屋は女の子らしい装飾品で溢れており、一目見ただけでは決してヴァルグレアの人間とは気づかれない内装をしていた。
局員である以上その身分が知られるわけにはいかない。そうである以上統制されていない外の生徒らしい装いは普通に許可されていた。カナはそれを理解していた為に高等部に進級すると諜報局に所属し、優秀な成績を叩き出してこの地位を勝ち取ったのだ。
「ふぁ、今日はやる事なかったわね……」
彼女は現在トリニティ総合学園の生徒として活動している。鏡原レオの手引きで転校生としての身分を手に入れた彼女はレクス分派の手を借りない諜報活動を行っていた。これは彼女以外にも何人も同様の命令を受けてトリニティに潜伏しており、着実にトリニティ内で根を張りつつあった。
「……よし! 今日も可愛いわ!」
トリニティに来てからというもの毎日が楽しくてしょうがない。自治区では抑圧されていた感情を表に出すのもここでは許される。個性を持ち、自分らしいと言える姿でいる事が出来る。それが嬉しくてたまらないのだ。
「まぁ、それで気が抜けないようにしないといけないけどね」
カナは思う。既に何人もの生徒が“処置”されていくのを見ているのだ。彼女たちの末路は自らの気を引き締めるのに一躍買っていた。
「今日は何処を調べるか……」
トリニティ自治区へと繰り出したカナはぶらぶらと歩きつつ今日の活動場所を見定めていく。ヴァルグレアからの命令が無い限りカナはこうして休日をぶらぶらする生徒のように気分のままに活動するようにしていた。その方が疑われにくく、普通の生徒に紛れ込めるからだ。これがまだ使い捨て同然の諜報員ならば話は別だがカナはきちんとした成果を出して使い捨てにするには惜しい生徒として見られるようになっていた。
最近ではエデン条約が間近に迫っているおかげでその辺の生徒からでも様々な情報を得る事が出来るようになっていた。エデン条約について一般生徒や市民がどうとらえ、どう感じているかを報告するだけでも今は十分だったのだ。
「……あれ? あのリュックは……」
そうしていると見覚えのあるリュックを背負った少女を見つけた。それは現状ではどこの部活動にも入っていない阿慈谷ヒフミだった。カナはヒフミが好きなモモフレンズのグッズを通して友人となった少女であり、カナにとっては幸運とも言える相手だったのだ。彼女はティーパーティーの桐藤ナギサに可愛がられており、ティーパーティーにも頻繁に出入りをしていた。
ヒフミ自体は政治に強いわけではない。日常会話でぽろっとティーパーティーの話をしてしまう事も多く、カナはそれを聞き逃さないようにしつつ、表面上は気にしていない風を装う事でヒフミに対してティーパーティーの話をしても問題ない相手だと思わせる事に成功していた。
「ヒフミちゃん! おはよう!」
「あ! カナちゃん! おはようございます。お早いですね。どこかにおでかけですか?」
「いやぁ、いつもの時間に起きたけどやる事も無いから適当に散歩してただけだよぉ。ヒフミちゃんは?」
「私はナギサ様に呼ばれていて向かっている最中ですよ」
カナは良い子なヒフミを騙しているかのような罪悪感を感じつつヴァルグレアの為に情報を得ようと話を盛り上げる。ここで手心を加えたり、ヴァルグレアを裏切るような真似をすれば即座に粛清されるだろう。ヴァルグレアの目や耳は何処まで浸透しているのか、カナにも分からないのだから。
「んじゃさ、終わったら遊びに行こうよ」
「良いですよ。終わったら連絡するので、少し待っていてもらってもいいですか?」
本当に申し訳なさそうな表情でそう言ってくるヒフミに内心痛みを感じつつ笑顔で答える。カナの選択肢にヴァルグレアを裏切るなんてものは存在しない。例えどれだけヴァルグレアを嫌い、統制された世界に辟易していようともそこで生きてきて、育った彼女は無意識の領域で従順になってしまっているのだ。
少し小走りでティーパーティーの建物に向かっていくヒフミを見送ったカナは連絡が来るのを待ち遠しい少女のようにふるまいつつ、スマホを操作する。それはトリニティで買ったものではなく、ヴァルグレアで支給された諜報局員専用の通信端末だった。カナは通話をかけるとそっと耳へと端末を持っていった。
「阿慈谷ヒフミと接触しました。ティーパーティーの桐藤ナギサに呼ばれているようです。不自然にならないように話の内容を聞いて見ます」
『……』
カナの話に相手が返すことはない。だが、通話が繋がっているという事は相手に伝わっているという事。カナはそれだけ言うと通話を切り、ポケットへとしまうとぶらぶらとヒフミを待つためにその辺を歩き始めた。
ふと、空を見上げる。雲一つない快晴な空が広がるのも眩しそうに見ながらカナは目をつぶり、深く進級をした。それは友人となったヒフミを騙している事で感じる罪悪感を拭い去るためか、それとも別の意味があるのかは分からないが呼吸を整えたカナはうっすらと笑みを浮かべて歩き出す。その瞳に諜報員らしい何処か乾いた何も感じられない無感情な色を宿しながら。